私が障害者になったときの話

 私は障害者である。
 誰に対しても隠すつもりはないが、とりあえず外見上では「そう」見えないので、職場でも私が障害者であることを知らない人は多い。
 先天性のものではないため、以前の私は「障害者」に対する偏見を持っていた。自分がその立場に立って、初めて気づいたことだけど。
 今も、多分ある。
 自分の中に偏見がある事は事実として受け止めるしかない。でも私がどうして障害者になり、自分の中の偏見に気づいたのかの話をしたい。ちょっと長くなるので、今回は障害者になった原因についてだけになるけれど。
 自分の失敗も無知も、誰かの一助になれたらいいな…という気持ちを込めて。

 私の障害手帳は2冊ある。
 身体障害者手帳と精神障害者福祉手帳だ。
 身体障害者手帳に記載されているのは、右上肢体不自由、右下肢体不自由だったはず。確か。以前は常に持ち歩いていたけれど、一度無くしかけたので、自宅に保管しています。保管していたんですが、保管場所を忘れてしまいました。無念。
 まあ、そのうち出てくるでしょ、実印みたいに!実印みたいに!!
 そして、精神障害者福祉手帳に記載されているのは、高次脳機能障害。
 手帳に記されていない障害もある。

 まず、目。
 物が2つに見える。乱視は元々持っていたのでどんな風に見えるかよく知っているけど、乱視どころじゃない。キッパリくっきり物が2つに分かれている。自分の指を1本立てれば、2本になる。さらに、遠近感がぐちゃぐちゃである。よって、車を運転している時に突然子供が飛び出してきた場合、どちらが実像か判別できない。判別できないから回避行動を誤る可能性がある。
 その場合、「過失運転」にはならず「殺人罪」が適用されるよ…お医者さんにそう言われて、車の運転は諦めました。今は。
 いつか、サポート機能が充実して、私のような状態でも安心して運転できる日が来ることを信じています。PHeVも大事でしょうが、自動車メーカー各社は、こちらもなるべく早く頼みます。そしたら、事故だって減るかもしれないし。

 それから耳。
 聞こえが悪い。全く聞こえないわけではないので、生活に支障はほとんどないけど、聞こえが悪い理由は多分、24時間聞こえている甲高い耳鳴りのせいだと思うので、不愉快であるのは変わりがない。

 あとは、嚥下能力の低下。
 いわゆる誤嚥。そこまでひどくはないけど、食べる時、飲む時はゆっくりを心がけましょう…なんて言われましたが、あまり気にせずに飲み食いして、たまに盛大に噎せるのは、そういう理由からです。
 肺炎は肺炎でも、私はコロナじゃなくて誤嚥性肺炎が先かもしれんなぁと噎せた後に遠い目してたら、ばーちゃんかよ!とツッコまれました。
 それに近いんですわーと笑って返したけど、多分、理解して貰えてない。仕方がないことだ。

