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忘れたいことから忘れる

電車に乗り込んで来たご婦人二人連れ。「ほら、ここに座れるから」と、ひとりを私の隣に座らせ、一人がその前に立った。顔は見ていないけれど、素敵なスカートの上に置かれた手の感じから、70代かな? と思う。立っている婦人はデニムパンツにしゃれたスニーカー。まだまだ足腰お元気そうだから、席を譲ろうとは思わなかったお疲れの私。

さっそくお喋りが始まり、座った方のスカート婦人がデニム婦人を見上げ、「ねぇ、この間、杉さまを見かけたのよ!」という。デニム婦人はあまり関心がなさそうだったが、スカート婦人は「⚪︎⚪︎3丁目の、ほら、ハロウィンの飾りのあるビルのとこ、杉さまが、さーっと通ったの! わたし見たのよ、うふふ」

ほほう、街中で杉良太郎に遭遇したのか、やはり杉さまはこの年代のスターなのね。杉さまが「さーっと通った」のは、徒歩なのかしら、車なのかしら。よく「杉さまだ」って分かったなぁ、もともとご近所なのかしら? と想像を巡らせる私。

そのうちにどういう繋がりだったのか、スカート婦人が「この間は朝の5時半に起きたのよ」という話を始めたのだが、「あら、やだ、どうして私、5時半に起きたんだったかしら」と不安そうに考え込んでしまった。その前で「やだ、忘れちゃったのぉ?」と大笑いしていたデニム夫人だったけれど、しばらくして「電車に乗ったの? 歩いて出かけたの? 何を着ていた? お天気だった?」など、助け舟を出し始めた。なるほど、そうやって手伝えばいいのね。

それでも「やあねぇ、思い出せない。認知症かしら…」と沈んでいたスカート夫人だったが、突然「そうだ! 文化祭よ!」と思い出したらしく、それからはもう、文化祭の時の不平不満のオンパレードだった。しまいには「あんまり大変だったから会長の首絞めてやりたかったわ!」である。

人の首を絞めたくなる程に大変だった文化祭なのに思い出せなかったの? と思ったが、大変だったからこそ、忘れていたのかもしれない。

そんなこんな、ご婦人方のお喋りが気になって、読もうとしていた本はほとんど同じページを開いたままだった。

そうして私が降りる間際のこと。
スカート婦人がデニム夫人に「ごめんなさいね、私だけずっと座ってて。杉さまの方が急いで走って来たのに…」と言った。

えー?! 
「杉さま」って、デニム婦人のことだったの?!

私が降りた後のその席には、杉さまがお座りになったことだろう。