花のない家
実家に花が飾ってあるのを見たことがなかった。
というか、そもそも私には実家がない。
正確に言うと、実家たるものがない。
最初の家は私が六歳の頃まで住んでいて、一軒家で、いわゆる「実家感の強い」家だった。
これまで住んだ家の中で、その家が一番広かったらしい。私の体は小さかったから、大人になって母から聞くまで、まるで実感したことがなかった。私はのちに親の都合で6回に亘りいろいろな家に引っ越したのだが、どの家も広く感じたし、どの家にも不便さを感じなかった。
たしかに、両親の都合によって出された結論を、ただ受け取ることしかできない年齢ではあった。それでも自分の家族が周りと比べてやけに引っ越しが多いことに対して、不満はなかった。寧ろ、遠足や旅行に行くような高揚感に包まれていたほどだった。安定した実家がほしいなど、実は一度も願ったことがない。
千葉の内陸側で育った私はそのあたりを転々とし、住処として選ばれたのは古かったり新しかったりする賃貸マンションだった。最初の家と比べると面積は狭くなったものの、ありがたいことに親はいつも私の部屋を確保してくれた。
私が中学2年生の頃。母が「では解散!」と突然、一家離散を宣言した。父が浮気相手と長電話をし、払えないほどの高額請求書が届くという、やらかし案件をしてしまったからである。
どれくらい切羽詰まった状況であったかを物語る、エピソードをあげてみる。
その宣言が起きる前の、ある日のこと。
苛立ちが最大限に達した母が、寝ている父にサラダ油をかけるという小さな事件が起きた。父の雄叫びに目覚めてその部屋に飛んでいくと、サラダ油を顔にかけられてテカテカに光った父が、目に混入してしまったサラダ油をしきりに拭おうと、悶絶していた。母が本来やりたかったことを汲み取ろうとして、「お母さん、そんなんじゃ燃えないよ〜」と私は笑いながらフォローを入れたが、それは空気を読まずに放ってしまった一言で、父を深く傷つけ、不穏な雰囲気がただでさえ濃く漂っていた私たち家族に、痛烈な亀裂を入れてしまった。
具体的な進展としてはその後、両親は離婚届を提出し、私は母にくっついて新たな暮らしを再開した。5回目の引越しをしたのはその時だ。「ヤドカリみたいだね〜」と母と2人でよく話していたけど、ヤドカリだってここまでしつこく鞍替えはしないだろう。母の体は萎んでいって、私の体は大きくなっていった。その家はちょうどいい広さだった。
話を戻すと、私が一番最初に住んでいた家は、いま思うとやっぱりとても素敵だった。あの広さをあますことなく堪能できずにいたこと。それは随分と勿体無いことをしたな、といまでは思う。
2階には私たち家族が住み、階下には祖母と祖父が住んでいて、いわゆる二世帯住宅だった。出入りする扉が二つあり、完全に分断された構造で、母もその点においては過ごしやすさを感じていたと思う。過ごしやすく、物理的にも広い家なのに、その中はいつもくすんだ色をしていた。
というのも、茶色を基調としたアンティーク風の家具が、居室の雰囲気を沈めていたからだ。ミニマリスト気質の父によって選ばれた家財ばかりで、何か一つ物を置く際にも父の中では特定の規則があるらしく、リモコン一つとっても、その位置にこだわりがあり、本が三冊あるとすれば角をピッタリあわせて机の上に重ねるか、横に一ミリのずれもなく並べられていた。
だから、例えば髪の毛が床に落ちていると、父は小姑みたいに「一本あったわよ〜」などと掃除をしたばかりの母にいうので、激昂した母の手からフライパンが飛び、父の顔に直撃しかけたりもした。(母もまた潔癖症なので、我が家はとにかく綺麗ではあったのだが。)
まあ要するに家の中には父の秩序が形成されていたわけで、父は仔細に室内の観察を繰り返し、余分なものがないか監視の目を光らせていた。そのこだわりの強さから、私や母は家具を増やすことや、物を家の中に引き入れるのを諦めたのだ。(やるとしたらこっそりと、だ。)
私たちを悩ませたのは、父のこだわりの強さだけではない。父は度々、勝手に人の物を捨てた。その行動は母との喧嘩の火種になった。母が大事にしていたCDや雑貨などもよく消えた。良く言えば父に厳選されたものだけが居室に残り、散らかすだけの物はなかった。遊び心とか差し色なんて、皆無。
そんなわけで我が家からは、明るい色が徹底的に排除されていた。
