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考察などできるわけがない人の、感想のようなものー櫻坂46、5thシングル「桜月」MV解禁

プロローグ

はじめに。
もしあなたが、櫻坂46の5thシングル「桜月」の考察をお読みになりたくてこのページを開かれたなら、冒頭からお詫びを申し上げなければなりません。

私はそんな烏滸がましいことができる人間ではありません。

ここから語られている言葉は、本当にただの感想です。考察ブログを書いていらっしゃる方はたくさんおられますので、どうかそちらをお読みください。

また、私にはできない、というだけで、考察を否定もしません。

もちろん、作詞家・作曲家・MV監督・そして何より櫻坂46メンバーたちが示してくれるものであって、もし正解があるとすれば彼らの側にしかない。それは事実だと思います。これを伝えたい、というものが必ずあるはずなので。

ただ一方で、これはクリエイターの皆さんやパフォーマーである櫻坂のメンバーも言及してたように思いますが、捉え方は人それぞれ、そのどの見方も正解である、という意見に私は賛成です。
それだけの時間をかけて、こうではないかと書いてらっしゃる、それはそれで実に尊いと思っています。
繰り返しになりますが、私にそれができないだけで。

欅坂時代から彼女たちを見てきて、櫻坂になって遂げた進化を見守りたい人間の、しかも一つの感想でしかありません。
そのことを踏まえたうえで、お読みいただけると幸いです。

よろしくお願いします。


待ちに待った解禁

5thシングルが発表になったのは、昨年12月のBuddies感謝祭でのサプライズだった。
そこから年を跨いで、ジャケ写が発表され、そしてその辺りからは三期生のVlogやドキュメンタリーが先行し、5thがどうなっているのだろうとヤキモキしていた人も多かったように見受けられる。

特に欅坂から推してきている私のような存在は、発表があってから何の音沙汰もないと、よぎるのだ。
欅坂9thが、フォーメーションまで発表されながらお蔵入りになった、あの出来事が。

流石にレアケースだったとはわかっているんだけど、どこかトラウマにも似た感覚というか。

でも、現実的に考えてみたら、日向坂四期生のときと同じく、同時進行で進めている櫻坂三期生を5thに絡めてくるのは自明の理で、そのためにこの時期にドキュメンタリーを配信してくれているんだと思うと、5thだけ飛ばしてしまうというのはどう考えても無理がある。

だから、そう不安はなかった。

音源のラジオ解禁を飛ばして、先にMVの解禁に踏み切る。摩擦係数のときと、ほぼ同じパターン。


他の方の考察は、私は敢えて一切読まずにこれを書いている。
それは理由があって、流されるからだ。
おそらく適当に書いておられる方は一人もいない。欅坂櫻坂に思い入れの強い方なら、そんな人がいるはずがない。ということはその考察にちゃんとバックボーンがあるので、真実かはもちろんわからないけれど納得はさせられる場合がある。

この納得がまずいのだ。

全てが引っ張られてしまう。

私は、私が見て聴いて得たこと、感じたことを記しておくために今言葉を綴っているわけで、どなたかの何かに引っ張られてしまったら何の意味もない。

ということで、これを書き終えたら読ませていただきます笑

一応、いくつかのパートに分けてまとめてみようかと。

ナスカ曲というだけで震える心

櫻坂を語るときに、欅坂の名前を出すのは、すでに違和感の出る時期に来ているかもしれない、と思うことはある。なぜなら、櫻坂になってから3年目を迎えて、櫻坂としての歴史もそれなりに歩んできている事実があるからだ。櫻坂になってから追っている人もいるだろうし、そんな人たちはこれからも増えていく。いや、増えていかなければならない。そんなときに欅坂の名前を出すのは正しいのかそうでないのか、そろそろ答えを出すのが難しくなってきている。
そしてこれから先は、その傾向がもっと強くなる。間違いなく。

ただ、もちろんそんな現実は受け入れたうえで、やはり彼女たちの原点である欅坂を忘れてはいけないという思いも強くある。

前置きが長くなったけれど、もしその思いが正しいのなら、ナスカ作曲というクレジットを見ただけで内側から涙を押し上げるのは、ある意味当然かもしれない。

まさに「条件反射で泣けて来る」。

そこで久々にナスカの名前を見て、櫻坂とナスカの融合を夢見てきた私が得た感動が再び襲ってきた感じだ。

秋元康がナスカとタッグを組めば、どうしても言葉が増える。そこが一つの醍醐味である。一つの音符の中に、二文字三文字入れてくるように聴こえてくると、ああ、あのときの感覚だと懐かしくなる。

