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舞台の上に、別の世界が立ち上がる。それは確かに目の前にあって、しかも、いま、ここ、にしかなかった。演劇は魔法だ。と、考えなしにそう思えていたのは、じっさいに舞台づくりに参加する前の話。その魔法は、どこまでも汗臭い人間同士の、話し合い、言い合い、練習、練習、失敗、どうしようもない挫折、許しあい、もろもろ、という、生々しい現実のうえに成り立っているのだと分かった。それだってこの世界の一部でしかないけれど。
そんな、しんどくて楽しい舞台人の日常と、観客の日常が交錯して非日常が生まれる。その瞬間が、私は好きだった。作り手の立場でなくなった今も、好きなのは変わらない。だから、舞台の本番というものが簡単に壊れてしまうのが、悲しい。やむなく中止した舞台に関わる人々、それを決断した人たちは、どう思っているんだろう。
もし友人が公演を中止したとして、私はそれに対してなんて言うだろう。なんだか、すぐに「仕方ないね」と言ってしまう気がする。そして、言った瞬間に、あっ、いまのなし、と、思う気がする。なんだか違う。私が思っていることと、違う言葉だ。「仕方ない」って、いかにも、これでおしまい、と言っているようで、嫌だ。少なくとも、私がいうことじゃない。「仕方ない」かどうか、それを言えるのは、本人だけなんじゃないか。
言葉って何なんだろう。口に出すとそれがひとりでに飛んで行って、もう私の言葉じゃなくなるような感じがする。そう思うと何を言うのも怖い。その辺りで飛び交っている言葉たちも、それぞれの口から飛び出す前にどんな姿をしていたかなんて、誰にも分からないのかもしれない。
今は、人が集まるのは極力避けた方がよいと思うし、私は幸いのんびり家で過ごしていられるからそうしている。けれど、その間に、私の好きなものが、それに関わる人たちが、世界から消えてしまいませんように。あの劇場の。あの劇団の。書店の。カフェの。彼らがちゃんと生きていけますように。自分勝手に祈る。こんなことを言っていられるのも、きっと私が恵まれているからで、傍から見れば、呑気に見えるだろうなあと思う。好きなもののために何が出来るかとか、いま、少しずつ考えているけれど、具体的にはまだ何も出来ていない。けれど、祈るのも、私にとっては意味があるように思えて、とにかく、祈るのだけはすぐできるから、急ぎ、祈る。