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担当マネージャーが母になった。

 まだ事務所が出来立ての頃、胸を高まらせながらAVの面接に来た私の目に、真っ赤なワンピース姿の女性が飛び込んできた。そのとき、私はなぜかドンタコスを思い出した。「はじめまして〜」と発せられたその女性の声と抑揚の加減が、ちょっと酒焼けした倖田來未さんのようだった。私より10歳年上のお姉さんだった。

 恵比寿に構えられたAVプロダクションに少しだけ気圧されていたので、私はおずおずと彼女に履歴書を渡した。 

 姿勢を正して、その人を観察する。

「すごい、綺麗な字だね!」とその女性は私の履歴書を目でなぞりながら「習字でもやってたの?」と続けて尋ねてくれた。それと全く同じテンションで「すごい、3Pもいけるんだね!」と明るい口調で話す女性はまゆさんと言い、その後、関係が深まっていくにつれてまゆ姉と呼び親しむようになった。その頃のまゆ姉は特にギャルみが強く、耳たぶには大ぶりのゴールのピアスが揺れて、それが書類をめくったりとかすかな動きを伴うたびにシャンシャンと鳴った。今にもサンバを踊り出しそうな雰囲気をたたえているまゆ姉は、私が生きてきた世界では触れたことのないカテゴリーに属する人だった。

 最初、私は他の意味でもびっくりした。AVに出演するのは女性でも、制作やプロダクションなどサポート体制をとる陣営側は男性社会だと勝手に思っていたのだ。だからまゆ姉が事務所を設立したメンバーだと(要するに事務所の中では偉い人なのだと)知って、驚いた。
 さらには、ギャルなのだ。
 AVの面接の際には必須の、自分がどこまでの行為を許すかを示す項目表の読み合わせのとき、「電マは使える?」「初体験はいつ頃?」「月に何回オナニーする?」と放たれていく刺激的な質問にも、全くいやらしさはなかった。あまりにもまゆ姉が溌剌としていたので、私も「使えます!」「16歳です!」「毎日します!」とハキハキした声で答えた。

「まゆ姉って倖田來未に似てるって言われないですか?」
 話が一区きりしたときに私がそう言うと「毎日5人には言われる〜」と言ったので、やっぱり、と思った。
「だからカラオケに行くと絶対にbutterflyとキューティーハニーを歌うよ!」
 まゆ姉がちょっと困った顔でそう答えた背景にリップサービスの気配を感じたけど、後に何度か行われた食事会の後、はしごしたカラオケ店で倖田來未顔負けの倖田來未を披露して場を盛り上げるまゆ姉に、パフォーマンサーとしての高い素質を感じざるを得なかった(と偉そうに語ってみる)

 初めてまゆ姉と出会った日のことはだから、強く赤く覚えている。

 2011年のことだから、13年前。

 デビューした頃からまゆ姉は私の担当マネージャーとしてケアとサポートを手厚くしてくれた。まだ事務所が出来立ての頃だったので、今のように数百人の女優や十数人のマネージャーを抱えている状態ではなかった。

 13年前、AVは今のように配信主流ではなく、無料で垂れ流される違法動画の損害をダイレクトに受けることもなかったので、AV業界全体が潤っていて良い時代だったと思う。

 デビューしたころは激動だった。私はその頃、仕事を断るということを全くしなかった。自分の名前がとにかく少しでも誰かの目に触れるようにと目一杯動いていた。というか、それくらいしかすることがなかったのだ。その頃はグラビアも全盛期で雑誌等の出版物も多く、オリンピックに伴ったエロ本規制の前であり、だからコンビニの本コーナーで私はしょっちゅう自分と目が合った。深夜のバラエティ番組のエロ出演枠や性にまつわる細かな仕事も豊富にあったので、殆ど休むことなく色々な仕事を受けることができて楽しかった。まゆ姉はいつもそばにいてくれて、私の些細な所作や発言や、機転が効いた言動をした際には褒めてくれた。
 例えばアダルト大賞で女優賞をとったときも、本を初めて出版した際も、その本が映画化されたときも、映画祭のコンペティション部門にノミネートされて原作者側としてレッドカーペットを歩かせてもらえたときも、野間文芸賞にノミネートされたときも、NHKで性教育の番組に出演したときも……。とにかく、大事な局面に立って緊張している私の近くで絶対的な応援をしてくれたのはまゆ姉だけだった。
 何より、私が次のステップに進むことに関して、まゆ姉は誰よりも喜んでくれた。単純かもしれないけれど、まゆ姉に褒められるたびに私のモチベーションは格段に上がった。私の一挙手一投足に全ての神経を傾けて見守ってもらえることは、今からしたらとても贅沢な時間のもらい方だったと思う。現在のように在籍する女優とマネージャーが増えてからは、なかなかそうした密度の濃い関係をマネージャーとの間で築き上げることや、女優の近況を把握しつつの万全なケアはやはり難しくなっていった。