 他にもある。
 神経因性膀胱。携帯用カテーテルを推奨されたけど、抵抗があってお断りした。
 とりあえず、用を足しにくいってことだ。膀胱炎なんていつものことさ。

 だらだらと羅列したけど、これらの障害は1度の事故で発生したものだ。
 ほんの一瞬の出来事だった。

 2Heartsのライヴ遠征から戻り、気力満タン、いつもより気合い十分で出勤した時の話。
 通勤路最後の大きな交差点で、私は信号待ちしていた。左折の矢印が出て、ノロノロと進み始めたけど、私の直前で信号が青になり、自転車が横断歩道を渡り始めた。
 当然だけど、私はブレーキを踏んだ。隣の車線の車も停まった。
 でも、私の後ろの車はそれに気づかずにアクセルを踏んだ。
 衝撃が来た。
 後ろからと、そして前からと。
 気づいた時には、3車線の真ん中にいたはずの私の車は歩道近くにまで移動していた。
 慌てて外に出た。自分の状態に変化はないように感じた。
 前から感じた衝撃は、横断歩道を渡っていた自転車からのものだと確信があった。
 自転車の運転をしていた人は歩道に寝かされている。
 その周囲に数人の人。
 救護活動していた中に数人、当時の同僚達がいた。
 自転車に乗っていたのも、同僚だった。
 歩道に寝かされ、痛みに呻いている同僚の頭側に1人の男性がいた。事故を起こしたことを報告している。私の後ろの車の運転手だった。
 報告なら警察か。ならば救急車は?
 問うた私に、彼はけろりとした顔で言った。
「連絡してないよ。警察にもまだ」
 驚いた事に、彼は嫁へと第一報を入れていたのだ。
 結局、救急車を呼ぶのも、警察へ連絡するのも私がやった。
 救急車が来て、自転車の同僚を搬送し、警察が来て現場検証を行った。この時、救急車が応急処置道具を入れた鞄を放置して警察が苦笑しつつ回収したのだが、そこから後の記録は朧げにしか残っていない。
 気が付くと上司と親が到着していた。
 職場の近くだったからね。
 そのあと、首が痛い程度だけど念の為にと近所の整形外科に行き「頚椎捻挫」の診断と湿布を貰って帰宅した。
 この時、私も救急車に乗っていれば、今と違う状況になっていたかもしれない。

 そこから、私は謎の体調不良に見舞われるようになった。
 気持ちが悪い。吐き気がする。頭が痛い。捻挫した首の痛みも取れない。
 もっと設備の整った病院で検査して貰った方がいいと、市内にあるそこそこ大きな病院に転院した。首に関する第一人者がいる整形外科があるからだ。
 転院した先で、最初の診察は整形外科ではなく、外科だった。
 事故の患者は外科で診るのが決まりだそうだ。
 私の顔を見るなり、院長だか副院長だか忘れたけれど、外科の医者は言った。
「僕、事故の患者は嫌いなんだよね。今からでも転院してほしいぐらい。でも仕方ないから、リハビリには通わせてあげるよ」
 なお、医者は私の「診察」はしていない。
「治療終了」にされて追い出されるその時まで、1度も「診察」はしなかった。 でも、リハビリ継続のために、月に1度、医者の面談を受ける必要があった。それが苦痛だったのを覚えている。人権も何もありゃしない。罵倒されるだけだったから。ICレコーダーを購入して持ち込んだこともあるぐらいだ。
 あまりに腹が立って、聞き返すのが嫌だったからデータは即刻削除したけど、残しておけばよかった。
 1度、面談中に看護師が医者に「救急車が来ました。お母さんと娘さんで、事故に遭われたそうです」と報告に来たことがある。
 医者は嫌そうに言った。
「僕、事故の患者と子供は嫌いなんだよ。帰して」
 ドラマや小説以外に、そんな事を言う医者が実在するとは思わなかった。ただ、呆気にとられるしかなかった。
 毎日リハビリを受けてはいても体調不良は治らない。
 どんな不調があったのか、私は手帳に記しておくことにした。面談の際に役に立つと思ったからだ。
 毎回、ここがあそこがと言い募る私に業を煮やしたのか、医者はある時「首の第一人者である」整形外科医の診察を受けていいと言った。「特別だよ」と恩着せがましく。
 けれど、その医者は画像を診て言った。
「首に異常はないよ。右側に痛みがあるとか、調子が悪いとかは保険金を貰いたいがために君の心が作り出した詐病だ。君に必要なのは整形外科医ではなく、心療内科か精神科医だ」
 なので、私は当時不眠の治療に通っていた心療内科の先生に包み隠さず告げて、自分の心が生み出した不具合ならどうにかして欲しいと頼んだ。
 先生は激怒した。
 詐病ならば、自分達の分野だが、君の場合は違うと断言してあげるよと。
 なぜ、断言したのか明言は避けるけど、専門家(しかも病院の格が違った)が言うなら間違いないだろう。
 その頃には、不調は痛みとかだけではなく、体を起こした体勢を保つのも大変な状態になっていた。
 おぼろな記憶しかないけれど、仕事中、現場の人の休憩室に畳があったのでそこで寝て過ごす事が多かったように思う。時々、現場のおじちゃん達が言葉を掛けてくれていたような気がする。現場のおじちゃん達とは、会う度に掛け合い漫才みたいに言葉遊びをして笑ったり、時には八つ当たりの真似をしたりで仲が良い人が多かったから、私の変わりように驚いたと後に教えてくれた。
 そんな不調があったにも関わらず、保険適用期間の終了と同時にリハビリの終了を告げられた。
 それを知った療法士さんが教えてくれた。
「本当はね、君がリハビリを受け始めた時、首におかしな腫れがあったんだよ。髪の生え際のこのあたり。先生が診てくれていたら、原因がわかったのかもしれないけど」
 でも、療法士さんは進言出来る立場になかった。
 ただ、少しでも良くなるようにと、温めたり、首の牽引をしたり手を尽くしてくれたらしい。腫れはやがて治ったとのこと。
 この話も、全て終わった今にして思うと、私の体の状態に関する重要な手掛かりだった。