だから、家から一歩外に出た時に目にする、さまざまな色を織り交ぜた空間は、小さな私の心を興奮させた。ディズニーランドに行ったりジブリの映画をみているときは、テーマパークや画面上に溢れている多色な風景やインテリアに見入った。トトロに出てくるサツキとメイの家は、赤色の屋根の洒落た西洋風の造りで、瑞々しい緑の中に立つその家は見事に情景と調和し、視界に広がる色味が豊かだ。家族って色があるんだなあ、とあの時は鮮やかな色に愛情を結びつけたりして、そんな乱暴な考えに、何故かしょんぼりしたものだった。
こうして、家で叶わなかったことは、私が身につけるものや、キャンパスに走らせるクレヨンの色を明るくさせることになった。現実を掻き回すように、さまざまな色を手に取って、心ゆくまで堪能した。目が醒めるような赤や蛍光色の黄色、くすんでいない青にゴールドの絵の具。心が躍る配色ばかり。父親の職業はデザイナーだったので、もしかしたら強固として貫いていたあの姿勢にも、何かしらの意図やおしゃれの含みがかったのかもしれない。
それにしてもセンスねーなマジで。
と、今でこそそんな悪口が父に対して出てくるが、それは今の私の生活があまりにも自由だからだろう。自由に家具を選び、壁や床の色までをも選び、何を置き何を飾るか、すべてが委ねられているからだろう。
今の私は30歳であり、30歳の生活としてそれらしいものはなにかを考えている。模範解答はないものの、カラオケでの選曲や、他者との振る舞いの中で求められる応酬と同じように、「年齢相応の生活」という、一種のパターンが決められている気がしてならない。そこにどれだけハイセンスな個性をぶち込むことができるか。常に問われているようで、毎日、家に帰るたびに「これでいいのかなあ」と自問自答をしてしまう。要するに、家の中身に対して、腑に落ちていない。というか、家の中身に対して自信がないのだ。このことについて考え始めたのは最近のことで、毎日欠かさないでいるクイックルワイパーを床に走らせながら、もどかしさを解決できる終着点について考える。
何が足りないんだろう?
父のクセが引き継がれたのか、30歳の私の家の中には、余剰となる家具は一切置かれていない。あくまでも機能性重視だ。掃除は抜かりなく時間をかけて、丁寧に家ごと磨く心持ちで取りかかっているものの、置かれている家具の色のバランス、そして中身がしっくりきていない。
来客が我が家にやってきて、室内を一瞥し、口を突いて出た最初の一言は「わーめっちゃ片付いてますね!」だ。
「わー、すってきー!」ではないのだ。
やっぱり大人になると、大人の部屋ともなると、「すってきー!」と言われたいものだ。「すってきー!」の中にはセンスの良さのみならず、人生観を内包している気がする。そして人生観を形成するにあたって、どんな生活を家族と送ってきたか、家との過ごし方も審査基準に織り込まれている。そんな圧を感じて、気が引けてしまう。
要するに家コンプレックスだ。
そんなのがあるかは知らんけど。
茶色から白に変わっただけ、と気づいたのもそのときだった。
実際、私の今の家は白まみれだ。何をどう思ったのか、真っ白であることで全てのバランスが整うような気がして、リビングのソファとテレビとカーテン以外は、ほとんどを白にまとめてしまった。といってもそれらも、ハウススタジオのようになんとなく規範的に思える組み合わせで購入したわけで、良いのか悪いのか、よくわかっていない。白い充電器スポットに白い整理棚、リビングのテーブルも白、洋服や下着を入れる箪笥、天窓にかけるカーテン、寝室においては全面白。数ヶ月前に、ベッドも枕カバーもベッドシーツも白に新調してしまったのだ。白、白、白…。
白に走るのは逃げなのではないか?と思う。白と黒にしておけば間違いがない、というのはファッションの定則の一つとしてあるけれど、個性の冒険といった点においては随分と遠いところにいる色。な、気がする。
この色に退屈してんだな。
なーんて考えながら、スーパーの近くにある、可愛い可愛い花屋の前を通る。花というのは命の終わりが早い。水切りやらなんやら、長く咲かせるための世話や工夫があって、そして覚えきれないほど花には種類がある。もし、私の家に花があったら、どんなバランスになるんだろう?そういえばお母さんって、どんな風にしてたっけ?