 10歳しか年齢は離れていないけれど、10代の頃から見続けたまゆ姉は私にとって物凄く大人で、母親に近い存在だった。

 今の自分の年齢の頃、まゆ姉が面接をしてくれたんだと考えるだけでもとても不思議な気持ちになる。大人力、というものがあるのかはわからないけど、いつまでもまゆ姉の大人力には近づけない気がする。私の中で年齢の基準を置くとしたらいつもまゆ姉だ。まゆ姉が今の私の年齢だった頃、どんなことを考えてどんな行動をとっただろう、と空想を交えて振り返ってみたりもした。私が悩みを投げかけるたび、適切に、ごまかさずにまっすぐに答えを返してくれるまゆ姉の肯定と否定は、優柔不断で内弁慶な私にとっては絶大な道標だったのだ。

 そういえば、私の豪快な笑い方はまゆ姉に起因したものである。昔はもう少し、小さな花が咲くような控えめさと甘さで笑っていた(と思っている)
 今の私の笑い方は、引き笑いとドハハ笑いがミックスされた轟系だ(そんなジャンルがあるのかは知らないけど)まゆ姉は笑い方が大きかった。真っ白な歯が全部見えるほど口を開く、だから笑顔までもが大きい。私はもともと人と話すことが大の苦手で、相手が求めている返事を的確に素早く返す、大喜利のような会話が特に苦痛だった。スルーすれば良いことをスルーできず、冗談や皮肉であっても言葉の意義にとらわれてしまい、会話の途中で立ち止まってしまう。その結果生じる相手の心情の不明さを、不気味に感じていた。

 今でこそセクハラと問題視されるような相手からの一言に対して、13年前は「そのセクハラに値するような下品な発言に対してどんな気の利いたリアクションをとるか」で自分の評価が変わることもあった。要するにクソみたいな相手の発言をクソとして捉えてはならず、クソみたいな発言を浄化させてその場に笑いをもたらさなければならない。特にこの仕事をしていることで、「性」というセンシティブで安易に触れづらいカテゴリーに関する事を全許容していると勝手に思われることで、ウザ絡みをされることは日常茶飯事だった。超めんどくせ〜、とその当時の私は思っていた。

 食事会の時に横目でまゆ姉の動きを見ると、くまなく配慮が行き届いていて眩暈がする。相手のドリンクの残りが少ないとすぐさま「次、なに飲みます?私が飲んでるこれもめちゃ美味しいですよ〜」と声を張ってオーダーをとり、少しでも沈黙が生まれかけると「そういえば〇〇ってどうなったんですか?」などとその場を盛り上げるきっかけを与え、豪快に手を叩いて笑う。
「ゥドッッハッハッハッハッッッッ!!!!!」
 とまゆ姉は笑う。その笑い声にみんなもつられてフフフ…と笑う。伝播する愉快さに、何に笑っているか分からないまま私も笑ってしまう。誰かが「大倉さんって実はエロそうだよね〜」と脈略もなく下品なことを放ち、私がひやりとした気持ちを心の中で撫でていると、「正直…エロいです!!」と言ってまた「ヒャッヒャッヒャッハッハッハッハッッッッ!!!」とまゆ姉は笑っていた。
 今こうして書いてみるとあまりにも昭和感のある会話のラリーで、呪物のような悪質さを孕んでいるが、私はまゆ姉のその振る舞いに随分と感心してしまった。なんというか、怒涛の笑いによって立ち向かってくる下品という敵を一瞬にして宥めて落ち着かせてしまうような、色気を全て伏して健全な話題へと移行させるような、そんな説得力と迫力のあるものだったからだ。