 そんなこんなで「治療終了」させられた私は、保険会社と相談しつつ、いろんな病院をハシゴするようになった。
 仕事が出来ないくらいの不調の原因が分からないのが気持ち悪く、突き止めて治したかったからだ。
 ある病院は検査の結果、右半身の異常が認められると言った。だが、原因は分からない。出来るのは対処療法、薬や鍼、アロマで緩和させるぐらいだった。
 その前後で、私は足首が真っ黒になるほどの捻挫をした。
 足を踏み出したら、うまく足が上がっておらず、足首が曲がったままの状態でそこに全体重をかけた。
 あまりにひどい色だったので、思わず写メって同僚に見せたぐらいだ。

 思いつく限りの事をした…と思う。
 SOSを受け止めて、某大学病院が診察してくれることになった。
 大学病院だから、いろんな科がある。1つの科で分からなければ、別の科で調べることが出来ますよ。そう言われて、足首の捻挫で通っていた整形外科の先生に紹介状を書いてもらい、受診した。
 ようやく、手掛かりが掴めるかもしれない。
 期待しながら入った診察室で、医者は私を見ることなく言い放った。
「君は、今までにも幾つかの病院を受診しているね。そこで出された診断結果以外、僕も出さない。結果を変えるのは木星にロケットを飛ばすぐらいに難しいことだよ」
 ならば、別の角度から調べて欲しいので、他科への依頼をお願いします。
 電話で相談に乗ってくれた地域医療連携室の人から教えてくれた事を頼んでみた。
「僕は絶対に書かないよ。君の紹介状を書いてくれた先生は広島医大出身だろう?なら、広島医大への紹介状を書いてもらいたまえ」
 診察室で号泣したのは初めてだった。
 なお、余談であるが、こう言われたので、もう一度紹介状をお願いしますと言ったら、地元の整形外科の先生の顔が般若になった。
 絞り出すような声で「僕は広島医大出身じゃないよ、某医大の出だ」とおっしゃられ、無言で紹介状を書き始めた。看護師さんも私も居た堪れなくなる空気が未だにトラウマとなっていて、たまに「捻挫した」「事故った」と顔を出す度に機嫌を損ねないよう身構えてしまうようになった。

 そんなこんなで、手を変え品を変えて検査を受けたり診察を受けたりしても何の進展もないまま時間が過ぎた。
 保険会社からはそろそろ仕舞いをしましょうよと言われるようになり(なんでも私の保険の担当者と相手の保険の担当者は知り合いで、居酒屋で飲んで落とし所を見つけたらしい。いいのか、それ)、諦めかけていたときに、あるネットニュースを見かけた。
 医者や保険会社に認知されない症状で苦しむ人が多く、その人たちのために尽力する団体の話だった。
 その症状は自分と重なるところが多い。
 藁にも縋る思いで、その団体に連絡を入れた。
 やばい団体だったらどうしよう…そんな危惧もあったけど、最後の手掛かりかもしれない。そう思う気持ちの方が大きかった。
 その団体の代表は、あっさりと言った。
「聞く限りでは、その症状は我々が支援している人たちに似ています。その症状を専門としている先生の診察を受けますか?」
 そして、あっという間に私はその先生の診察を受ける事が決まった。