あ。飾ってなかったか。で、冒頭に至る。
花屋に立ち寄ったものの、思考が止まる。どの花を選んでいいのか、まるでわからなくなったのだ。
結局、深いため息だけを残して、とぼとぼと帰宅した。些細なことなのに、どうしていいのかわからない。花一つも買えないだなんて。そんなことある?と随分ショックを受けた。
昔、SMAPの「世界で一つだけの花」が流行った時に、花と人間の個性を絡めたあの素晴らしい歌詞に胸を打たれたけど、その歌詞以外の部分で、「花屋ってそんな、頻繁に通ったり立ち止まったりするのかな?」と、思っていたことがあった。私の人生からは見落としていたジャンルで、花屋の店先に並んだ色んな花を見ても、感動することはなかった。
閑話休題。
親戚が陶芸家なのだが、先月、亡くなったそうだ。私は会ったことがなかった人で、写真で見た彼女は目鼻立ちがはっきりとした美人だった。
すでに執り行われていた葬儀には参加していなかったので、仏壇での焼香を済ませた後、彼女の作品が展示されたアトリエに案内してもらった。花瓶や壺やカップなど、たくさんの作品が並んでいて、彼女の年表も額縁に入れられ壁に飾られてあった。「よかったら持っていってね。気に入ったのがあれば」と案内してくれた親戚に勧められて、あたりを見渡す。欲しいものなんてあるかなあ、と思いながらも、ふと目があって、「あ」と手に取ったものがある。
何型といったらいいんだろう。
丸が二つ重なって、瓢箪のラインに近い。
雰囲気は、モダンっちゅうのかな。
アイボリーが混じった陶器の花瓶。
腕に抱くといっぱいになる、大きさ。
持つと案外重い。
「これ、いただいてもいいですか?」と私は親戚に言った。
「もちろんいいよ。でもそれ、大きくない?」
「大きいいのがいいんです」
「そうなの?」
「なんか、ドカーンとインパクトが欲しいんです、人生に」
「人生に?」
「あ、人生じゃないか。家に、です」
「家か」
と笑われて、いただくことになった。
白に溢れた部屋を邪魔しない、アイボリー色のその花瓶は、リビングの隅のワークスペースに置かれた。見た目は大きくどっしりとしているのに、何かの拍子で割ってしまわないかと怖くなって、滑り止めのシールを買ってきて花瓶の底に貼った。なめらかな新しい色が、私の家にこのとき差し込まれた。
花は、枯れる時がいちばんかなしい。
枯れる、という寿命そのものにかなしさを覚えるのもあるけど、花の寿命を伸ばすための世話と工夫を完全に遂行できていなかった気持ちになって、その無力さに浸ることがかなしい。無力というか、無知というか。我が家に呼んでしまってごめん、と両手を合わせるのはあまり心地よいことではなく、花を自然と避けてしまいがちだった理由の一つでもある。
母も潔癖なところがあるから、きっとこういう部分においては私と似ていて、花の美しさと日常の気忙しさを天秤にかけては、気が失せてしまうところがあったに違いない。だから私も、花に触れる生活をしたことがなかったわけだ。
てか、ググれば花を長く咲かせる方法くらい簡単に見つかりますよう?
