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hitomebore

 混んではいないけれど、立っている人も少なくない昼下がりの山手線。すぐに降りるので、ドアの近くで立っていた。

 どこの駅に着いた時だったろう。タタタタタタンと、杖で床を突く音がして振り返ると、薄いベージュのジャケットを羽織った姿勢のよい長身の老紳士が、白い杖と、大きな包みを下げて電車に乗ってきたところだった。

 紳士は車両の中央付近まで歩き、手探りで吊革につかまった。その辺りの座席はほぼ埋まっていて、男性の前には60代と思われるご婦人が二人でお喋りに夢中だった。……と、そのまた隣に座っていた会社員がおもむろに立ち上がり、ドアの方へ移動しながら、自分の隣に座っていた連れを手招きした。「おい、立とうぜ」という感じだった。杖の紳士の前で座っているのが気まずくなったんだろう。
 
 そうしてぽっかりと二人分のスペースが空いたけれど、彼等が何も言わないで席を離れたので、白杖の男性には分からない。そのまま窓の外に真っ直ぐ顔を向けて立っていた。すると、やっと気づいたおばさんたちが、「ほらほら、ここが空いていますよ」と、自分たちの隣に誘導した。

「ありがとうございます。荷物が重かったのでとても助かります。ああ、よかった」と、ほっとしたように言う老紳士は声も爽やかで、すっと腰かけた姿も美しい。パリッとした服装にも、グレイがかった髪にも清潔感が溢れていて、ああ、なんて素敵な人だろうと、私にしては珍しく(珍しいのだ)見とれてしまった。ただ一点、汚れていた靴の先は、足で探りながら歩くこともあるからだろう。

 紳士は、降りる駅に着いたと知ると立ち上がり、「ありがとうございました」と、誰にでもなく、まるで周辺にいる人全てに対してするような丁寧な会釈をして、タタタタタタンとまた杖の音を鳴らしながら電車を降りていった。その様子をそばで見送ってから、私もその駅で降りた。(追ったわけではない。降りる駅だった)

 タタタタタタン、タタタタタタンと白杖をついて颯爽と歩いて行くこの人は、これから何処に何をしに行くのだろう。あの風呂敷包みは書類だろうか。このあとどんな人々と会うのだろう。どんな知識を持っていて、どんな話をするんだろう。今までどんな風に生きてきて、どんな仕事をしていて、どんな生活をしているんだろう。奥さんも、いるとしたらきっと素敵な方だろう。身だしなみを整える手伝いは、きっとその方がしているはずだ。どんな恋愛をしたんだろう……。

 タタタタタタンと器用に階段を登っていくその後ろを歩きながら、私はそんなにも老紳士に興味を持っている自分に驚いていた。知りたい。もっと知りたい。見ていたい。……が、まさか着いて行くわけにもいかない。そんなことをすれば、タタタタ・ンタタン。