『小指でグッバイ」
「エアコンの風キライ」と言うから窓を開け放って、カノジョはコミックを、ボクはパソコンの雑誌を開いていた。床に座って寄りかかったベッドが背中に熱い。蝉の声と、隣家のエアコンの室外機がたてるブーンという音も暑苦しい。その向こうから時々風に乗って電車の音が聞こえてくる。
ボクは少し退屈して、横目でカノジョの膝小僧を眺めていた。体育座りをした長い脚の、ツルツルで、ドキドキの膝小僧を。
その視線に気づいたからなのか、カノジョはゆっくりと右足を上げると、左膝の上にその足首をかけ、つま先を少し高く掲げながらボクの方をチラと見て言った。
「ねぇ、ジュンちゃん、こんなことできる?」
「なんだよ」と、ボクは今初めてカノジョの脚に気づいたみたいに雑誌から目を上げて、さも面倒くさそうに言う。ずいぶん久しぶりに口を開いたような気がして口の中がねばねばする。
「ほら、こうしてさ……」と、カノジョは足の5本の指を開いたり閉じたりしてみせた。
グーパー、グーパー。
まるで、風で膨らむレースのカーテンの裾を掴もうとでもするみたいに、真っ赤なペディキュアが見えたり隠れたり……。
それくらいならボクにもできる。汚ねぇ足だけど、
グーパー、グーパー。
カノジョはボクの足を見てフフンとひとつ鼻で笑うと、動かしていた足の指を開き、パーの形でいったん止めた。そうしてから、ひとーつふたーつと指折り数える時の手の動きと同じようななめらかさで、親指から人差し指、中指……と一本ずつ順番に折り曲げて少しずつグーの形にしていく。
なんだそれは。どうしてそんなになめらかなんだ。ボクが今まで一度だって見たこともなければ、やってみようとさえ思ったことのない動き。できるわけがない。指がつりそうだ。
いや、ひょっとして、そういうことができるのが当たり前で、できないのはヒトとしてボクの機能がおかしいのだろうか?
「なーんだジュンちゃん、できないの?」
案の定カノジョはおかしそうにケラケラ笑う。それから今度は、両足の指を床にぺたりと並べてボクに見せながら、もう一度親指から薬指までをひとつずつ折り曲げていった。そうして残った小さな指だけをピンと立て、作り声で「バイバーイ」と言いながら小指を左右に振って見せる。
右の小指で「バイバーイ」 左の小指が「バイバーイ」
「できる?」
「できないに決まってるだろ」
なんだろう、このショック。赤い小さな爪がバイバイしながら意地悪くボクを見ている気がする。まるで小指だけが別の生き物みたいで、それはもう、ボクが今まで何度も口づけたカノジョの脚じゃないようだ。
少しも思うように動かせないボクの足の指を見て、カノジョは「変なのー」と笑い続ける。そんなことができる方がおかしいんだ、おまえは猿か? と笑い返したいと思っているのに笑えなくて、それどころかなぜだかどうにも不愉快で、ボクはボクの不器用な足でカノジョの足の指を押さえ込むと、ほとんど踏みつけるようにしながらカノジョを押し倒した。
「いったぁーい!」
そう言いながらもカノジョは笑っている。くすくすくすくす笑っている。 ボクの頭を胸に抱えこんで、これからボクがすることをカラダ全体で待っている。
だけどボクはボクの足の下でもぞもぞと動くカノジョの足の小指がもう気味悪くて気味悪くて、すっかりなんにもする気をなくしていた。
バイバーイ。
バイバーイ。