『田中家の洗面所 』

 田中氏がお酒の席で始める話のひとつに、
「うちで使ってる歯ブラシ立てってさ、実は、元カノと一緒に使ってたやつなんだよねー」
 というのがある。

 田中氏は40代で、結婚して5年以上になるし子供もいる。その家庭の洗面所で使っている歯ブラシ立てが、元カノと半同棲していた学生の頃からずっと使っているものだという話だ。

 何度も聞かされている人は、「田中さんて、物持ちいいんですよねー」と流すのだが、初めて聞いたひとりの女性が目を丸くして、「それって、奥さんは知ってるんですか?!」と身を乗り出した。

「知らないよ。だって、言ってないからね」と、田中氏は得意そうに答える。
「ええー? それって酷いんじゃないですか?」
「でもさ、丸みのあるステンレスの容れ物でさ、お気に入りなんだよ、その歯ブラシ立て」

 物は、単なる物だ。洗面所に立つたびに元カノのことを思い出しているわけではない(だから奥さんへの裏切りではない)と、田中氏は言う。実際、田中氏が奥さんと子供を大切にしていることは、周囲の者がみな知っていた。奥さんや子供の自慢話もまた、彼の定番の酒飲み話のひとつなのだ。

 だからこそ、毎回、誰かが必ず田中氏に釘を刺した。

「とにかく、元カノのものだってことは絶対に、奥さんに言っちゃダメですよ!」

◇     ◆     ◇

 その日、田中氏の歯ブラシ立ての話を初めて聞いた春子は、15年以上前のいやなエピソードをひとつ思い出していた。まだ大学生の頃に、サークルで親しくなった夏絵にプレゼントした、ステンレス製のワインタンブラーのことだ。

 サークル内で夏絵の誕生パーティーをすることになって、春子としては少し奮発して、ワインの好きな夏絵のためにそのタンブラーを贈ったのだ。

 その晩、夏絵からのお礼のメールが届いた。
「春子、タンブラーありがとね。ちょうどいいから、歯ブラシ立てにするわ。ワインを飲むときにはやっぱり、透明なグラスで色も愛でたいからね」

 春子は腹が立った。
 せっかく美味しくワインが飲めるようにと贈ったタンブラーを、よりによって歯ブラシ立てにするなんてひどい。何に使おうと、もらった人の自由だと思うけど、わざわざそれを私に伝えなくたっていいんじゃない?!

◇     ◆     ◇

 夏絵は春子のことが、サークルで知り合った当初から苦手だった。
 仕切りたがりでおせっかいで、人のことにいちいち「それってさ、」と口を出す。「それってどこで買ったの?」「それってどこ製?」 それってそれってそれって?

 サークルの飲み会でも、

「夏絵、それって飲み過ぎじゃないの?」と、何度言われたことか。

 それなのに、ワインタンブラーをよこすって、なんなの?

 春子にもらったものなんか、タンブラーとして使うつもりもなければ、本当は歯ブラシ立てとしてだって、夏絵には使う気がなかった。

◇     ◆     ◇

 山本室長は教室の窓辺で小さなポトスを育てていた。外の通りから見上げるとそれは、「英会話教室」と描かれた二階の窓の、ちょうど「英」の字の下に、ポイントを置いたかのように映って見える。

 アルバイト講師の秋乃は、そのポトスの世話をすることを日課にしていた。透明なジャムの空き瓶に、ライム色のポトスの枝が2本だけ挿してある。秋乃はその葉を拭き、水を足す。

 仕事の手が空いた時も、ついポトスに目が行く。するとその直ぐ前に座っている室長と目が合ってしまう。35歳の室長は、学生アルバイトの秋乃から見ればおじさんの部類だったけれど、目が合った時に見せる小さな笑顔に宿る戸惑いを、秋乃は可愛いと思っていた。

 ある朝、その室長がステンレス製の器を持って来て、秋乃にポトスの入れ替えを頼んだ。教室の小さな洗面所で入れ替えてみると、その小さな器の丸っこいフォルムに、ポトスの緑は一段と映えた。

「とてもいいですね。どうされたんですか? この器」
「実はね、今朝、ゴミ出しをした時に見つけたんだ。袋にも入れずに転がってたからね、つい、持って来てしまった」

 そう言って自分の口元に人差し指を立てて内緒だよというポーズをする室長を、秋乃はやはり、好きだ、と思った。室長からも特別に思ってもらえているように感じられる一瞬が、たとえ勘違いだとしても愛おしい。

 山本室長には婚約者がいると、先輩から聞いたことがあった。本当のことは本人に尋ねることもできずにいたけれど、ポトスの葉が新しく育つのを見守るように、いつか、もしかしたら私を……という淡い期待を抱いて過ごす今の状態を、秋乃は心の奥の方でそっと慈しんでいた。

◇     ◆     ◇

 来週から自分に代わって新しい室長が来ることを朝のミーティングで告げながら、山本は誰よりも秋乃の反応を確かめずにはいられなかった。秋乃は驚いたように目を見開いたが、その目は素早く山本からポトスの方へ逃された。

 いよいよ教室を去るという日。夜遅く人気の無くなった部屋で最後の片付けをした山本は、ポトスを入れたコロンと丸い容器を手のひらに乗せ、「とうとう一度も誘えなかったな」と小さく声に出していた。その声に応えるように、「誘わなくてよかったんだよ」という別の自分の声も聞こえた。秋乃はまだ学生だし、自分はきっと、地元に帰って家業を継いだら、来年には婚約者と結婚をすることになるのだ。誘わなくてよかったんだ。 