危なっかしい計画、エキセントリック、避雷針、黒い羊、角を曲がる。
蘇る、あの欅坂の強さ。

いや…待て。
強さとは何だ。
そもそも、彼女たちがナスカ曲に乗せて伝えたかったことは何だろう。

桜月でも、考えたのはそのことだった。
同じナスカ曲であるが、欅坂とその伝えたい方向性が違うのはもちろんのこと。

欅坂の中にあったのは、実は強さではなく弱さではないかと思うこともある。

弱いのは悪いことではない。何かに抗っていないと崩れてしまう。自分を自分として必死に保たせるために、外への抵抗力を強める。それが強さに映ってしまっただけで、それは誰しもが持つ弱い部分の裏返しであるようにも感じる。
何度も言うけれど、それ自体は決して悪いことではない。

でも、櫻坂がナスカ曲で表現しているのは、もしかしたら本物の「強さ」なのかもしれない。
過去を振り返り、現在を直視して、未来を見据える。
それは、強い人でなければできることではない。

そのことを強く感じさせるのは、この場面。

何なら今まで感じたことのない衝撃があった。

散り方。

散る、という言葉は、花びらの終焉なので、一つの終わりを誰しもが連想する。
それを何の比喩と捉えるかでもちろん意味合いは変わってくる。

例えば。
2022年5月22日。渡邉理佐卒業コンサート。
2022年8月20日。尾関梨香・原田葵卒業セレモニー。
2022年11月9日。菅井友香ラストステージ。

一期生の、その歴史を背負って駆け抜けた7年間を思いながら、後輩に託すさま。
それを間近に見ていた後輩が、いつかやってくるであろう自分のラストを飾る瞬間は、あんな美しさでありたいと思った、その感情の代弁、と捉える向き。

それも一つの正解かもしれない。

そして私は…
どうしても「散り際」というと、自分の命の残り時間を考えてしまうのである。

美しい散り方、というのが、いかに人生を美しく終わらせるか、ということだとするならば、どれだけ自分にとって荒波が襲ってこようとそこへ向かうのだ、という意識は、強さでしかないのではないか。

決して諦めではない。
自分の命の残り時間を想うことで、これからできることを考える。自分の本当にしたいことは何かを掴み、それをする。
そのために、走る。

強さとは、しなやかさ。

頑なに折れまいと抗う枝や幹よりも、吹いてくる風に合わせてしなり、元に戻るしなやかさこそが本物の強さだと、これだけ生きてきて思うことはある。

だから衝撃だったのかもしれない。

櫻坂と、楽曲を通じて命のやり取りをするような関係性になったのかと。

大袈裟は承知の上で、心が躍ったのは確かだ。

話が少し逸れたけれど、命のやり取りをするのも強くなければできないこと。
ナスカ曲はそれができる、ある意味特別さがあると私は思っている。

生き方とは。
人生とは。

そして、命とは。

欅坂のナスカ曲が訴えかけていたのも、本物の強さを求める旅路だった気がする。そんな主人公が「成長」して、しなやかな強さを手に入れたのだとしたら、これが涙に繋がらないわけがない。


「こういう櫻坂もあるんだぞ」守屋麗奈の決意と表現力

強さとはしなやかさである、と書いたのは、櫻坂のメンバー全員に言えることだとは思うけれど、やはりそれを最も体現していたのは、センター守屋麗奈だった。

センター守屋麗奈、と書くだけで感慨深くはあるけれど。

守屋麗奈のルックスの訴求力は、たとえ櫻坂や守屋麗奈を知らない人でも一目でわかっていただけると思うけれど、ただ真ん中で可愛さを振り撒けばいい、という考え方が彼女にあるはずはない。そしてもっと言えば、彼女のルックスは彼女の大きな魅力の一つではあるけれど、楽曲で彼女に求めるのはそこではない、とBuddiesの多くが思っているのではないかと。

そのプレッシャーたるや、想像を絶する。

そのプレッシャーに耐え、なおかつ跳ね返す意志の強さを、あのジャケ写から感じた。
そこには自信もあったように思う。
ある程度の自信がなければあの表情は生み出せない。
楽曲の世界観とセンターである彼女の表現力が掛け合わさって、ブーストされた魅力。