、、、まあその通りなのですが。はい。今度からはそうしてみます。
と、まあ、その花瓶を得た勢いで、私は近くの花屋に行き、竜胆を衝動買いした。アトリエで貰った、その特別な花瓶にいけるための適切な花が何かはわからなかったけど、家の中には一切ない、鮮やかな青紫色に惹かれて購入した。竜胆はそれぞれの方向を向きながら、花瓶の中でちょこんと咲くことになった。
現在の状況。
帰って、玄関の扉を開けて靴を脱ぎリビングに入った途端、いの一番に目が合う高さに花がある。心が癒されるとか可愛いとか、みんなが語る花への愛がわかる。シェアできたような感覚に少しだけホッとして、そもそも花自体には、人を落ち着かせる作用があるのだと改めて身に染みて見入ってしまう。
花があると、なんか、部屋がようやく部屋になったような気がするんだが。
色があるから、これは、きちんとした部屋のような気がするんだが。
そう思うけど、あまりにも安直だろうか?
とはいえ、ずっと見慣れ、そして使い慣れ続けてきたもので生活の周りを固め、私はゆるやかな時間を獲得してきた。オンとオフの切り替えになる、自分だけの領域におけるこだわりは強いはずだ。だから30年の人生を経て経験する「初めて」は、思っていた以上に新鮮で、刺激的で、そういった「初めて」を取り入れるということは、「決意して受け入れる」ということでもあるわけだ。
あー入れてしまったよ。花という他人を。
家の秩序を、見事にぶち壊した。
親戚からいただいた花瓶に次いで、新しい花瓶を買ったのは最近のことだ。白色と黒色の混じった花瓶と、シンプルなデザインの緑色の花瓶を買った。ここに何を差すのかを考えているとき、仕事先で花束をいただいて、それを3つに増えた花瓶それぞれに、自分なりの加減で差し込んでいった。近くで寄って見て、また一歩引いて遠くから見てみる。バランスを整える。黄色も橙色も青も赤もある、花の群。
統一感は一切なく、絵の具を全色だしたパレットみたいだ。それでも花は発光する。電気を消した時にも暗闇の中には薄まった花の光があって、輪郭が咲いている。昼になれば光を貪欲に求めて窓辺に向かって顔が上がり、夜になるとシュンっと縮こまる。
実は、その子たちは二週間前に枯れてしまった。
再び近所の花屋に行った。新しい花束を掲げて部屋に入ると犬が近付いてくる。犬の高さに合わせて、紙で包まれた花束をその鼻先に近寄せる。「可愛いでしょー?」とたずねると、犬は花束の中に恐る恐る鼻を突っ込んで、フンっと唸り、クシャミをした。うん。
お父さん、お母さん。やっぱり花はね、家においたほうがいいよ、と言いたい。あなたたちとは随分いろいろなことから、それこそ言葉から、共有することからも離れてしまったけど。色があることの喜びは、これまで経験したどの家の生活より、光を感じるよ。そう言いたい。
私が過ごした家族の中には、あまりにも色が足りなかった。そのことが悪いとは思わないし、「花ってめっちゃいいじゃんー!」という、物凄く単純な結末に落ち着いてしまったわけだけど、でも、ここにくるまでには随分と時間がかかってしまったな、と反省もしている。
花は!!いい!!!
なので良かったら皆さん、私に定期的にお花をください。
まさか、花オチですか?という声が聞こえてきそうですが、これは典型的な花オチです。
「好きな花はなんですか?」と花の画像をアップするたびに聞いてくれる、優しいあなたへ。
それはマジでなんでも好きですよ。
向日葵も竜胆も紫陽花も百合もカーネーションもアネモネもガーベラもマーガレットもイヌノフグリもなんでも好き。
いや、最後のイヌノフグリ。
これは花か?
名前のひびきが、職業のこともあって惹かれている、それは多分にある。
でもまあ凄くかわいいから、花の認識でいるけど。
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