 だから私はその時、「あ、このやり方なら真似できるかも」と思った。同時に、こんな笑いができたら無敵だ、と確信したのだ。

 正直、豪快に笑うのは体力を使う。普段大声を出さない私からすると、爆発的に声量を高めて腹から力を出す行為であって、その披露にも勇気がいる。だけど人によっては、誰かに笑ってもらうことで安心を得るケースもあるだろう。馬鹿にされたいわけでもあしらわれたいわけでもない、でも私の中にも「笑いに昇華したい苦しいこと」や「自分の中でも消化しきれない思い」があった。誰かに笑ってもらうことで別の着眼点を得て、その時の事象を俯瞰することもある。だから私は、笑おうと思った。笑うことを決意した。笑うなら盛大が良いと思った。まゆ姉みたいに明るくその場を照らせる、どでかいやつをドカンと一発相手にかまして濁っているものを全て蹴散らしたいと思った。

 ある日、まゆ姉に「まなちゃんの笑い方良いよね!」と言われた時、私はとても嬉しくて、「本当ですか?!」と思わず返した。
「うん、そのおばさん笑い、いいよ!!」
 まゆ姉が大きな目をさらに見開いて私に微笑みかけたので、「ですよね!ッファファファ!」と私も頷いてみた。控えめに笑おうとしても、初期の笑い方をもう忘れてしまっている。それでも、器用なまゆ姉のコピーができたことは大いなる達成感のあるものだった。

 とはいいつつ、その笑いでも太刀打ちができないこと、つまり泣きたいことはこれまであった。

 例えばデビューしたての頃、2冊目の写真集の時。こんなことを言うのはどうかと思うけどカメラマンさんが酷かった。天候の悪い沖縄のあちこちで、自然の中を巡り撮影をした。
 私はその頃、とにもかくにも仕事で日々を埋めていたので少し疲れていたのだと思う。体力的にも精神的にもナーバスだった。とはいえ写真集を出せるというのは一つのステータスで、写真集を何冊出すかは人気の指標になるし、売れ行きに応じて次のオファーがかかるから、短いスパンで出版してもらえるのは光栄なことだったのだ。なぜか全力で走ったり、大自然の中で裸になる、というのが写真集の鉄板と化していて、浜辺で照り返しの眩しい中、開けない目を無理やり開いたり、草や土の上に寝転がったり、そういう動きを当たり前にしなければならなかった。大きな笑顔、物欲しそうな顔、両腕をあげて飛び上がる、走る、ベットの上に寝転ぶ、という「動」と「静」をひたすらに繰り返す。寒くても暑くても、その気温とは関係のない写真集のテーマに沿った衣装を身に纏う。
 カメラマンさんによって、この辺りの体にかかる負担は大幅に変わる。楽しく撮り終わるのか、苦痛に終わるかは全く違う。体に痛みが起きないようにと緩衝材を駆使して寝そべらせてくれるカメラマンさんや、眩しくて瞼が痙攣している私を見て、目の開閉の楽な場所に移動してレフ板を外してくれるカメラマンさんもいる。神輿に担がれたいわけではない。かといって全く興味を持たれないままに撮影が進むのとどうなのか。普段はコミュニケーションをとりながら、その中間の温度感で撮影は行われていたけど、要するにこの2冊目の写真集はハズレだった。

 もう13年という月日が経った今は、良いも悪いも区別ができる。できないことは「できない」と言えるし、したくないことは「しません」と拒むことができる。とはいえデビュー当時は本音を発することによって、つまり当たり前の権利を行使することによって、「この子は使いづらい」という評価に繋がることを強く恐れていた。

 この数年の間、特にAV新法が出現してさらに意識の変革があったのだと思う。健全性を求められるばかりに制限されることも多くなったが、女優にとっては「言いにくい壁」を突破できる側面もあって、仕事のしやすさを担保してくれる時代に突入したとも思う。新人の頃はいついかなる時にも「YES」と快諾し、常に笑顔を絶やさないことで株を上げなければいけない、そんな圧があったと思う。だから当時は、自分の存在がまだ世の中では「生まれたての何か」という存在認識でいるうちは、態度も自然と萎縮されていった。苦しいことをも受け入れることで、成長につながるとばかり思っていた。