 その先生は、初診患者の診察には45分という枠を割くらしい。
 45分も何をするんだろう?疑問に思いながら、指定された病院に行って驚いた。
 普通の町医者の病院だった。
 通された診察室で2度びっくりした。
 机や棚や椅子、なんなら診察台の上にも本や資料が山と積まれている。
 紛う事なく町医者の診察室である。
 特別な検査設備とかも無さそうだった。
 石橋というその先生は、体を私の方に向け、じっと話を聞いてくれた。
 それだけでちょっと感動した。
 それまで頼った医者は、私よりもパソコンの画面をみるばかりだったので。
 話を聞き終わった先生は、立ち上がって私の目の前にボールペンを突き出した。それを動かすから、目で追えとのことだった。そんな事ぐらい簡単だ。私は言われた通りにした。
 その後も、先生は綿棒を取り出してみたり、黒いゴムのついたハンマー(打腱器というらしい)であちこち叩いてみたりした。握力計なんかも出てきた。
 45分はあっという間に経った。
「君は」
 先生が口を開く時、物凄く緊張した。
 また原因不明か。それとも手掛かりがあったのか。
「脳卒中の後の片麻痺に近い状態になっている」
 のうそっちゅう。
 予測もしてもいなかった言葉が出て来た。
「これまでの医者も、君をよく観察していたら気づいたはずだ。右の目の動きがおかしい。右手の握力がありえないほど低い。呂律が回っていない」
 出るわ出るわ、自分でも気づいてなかった不具合を先生が並べ立てる。
「だから、精密検査を受けておいで」
 看護師さんが手招きする。
 先生は次の患者さんの診察に入るようだ。
「先生から指示された検査を受けて来てください。こちらから紹介状を出します」
 紹介されたのは、慶應義塾大学病院の各科だった。
 先生は、なんか凄い先生だったらしい。

 そして、長期にわたる検査の結果、私の不具合が見つかったというわけである。
 そのいくつかが障害認定される程度であったことから、障害者手帳を申請することになり、今に至る。
 検査を受けている間にも、石橋先生の診察を受けていた。
 慶應の先生から送られた検査の結果により検査項目が増えて、慶應だけではなくあちこちの病院に出向いた。最新の検査機器により、私の不具合の原因となった傷が確認された。
 それは小脳にあった。
 事故患者が嫌いな医者の病院で、リハビリを担当してくれた療法士さんが教えてくれた「腫れ」のあたりだった。
 石橋先生はこうも言った。
「受傷後、2週間以内に適切な治療を受けていれば、障害は残らなかったかもしれない。残っても、手帳を申請するほどまでのものではなかっただろう」
 軽度外傷性脳損傷。
 私の障害の原因となった症状をこう呼ぶらしい。
 私の手元には、今も当時の資料が残っている。
 障害手帳を申請する程度の後遺障害が残ったにも関わらず、保険の処理に置いては「後遺障害と認めず」という判断が下ったため、石橋先生が軽度外傷性脳損傷の事例を多く扱う弁護士さんを紹介してくれて、異議申し立てを行ったからだ。
 最初に受診したいつも行っている病院のカルテ、事故患者が嫌いな病院のカルテ、不調の原因を探るために訪ねた全ての病院のカルテと画像が揃えられている。
 けれど、自賠責の後遺症認定結果は覆らなかった。
 一番の理由は「事故から時間が経ち過ぎており、事故との関連性が認められない」ことだった。
 小脳の傷は、画像を撮影した機器が最新すぎて、裁判では使えなかったらしい。
 事故から時間が経った理由は、不具合の原因を突き止められる医者がいなかったことと、途中で乳がんになって検査を中断したことだ。
 事故から手帳申請までの間に、足首などの捻挫は何回かあったが脳に傷がつくほどの大きな怪我はしていない。私の健康保険の受診履歴を調べればすぐに分かるだろう。
 それでも、と弁護士は言った。
「もう一度法廷で争っても、勝てないだろう。保険会社側には軽度外傷性脳損傷の存在そのものを否定する医師がついている。裁判をしてもいいが、君の保険には弁護士特約がついていないだろう?負ける可能性が高い裁判を維持するのは君にとっても不利益となる」
 というわけで、後遺障害は認められないまま、示談となった。
 私は突然にどこからか降って湧いた障害を抱える障害者となった。
 国や地方自治体、医療機関が「外傷による後遺症」と認めてくれているのがせめてもの救いか。

