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10月12日 悩みが尽きない...!

「勉強」に人生を破壊されている。
学校で教える勉強とは違う、本質的な意味での「勉強」が周囲との違和感を際立たせる。多分私は「勉強」に魅せられてしまったのだろう。(千葉雅也「勉強の哲学」参照!)考えることの楽しさ、ソクラテス的に言えば「知を愛する」ことーーが日常生活を侵食していってる。
学校の友達は勉強と日常(会話)を切り分けて考えている。授業があり、10分休みがあり、また授業……といったように。しかし、私は「勉強」と日常が地続きに存在していて、授業も会話においても新しい発見があり、考えること=「勉強」の萌芽が眠っているのだ。
そうなってくると、友達との会話においてズレが生じてくる。
友達は勉強/日常の明解な社会生活(学校生活)を送っている。だが、私の世界では勉強/日常の構造はとっくに機能しなくなっていて、「勉強/日常の構造」が”全て”である学校という「社会」において、私は立ち止った存在、比喩的に言うなら「社会」という前進運動を続ける空間において私は立ち止まり、それゆえに「逆風」が吹き付けている状態なのである。
例えば、会話である。
友達との会話において「一番かわいい女子はだれか?」という話題になる。友達は「〇〇が一番だよ!」「いや、☓☓が一番かわいい!」と至極当然のような会話を始める。私も初めの内は会話の流れに沿った発言をするが、だんだんと自分の中に自分を「メタ的にみる自分」が押し込めていた無意識のうちから浮上し始める。そして、「メタ的にみる自分」はひとりでに語り始める。「女子のかわいさの基準なんて人それぞれ」「そもそも人を上から評価するという行為自体、誤りである」「かわいい/かわいくないの二項対立は人の表層部分のみしか見てなく、内的なものを加味した総合的な評価が正当である」……といったように。そして「メタ的にみる自分」の「メタ的に語る欲望」に耐え切れず、会話に水を差してしまう。
「女子のかわいさの基準なんて人それぞれじゃない?」

この違和感に気づいたときには引き返せないほど「メタ的にみる自分」は強固だった。どうすればいいのだろう。現状学校生活を俯瞰で見つめ、それを批判や疑問視する行為によって、孤独感や分かり合えなさがより強調してしまっているように思える。
まずは「メタ的に語る欲望」に負けないことだろう。本来成立している会話に身を任せ、決められた音を鳴らす意識で会話する。つまり「メタ的にみる自分」を「メタ的にみる自分」を生成することで、学校生活=社会に回帰する、それが今の目的だろう。
「学校生活ーー自分ーーメタ的な自分ーー「メタ的な自分」をメタ的に見る自分」この関係式を作り出さないといけないほど自分は社会から遠い位置にいるのだな、と悲しくなる。
もっと純粋に、疑いなく社会に適合し、疑いなく恋愛をし、そのまま大人になって、なんの疑いもなく社会に還元する、そうなりたかった。今はただ自分の中にある抽象的な思弁癖に苦しめられている。


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