 話を戻して、2冊目の写真集はとてもしんどかった。秋の寒さがぐっと強まった日に、山の奥にある浅い川の中に1時間近く裸で全身を寝そべらせた。当たり前だけど川というのは寝そべるものではないから、川の底に横たわっている隆起した大小の岩角が背中に当たって、いくつものかすり傷ができた。頭を無理やり水面から浮かせた形で胸の前に腕を組み、祈るように全身を水に浸らせて寝ていた。その次には壊れたガス栓のせいでお湯がつかない古民家のシャワールームで、冷水を長い間浴びながら写真を撮った。「入って」「そこに寝て」「笑って」「なんで笑わないの?」とカメラマンが淡白に私に告げる。その場に醸成されていた空気は、いつまで経っても底冷えしながら重かった。

 でも私が一番震えたのは、暫く黙って撮っていたそのカメラマンが突然、「君、笑顔つくるのめちゃくちゃ下手だね。撮りにくいって言われない?僕、こんなに笑わない女優と会ったことないよ」と顔を歪めて私の顔に指さしてきたことだった。
 私は、そんなことを言われたことは一度もなかった。彼にとっては、自分が撮る写真の出来栄えにしか興味関心がないものだから、寒さに震えて唇が青ざめて歯が鳴っている私に対して、労りの言葉や配慮など湧き出てくるはずもなかったのだろう。精一杯のぎこちない笑みしか浮かべられない私を“不良品”とでも思っていたのかもしれない。

 たしかに唇はレタッチをして色を変えればよく、私の心も写真に映ることなどないのかもしれない。笑顔は笑顔という記号で機能しているだけで、本当の意味で笑っている顔など求められていない。そんな本音が見え隠れするそのカメラマンに、心底幻滅する私がいた。

「僕は汚いところで寝るのが嫌だからさ」
 と辺りを見渡しながらカメラマンはいう。
「じゃあまた明日」とロケバスに乗り込み、私たちをネズミの糞と埃まみれの古民家に置き去りにして、彼は颯爽と出ていった。
 そうして評価の高いビジネスホテルでカメラマン一人だけが朝を迎えることができたのも、コンビニで買い揃えられた軽食のほとんどを自分が食べきって満足げにしていたのも、やはり普段通りの彼なんだろう。今ではそんな粗雑な扱いを受けることや不満を感じることは殆どないけれど、業界に混じった一部の「自覚なき悪意」はしこりのように印象に残っている。仕事をしていて泣いたことなんてなかったけど、その日はどうしても無理だった。 

 撮影が終わって寝泊まりの準備をし、古民家のいつまで経ってもあたたかくならない浴室に入ってうずくまっていたとき、まゆ姉が「まなちゃーん」と服を着たまま入ってきた。
「まなちゃん、大丈夫だった?」
 と言ってきたので、私は首を振った。
「もうアイツとは二度と仕事しなくていいよマジで」とまゆ姉がいう。「しんどかったね」とまゆ姉が強く唇を噛み締めながら心配してくれたので、「大丈夫です」と否定しながらも私は続けた。
「どんな人にも対応できないと、一生仕事なんてできなくなる気がする」
 なんて、私は心にもないことを言った。その方が模範解答らしい気がしたのだ。
 まゆ姉は私のことをしばらく見つめたあと、濡れた体のままの私を抱きしめてくれた。
「まじで最悪だったね。本当に寒かったでしょ。ごめんね、もうこんな思いするのはやめよう、絶対にやめようね」
 まゆ姉が撮影の途中で何度も止めようとしたことは知っているし、その姿も見た。でも、カメラマンチームが丸ごとそのカメラマンを許容している状態だったから、こちらの言葉などどこ吹く風だったし、「ちょっと撮ってくるんで待っててください」と言われたまゆ姉は、撮影場所から離れたロケバスの中に一人残され、まさかその間ずっと私が冷水を浴びているとは思わなかっただろう。しゃがみ込んだ私にあわせて、まゆ姉もしゃがみこんだ。私たちはそのとき、一つの約束をした。
「『これからは、優しい人たちと仕事をしよう」』
 指切りをした。そんなのはぬるい、世の中の厳しさからは逃れられない、と思う人は沢山いるかもしれない。だけど裸になる以上、裸になった上で何かを表現する以上、表面だけでも誰かに優しくしてもらえないと濁った心をどこにも隠すことができない。そんなことを思い知った日だった。