 それでも、ポトスの世話をしていた秋乃の横顔が思い出されると山本は、最後に一回くらいは……という誘惑に駆られた。

 そうだ、このポトスを世話を、改めて秋乃に頼もう。そんな口実を思いつき、山本は秋乃に電話をした。呼び出し音が鳴り出すのを待ちながら時計を見上げると、既に0時を過ぎている。遅すぎるだろうか。呼び出し音は鳴り続き、やがて留守電に切り替わる気配がして、山本は電話を切った。

◇     ◆     ◇

 一年前に親の決めた相手と結婚した姉の、その住まいを訪れた美冬は、玄関を開けた途端、もわっとした室内の空気に顔をしかめた。

「お姉ちゃんさ、妊娠中のつわりが辛いのは分かってあげたいけど、もう少しこの部屋、なんとかなんないの?」

「なんとかならないから美冬を呼んだんでしょ」

 散らかった洗濯物を足先で避けて、美冬は締め切った窓に近づく。「これじゃ、田中君の部屋の方がまだマシだわ」とひとりごちながらカーテンを全開にしたら、窓枠の隅から何かがコトンと床に落ちた。拾い上げると、ステンレスの小さな容器に干からびた植物がぶる下がっている。

「なにこれ」
「え? ……ああ、あの人が大事にしてたポトスだ。そっか、すっかり忘れてた」

「かわいそうに」と、ポトスと義兄の両方を哀れんでから、美冬は干からびた植物をゴミ箱に落とした。容器の方はよく洗って乾いた布で拭ってみると、思いがけなく綺麗でころんとかわいい。

「これ、本当はワインタンブラーだったんじゃない?」
「さあ、知らなーい」
「貰ってもいい? お義兄さんに聞いた方がいい?」
「いいよいいよ、今日の手伝いのお礼にあげる」
 美冬の姉は寝転がったまま、「勝手に持ってって」というようにひらひらと手を振った。

 帰りに美冬は田中誠のアパートに寄った。就職説明会の席で知り合い、付き合って4ヶ月。美冬は既に内内定を2つ貰っているが、誠は全滅で、新たにせっせとエントリーシートを書いている。

「お、美冬、ちょうどよかった」
 誠は「変なとこない?」と言いながら、美冬にノートパソコンの画面を向けた。またかと思うが、美冬は誠の書いた文章に目を通す。相変わらず、自己PRというより自慢話みたいな内容だ。

「いいんじゃないの?」
 適当に言って美冬は、ああ、私はこの人の就職とか将来にまるで関心がないんだと改めて気づいてしまった。ハンサムだし優しいんだけど、就職も決まらないし、付き合えば付き合うほど何だか物足らない。それにこの散らかしようったら……。

「あ、そうだ」と、美冬はテーブルの上に散乱している数本のペンをまとめると、姉の家から持って来たステンレスの容器に立てて見せた。
「いいでしょ? これ、ペン立てにぴったり。まこっちゃんが好きそうな形だと思ったんだ」

 ところが誠は、

「あ、それならさ」と、せっかく立てたペンをまた、じゃらじゃらっとテーブルにぶちまけた。その音に美冬は小さく傷ついたが、誠は容器を持って洗面台へ行くと、
「ね、こうしようよ、ぴったりじゃん」と、歯ブラシを2本立てて嬉しそうに笑っている。

 う、わぁー、私の歯ブラシを勝手に触るな。それにそれ、元は汚れた花瓶だったんだから歯ブラシ立てにはちょっと……と、美冬は言おうと思ったがやめた。やっぱりもう、なんだか、だめだ。

 別れようかな。

 テーブルからペンが2本、続けて転がり落ちる音がした。

◇     ◆     ◇


 田中秋乃は、毎朝洗面所に立って思う。
 この歯ブラシ立てにポトスを活けたい。

 見れば見るほど、それは山本室長が育てていたポトスの容れ物と同じものに思える。もちろん、何年も前のことだから記憶は定かではない。同じだと思いたいだけかもしれない。

 一度だけ夫に、「歯ブラシ立ては別のにして、これは一輪挿しにしてもいい?」と聞いたことがあるけれど、お気に入りの歯ブラシ立てだから駄目だと却下された。学生時代から使っているらしいから、愛着があるのも分かる気はする。

 だから秋乃は、想像の中でポトスをそこに植えてみる。そして思うのだ。あの日、室長からの深夜の電話に気づいていたら、私の人生は今と違っていたんじゃないかと。いやいや、それはないでしょうと、自ら馬鹿らしさを感じながらも、勝手な想像は甘やかに広がる。

 室長が居なくなり、ポトスも一緒に消えた朝に感じた寂しさ、そして続いた日々の胸の痛みはもう思い出せなくなっていた。代わりに、楽しかった小さなやりとりや笑顔ばかりが記憶にあるから、歯磨きをしながらのひと時、秋乃はしばしば山本との思い出に浸る。

 現状に特別な不満があるわけではない。夫は優しいし子供は可愛い。

 それでも、田中家の洗面所で、今日も秋乃は想像のポトスを育てている。


(おわり)