 軽度外傷性脳損傷で苦しんでいる人は、多分、皆が思っている以上に多い。
 日常の至るところに、その危険は散らばっている。
 乳児の揺さぶられ症候群もそうだ。私のように事故の衝撃で脳が傷つく人もいる。脚立から落ちてなった人もいる(これは労災で争われていた)。頭になんらかの強い衝撃を受けることで、誰しも軽度外傷性脳損傷になる可能性がある。
 もしかすると、自分がそうであるとは知らずに「原因はわからないけど不調だ」と思っている人がいるかもしれない。
 医者に助けを求めても、ゴミを見るような目で「それは詐病だよ」とか「僕は他の先生の診断結果を変える気はないよ」と言われているかもしれない。それは、医者の「知識」がないからだとは考えず、泣き寝入りしている人がいるかもしれない。
 そんな人達を掬い上げて、適切な治療やリハビリへと導いてくれた石橋先生は既にお亡くなりになった。
 でも、今、検索をかけると、東京を中心に各自治体が「軽度外傷性脳損傷」の知識と予防、万が一の時について啓発活動を行っている。この活動で、私のように困り果てて診察室で号泣する人が少しでも減ってくれたらいいなと思う。

 これまでにも何度か、この一連の流れを文章にまとめた。
 今は消えたHPのブログとか、twitterへの投稿とか。そうして何度か事故当時の警察資料(これも裁判資料の中にあった)を見直しているうちに気づいたことがある。
 軽度外傷性脳損傷の判定にあたり、「30分以内の意識の喪失」が問われる。
 私の中で、事故の直後から事故にあった同僚の状態確認、救急車と警察への連絡の記憶は繋がっている。今も、ちゃんと思い出せる。
 でも、よく考えるとおかしいことがあるのだ。
 後ろから追突されて押し出された衝撃の後、私が車を止めて運転席から飛び出した時、自転車に乗っていた同僚は、既に歩道で寝かされていた。事故に気づいた出勤途中の同僚たちが何人も歩道脇に車を停めて介抱していた。
 私は車を停めて、すぐに飛び出したはずなのに、である。
 もしかすると、意識の喪失が起きていたのかもしれない。

 それに気づいたのが事故から何年も経った後なので、今更どうこうするつもりはないけれど、もしも、この文章を読んでいる方が頭に衝撃を受けた時には、自分の記憶の整合性を確認してほしい。そして、記憶にズレがあったなら、町医者ではなく、ちゃんとした病院の脳神経外科や神経内科などを受診してほしい。
 事故から近ければ近いほど、障害が残らなくなると聞いたので。
 あと、診察した医者があなたの訴えを鼻で笑うクソ野…失礼、ヤブ医者だった場合は速やかにセカンドオピニオンを選択してください。手続きが面倒なら、何も言わずに他の病院を受診してください。
 医師は専属である必要はありません。いくらチェンジしてもいいのです。
 医は仁術。でも医者も人。
 患者に寄り添ってくれる医者も入れば、ベルトコンベアで流れてくる不良品を修理してるだけの医者もいる。自分や家族の健康を、命を預けるに足るか、しっかりと見極めてくださいね。

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