「まゆ姉は脱がないじゃん。だから気持ちがわからないんだよ」
 と、実は、数年前に大喧嘩した時(何で喧嘩したのかは実は忘れている)そんな科白をまゆ姉に放ったことがあった。私が何がしかの怒りによって、私の中にある最大の武器のようなものを出してしまったのだ。それにしても、なんてひどい言葉だろう。私は、まゆ姉の女性という部分を強く攻撃してしまったことになる。同じ女性でも脱ぐ人と、脱がない人がいる。脱ぐ女性を、脱がない女性がサポートする。そんな生々しいことをわざわざ突く必要なんてなくて、まゆ姉はただただ私の心配をしてくれているだけだったけれど、止められなかった。
 私は喉元まで込み上げてきたその思いをぶつける以外に、武器を持っていなかったのだ。私には私のやりたいことがあって、まゆ姉にもやりたいこと、私にやってほしいことがある。それが合致し、連帯感を強めながらも一つずつ真摯に仕事と向き合ってきた。でも、不意に出た棘のあるその一言に、私の心に潜んでいた本音が一気に浮上したようでたじろいだ。誰よりもわかろうとしてくれる女性の手を振り払って、そんな暴力的な思いをぶちまけたとしてもまるで意味がないのに。私もあのカメラマンと同じで、相手に呪詛のような言葉を吐く側なのだと強く自覚した。

 「まなちゃんが嫌な思いをしないことがまず優先」とまゆ姉が徹底的に守ろうとしてくれているのに、女性同士だからと衝突することは苦しかった。どうしてこんなに女性という性に固執しているのか、固執しなければならないのか。上も下もないのに、優劣を作ることで私は私たちの関係をよりシンプルにしたいと思っていたのかもしれない。その優劣は俗っぽくて構造としてもわかりやすく、立場を弁えるのに便利だからだ。弱者なのに強者に転じることのできる呪いのような言葉を得てしまったから、そうなった。いつかは自分を守るためにと、心の中に留めていた一言。でもそんな私の本音は加害性を帯び、まゆ姉のみならず私のことまでをも傷つけた。

 私が今感じていること、不安に思っていること、何ができなくて何ならできるかをいつも考えてくれる人がそばにいることのありがたさについて、口に出すことは恥ずかしかった。私にとっては得意だけれど世間からは評価されないこと、また私にとっては不得意だけど世間からは評価されること。その分析がまゆ姉から放たれるたびに、私は私たるものを知ることができた。それはこの十数年で築き上げてきた、曝け出してきた全ての出来事の結集だったのかもしれない。


 去年の、まだ暑さが引かない気怠い夜のこと。
 「まなちゃん、ちょっといい?」とまゆ姉が私を引き留めた。所属しているアダルトメーカーからの帰り道のことで、まゆ姉がふと立ち止まって真剣な顔をしたので不意に焦った。『なんですか?』と無愛想に返した気がする。

「実はさ」
 とまゆ姉がお腹を触った。
 あ、と思ったけど、
「赤ちゃんができたんだよね」
『ええええ!?!?』
 私は青梅街道で多分一番大きな声を出した。

 実はまゆ姉の恋愛事情について何も知らなかった。私のプライベートに関しては、そこも含めての心情やモチベーションが仕事に支障をきたすこともあるからと、気にかけてもらっていた。だけれどマネージャーのプライベートの部分は、向こうから話を振ってくる以外には勝手に掘り下げてはいけないものだと自分の中で決めていた。知ったことによる印象によって、仕事のレスが遅れる理由とか、フォローできる範囲を勝手に憶測で決めてしまうことも嫌だった。例えばマネージャーがもっている、事務所用とは別の個人アカウントがあったとしても決して覗きたくないし、それはまゆ姉においても一緒だ。だから私はまゆ姉と一緒にいる機会は多いのに、まゆ姉が普段どのような表情をたたえているのか、その真の素の状態を見たことがなかった。

