短編小説 「水」



僕の初恋の人は、可笑しな女の子だった。

彼女はとにかく水が好きだった。
「透明で、覗き込むと潤んだ世界が垣間見えるから好きなの」
と、常日頃から呟いていた。

その感覚は僕にはよく分からなかったけれど、雨の日も憂鬱さを見せず和かに過ごしている彼女は、美しかった。


ある雨の日、僕は彼女に心の内を打ち明けた。愛していると。
「ごめんなさい。水は、絵の具と交わると透明じゃなくなっちゃう。私はいつまでも透き通った心を持ち続けていたいの。」

相変わらずの哲学的な発言は僕には難しかったが、それほどまでに無垢な彼女を苦しめることはしたくない僕だった。

彼女は僕を絵の具だと言った。僕は何色なのだろう。美術の授業で、パレットにすべての色を出した。
バケツに汲んだ透明な水は、一度筆を沈めただけでじゅわりと色味を増していく。
たしかに、誰かと交わると透明なままでいられなくなるんだなと、妙に納得した。
最終的には、水は黒色に濁った。関わる人が増えれば増えるほど、彼女は自分らしさを失っていくのだ。




卒業して15年経って、彼女から手紙が来た。
薄い墨の万年筆で、気持ちがいいほどの達筆だった。
その手紙の結論としては、僕は彼女に久しぶりに会うことができるようだった。

僕は滅多に羽織らない洒落たジャケットを着て、プレゼントとして透明なガラス細工と、水をモチーフとした透明のジュエリーを買った。妙に緊張していた。
僕の初恋は、まだ終わっていない。


「久しぶりだね、変わっていないね」
水を愛する、透明なままの彼女がそこにはいた。


「水って、
透明なままでも彩ることができるんだね」

彼女の涙交じりの微笑みは、僕を傷つけた。
僕だって、君を彩ることができたよ、と。

だけど幸せそうな彼女は、
今まで見てきた中で一番美しかった。
純白の、まるで透明のウエディングドレスを身に纏った花嫁。
幸せになれよ、と僕は笑った。


おわり

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?