 私は固まって『おめでとうございます』と、とてもたどたどしく告げた。膨らんでいないまゆ姉のお腹に、新たな生命が宿っているなんて信じられなかった。
「まだ安定期に入っていないから他の人には言うつもりはないんだけど、まず、女優さんはまなちゃんに伝えようと思って」
 私が車を止めていた駐車場までの道をまゆ姉と歩く。なんとなくまゆ姉に長い距離を歩かせることに対して抵抗があって、まだそんな気を遣うには段階が早いのかもしれなくて、そんな思いを悟らせるのも違う気がして、隣にいるまゆ姉が続ける言葉を聞いた。不妊治療をはじめた。最初は何回も通う気でいた。でも1回目でできてしまった。こんなことになるなんて自分でも驚いているし予想外だった。仕事のことはだから来年の数ヶ月は産休を取ろうと思う、だけど離れるつもりはない。まなちゃんにしかできない仕事があって、まなちゃんの仕事は私にしか担当できないものもある、とまゆ姉は言ってくれた。私にしかできない仕事、というのはAVという本職から派生したものだけど、本職とは毛色が全く違うものが多かった。ニュースのコメンテーターとか本の執筆とか新聞のインタビューとか、きっとそういったものだろう。私は自分で言うのもなんだが褒められて伸びるタイプで、それは30歳を超えても変わらないことだった。私はまゆ姉の下支えによって、時にまゆ姉のストレートに真理に迫る発言によって、歩む方向性のバランスをとってきた。私が選ぶもの、捨てるものに関しての助言をいつだってしてくれていたのだ。いつのまにか、無意識のうちにまゆ姉を介して物事を決める習慣をつけてしまっていた。

 だからなのか私はその報告に、嬉しさと同時に猛烈な寂しさを覚えていた。これまでまゆ姉に手間をかけてもらった自分が、まゆ姉の本当の娘ではなかった、ということ。

 ……本当の娘ではなかったって何?と我ながら呆れる。

 まゆ姉の横顔を見る。
 母の顔とはなんだろう。

「男の子かなあ」と私が言うと「みんなそれ言うんだよなあ」とまゆ姉は笑った。
「わたし、まゆ姉のこと、好きです」
「私もだよ」
「こういうとき、なんていうのが適切かわからなくて」
「うん、うん」
「まゆ姉、無事に産んでください。あ、でもこれがストレスになったら嫌ですけど、でもとにかくまゆ姉が健康だったら、お子さんも健康だったら、ってことを願っているだけで…。何かあったとしてもまゆ姉が元気でいてくれたら、それが一番いいなって話で…」と、私はあまりにもぎこちない気持ちの告げ方をした。
「ありがとう。わかるよ。嬉しいよ」
「あの、触ってもいいですか?」
「触って触って。おーい、スーパースターだぞー」
 とまゆ姉がおどけて、手のひらを腹に当てて呼びかけた。私もなだらかな腹の上に手のひらを当てさせてもらう。 
 何かがいることはわかるけど、存在の感触は返ってこなかった。でも、わかる。まゆ姉はいま誰かと二人の身体になっている。
 気づいたら、私はまた泣いていた。
「えー、まなちゃん泣いてくれるの?!」
 とまゆ姉がまた嬉しそうに言ってくれて、余計に泣いた。
 まゆ姉が母親然としていないことに安心していて、そしてまゆ姉が誰かの命を抱えていることがまっすぐに嬉しかった。この嬉しい、はいろんなところから派生したものだけど、私は一人の女性の次なるステージに上がっていく瞬間を見れたこと以上に、まゆ姉が本当の母になるということが嬉しかったのだ。私を産んでくれた母がいるように、誰かの母になるという事象に対して、圧倒的な眩しさを感じていた。帰りの車の中で先ほどまでの会話のやり取りを思い返しながら、私はまたちびっと涙したりした。

 まゆ姉のお腹は日に日に膨らんでいって、胎動をかんじるようになったといっていた。「リアーナとかビヨンセを流すと拳を突き上げてくるんだよね〜」というので「パリピの子はやっぱりパリピなんですね…」と私から深いため息が漏れ出る。私は子供を産む予定はさらさらないけど、辛いことがあっても楽しいことがあっても家の中で踊ってくれるような子だったら、私のように気を病ませて時間を無駄にすることもないだろう、楽しくハッピーに生きてほしいと身勝手に考えていた時期があった(ネガティブ特有の思考回路かもしれない)
 パリピの子はパリピ。胎動で共鳴しあう親子の話は微笑ましすぎたけれど、十二月の半ばに入って「そろそろ産休に入ると思う。まなちゃん良いお年をね」とまゆ姉が広げた腕の中で抱きしめられた時に、ぎゅうっと切なさが込み上げてきた。お腹にいる子と、私とまゆ姉。この3人が今、抱擁しあった。
 出産予定日ぎりぎりまで出社するというまゆ姉が「年明けにまた話そう!来年の抱負も語ろう!!」とLINEしてきてくれて、結局は出産ギリギリ、なんなら出産前日まで仕事のやりとりは続いていた。

 一ヶ月前に、「うちの子はもう誕生日が決まっているから」とまゆ姉が日付を述べた。帝王切開で手術日も決まっているから誕生日も決まってる出産なんだよね、とまゆ姉が情報を付け足してくれた。逆子だったために帝王切開を選ぶことになったとは聞いていたけれど、手術日=誕生日、はどこか不思議な感覚だった。そういえば私も帝王切開で生まれた。
 これから激動の未来が控えているにも関わらず、あまりにも平然と、何度も誰かに説明してきたかのように慣れた口調でまゆ姉が話すので「あの、もう少し不安になったりしないものですか?」と図々しく尋ねたほどだった。「うん、周りにいっぱいお母さん友達がいるからね、聞いているうちに勉強になった。だからそこまで怖くないかな〜」とまゆ姉は笑った。なんだ、私の方がドキドキしているなんておかしい。

 私の母のお腹には未だ私が生まれた傷がうっすらと残っている。もっとも母は太っているのでその傷を確認するには脂肪でいっぱいのお腹を持ち上げないといけない。帝王切開で生まれたことを母はよく私に話していたので、なんとなく当たり前に感じていた出産の方法だったけれど、大手術には違いない。ちなみに私の母は、手術中に意識が覚醒してしまったらしく、びろーんと目の前でお腹の皮膚を広げられた状態を見たところまで記憶に覚えてる、そんでまた眠ったんだよね、という衝撃エピソードを語って私を驚かせたことがあった。
 まゆ姉はお腹を時折さすったり、手を当ててわずかな温もりと共に胎動を感じているようだった。私は身体中に傷がたくさんあるけれど、母やまゆ姉のような、運命となる傷は今のところない。うっすらと赤らんだ母の傷には何故か神秘的な美しさが秘められていて、私は小さい頃、よくねだって横に走るその美しい傷を見せてもらっていたほどだった。

 まゆ姉が産んだ時、私もまた病院にいた。
 その日はAVの撮影予定日だったのだけど、体調が悪くなって近くの総合病院に駆け込んだのだ。なにしろ3日前の大阪収録から帰路に着く新幹線内で、爆睡していた私は鈍器で何度も殴られるような猛烈な頭痛に飛び起きた。追いつくように吐き気が込み上げてきて、慌てて寝ているマネージャーの足を跨いでトイレに行ったものの、タイミングが悪く全て使用中であった。
 通りがかった乗務員さんに慌ててポリ袋をもらい、トイレが空くまで我慢できずに、その場にうずくまってポリ袋の中に嘔吐した。帰ってからも吐き気が止まらず、夜通しトイレにこもって、吐き疲れで丸一日ダウンした。熱もなかったし風邪かもしれないと様子見をしたものの体調は改善されず、意を決して病院に向かったのだ。

 待合室の座席は予約した人たちで埋まっていたので、私は込み上げてくる吐き気と激しさを増す頭痛に耐えきれず、のたうちまわりたい衝動を抑えながらもどうにか座席の近くで丸まっていた。朧げな意識の中で、「午前中には終わるから、パケ写(パッケージ撮影)の時には産んでるかも!」とまゆ姉がLINEで言っていたことをふと思い出しながら、私は命ではなく昨日食べたものを吐瀉するかたちで、病院のトイレで過去の自分を吐き出し続けていた。
 あまりにも激痛だったので脳に何か問題でもあるのでは、と覚悟をしてMRIまで撮ってもらったのに「脳は綺麗ですよ〜」と医者から言われただけで、結局原因は不明のままであった。何も収穫がないのに不調だけが取り残されるのが嫌で、医者に原因が何かと問い詰め、二つの可能性を提示された。
「一つは重度の肩こり」
「もう一つは長年のピルの服用による静脈の関係ですかね」
 ……え、ちょっと待ってください。先生、肩こりですか?
 え。てか肩こりでこんなに死にそうな状態になることあるの? 
 私は口を開いたまま自分自身に幻滅した。AV現場に行けない理由がまさか肩こりだなんて到底言えるわけもなく(結局そう告げたが)新たな心配事が増えずにすんだ安堵よりも、多大な迷惑を周りにかけた末、肩こりという着地点に着いてしまった自分が嫌で認めたくなかった。どうせならもっとこう、それなら休んでも仕方ないね、と誰しもが頷く免罪符的な原因が自分の体内で沸き起こっていると思っていた。

 こんな風に「肩こり(多分)」で大騒ぎする1日がある一方で、まゆ姉の1日はどんな風にいま流れているのだろう?と情けなさが込み上げてきた。今日という日の、同じ1日の中での白と黒を見たかのように私は目が痺れていて、トイレで体を縮めたり伸ばしたりと繰り返し、肩こりに効く薬を飲んだ。吐いている時、私から生み出されるものはちっぽけな感じがして、どことなく寂しかった。そしてまゆ姉もいま同じように、消毒された空間の中で身を丸めたり伸ばしているんだろうと思うと、やはり、胸が締め付けられた。刃を差し込まれ、新たな命が生まれ、また傷を縫われていく彼女と、何かを生み出すわけでもなく、自分に振り回されている私。でも、そんな最悪なコンディションの中に身を置いても、一筋の光を掴んだように希望がどんどん沸いてきて、どうか無事でありますように、と吐きながら願った。まゆ姉と赤ちゃんがこの先も健やかに、優しい世界に囲まれて、生きていきますように。そう願うたびに、何かが私の中に満ちていく感じがした。

 無事にまゆ姉の出産が済んだことを知ったのは翌々日だった。
 出産当日、その子の誕生日のことを私は生涯忘れるわけもない。頭に刻まれた明確なその3桁の数字を胸の中でなぞるたびにやはり幸福だった。それにしても手術は無事に済んだのかな、大丈夫だったのかしら。すぐにメッセージを送るのも気が引けてしまい、なかなかまゆ姉に連絡ができずにいた時、母から電話がかかってきた。用件があるんだかないんだか不明のその長電話に対応しながら、ふと、まゆ姉の話をした。
「あんたねえ」と電話口から感じの悪さをぶつけられて『なに?』と言い返すと「あんたねえ、帝王切開なんてねえ、本当に痛いんだから。私ですら半日、いや丸一日かな?動けなかったんだから」と言われて『それはわかってるよ』と私はムッとして返した。
『だから連絡しなかったの。本人から聞かないと何もわからないでしょ』
 そう一方的に言って、母の電話を乱暴に切った。

 だから、他のマネージャーから母子共に健康らしいと聞いてまゆ姉に連絡を送ったのは、出産から2日後の夜のことになる。
 早朝、まゆ姉が「ありがとう!まだ宇宙人状態だけど、我が子は天使のようにかわいいよ」と写真を送ってくれた。哺乳瓶を咥えている赤ちゃん。その哺乳瓶を傾けている慎重なまゆ姉。両親の指に絡める繊細な指まで含めて、私の思い描いていた赤ちゃんそのものだった。紛うことなき天使、うん、やっぱりすごく、とても可愛い。私は手に抱けないその赤ちゃんの感触を、すぐに壊れてしまいそうな脆さをかかえた柔らかさを、架空のまま自分の手に宿してみた。

 結局AV撮影は別の日へと延期になった。私はまるで何も生み出せていない状況だ。時間をかけて書いたお気に入りの原稿に対する編集者さんの反応が芳しくなかったことも、本職の日程をずらしてしまったことも、別の媒体に寄稿する短編にもどこか自信がなくなって意気消沈していることも、その全てが精神的な弱さにさらにもたれかかって体全体を重くさせていることもわかっている。だけど、今ではどうでもよかった。いやどうでもよくないけれど、というかやらなくてはいけないことばかりで気が急いでいるけれど、取り敢えず、まゆ姉が出産という大イベントを終えたことに一安心して…もちろんこれから先もまゆ姉はずっと大変なわけだけど…それでも、肩の力が抜けたのだ。本当によかった。

「今日は病院を十周させられたよ」

「三時間おきの授乳と二時間おきのおむつ替え、私は今おむつ替え乳製造機となっております」

「乳首が切れるかもしれない」

 と、メッセージは続く。

 少ししたら、またまゆ姉に会いに行きたい。

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