最もフォーカスの当たる位置にいる彼女だからこその評価である。

強さとは、しなやかさ。
そして、美しさも、またしなやかさなのだ。

そのことを強く認識したのは、実はこのシーン。

鏡越しに、ダンスバトルとも見紛うシーン。特に小林由依が強く攻めてる瞬間、守屋麗奈は少し体を後ろに反らす。ゆいぽんの動きがもし強い風であるならば、それを反らすことによって元に戻るれなぁのしなやかさ、そこまで、あの場面で見えた気がした。
そしてそのしなやかさこそ、まさに強さ。
もちろん振付による効果ではあるかもしれないが、表現する本人に訴えかけるものがなければ伝わるはずがない。
そのことを指摘したら、おそらく、れなぁは謙虚に言うかもしれないけれど、内なる自信があの表情を作らせたと私は思っている。

センターとしての決意。
決意が自信に変わるまでの、おそらく相当な鍛錬の時間。

そこが垣間見えるだけで、愛しくなる。

センターだけではない。守屋麗奈と、楽曲を何倍も強くさせるために自らの役割を全うしようとしたメンバー全員が、愛しくなる。


MVの再生回数は本物ならば必ず伸びる

実は欅坂時代から振り返っても、私自身が初めて為そうとしたことが今回あった。
それは、MV再生回数にこだわること。

元々は、私自身は再生回数の伸びにさほど拘っていたわけではない。
例えばジャニーズや、坂道なら乃木坂のように、MV解禁とともに爆速で再生回数が上がる、というのももちろん素晴らしいことだ。間違いなく、広い裾野の人気を得ていなければ達成されることではない。

ではなぜ拘っていなかったのかというと、爆速だけが全てではない、とずっと思っていたからだ。

本物であれば、ゆっくり時間をかけて再生回数が伸びる。
爆速で再生回数が上がる、というトピックはインパクトも強いので、評価につながるのは間違いない。ただ時間をかけて結果その回数に到達したものも、同じような評価を受けるべきだとずっと考えている。
違う言葉を借りれば、派手で目立つものだけが全てでもない。
地道に着実な道を歩むことだって、結果が残れば評価に値する。

ではなぜそんな私が、今回は再生回数に拘ろうと思ったか。

理由は一つ。
紅白である。

NHKが公表している選考基準だけではない気もするので、何をどうすればいいのかは雲を掴むような話ではあるけれど、とにかく考えられるすべての数値を上げて、あとは果報を寝て待つしかないと。

もちろん個人的には、紅白というコンテンツにそこまで拘ってはいない。なんなら、全坂道シリーズが辞退して大晦日に坂道合同ライブでもやった方が盛り上がるのに(非現実的ではあるけれど)、などと考えていくるくらいだ。
でも、彼女たちがもう一度、という希望があるならば、それを叶えてあげたいというそれだけである。

興味深いことに、そして本当にありがたいことに、ジャニーズファンの皆様や、これは以前からある海外Buddiesの皆様のお力もあって、ペースとしては流れ弾の再生回数を超えてきているのが現状だ。

それらは本当に嬉しいことではあるのだけれど、私がふと立ち止まって考えたのは、もっと根本的なことだった。

欅坂時代から彼女たちが常に言い続けていることの一つに、「楽曲を届けること」というのがある。
楽曲全体に訴求力があって、いわゆる「本物」であるならば、時間がかかったとしても必ず再生回数は伸びると確信したのだ。

もちろん、紅白再出場のためにはそんなことを言っていられないところもあるけれど、本物は必ず後世に残る。

私は、「桜月」を後世に残る曲にしたいのだ。

実際、再生回数の数字の伸びは、私は悪くないと思っている。

勝負はまだまだこれからだ。


長き感想のラスサビ

秋元康の歌詞は、私は2番にこそ真髄があると思っているのだが、その2番のサビはこうだ。

落ちサビの歌詞にもつながる表現だとは思うけど、最初にも述べたとおり、私はアイドルグループが「散り際」にスポットを当てたことを声高に伝えたい。

あなたは、何かが終わりに近づいたときに、その終わらせ方を考えたことはあるか。

自分の思う方向に向かなくなったと悟ったとき、自分をどう散らせればいいのか。

これは美学だと思っている。

この世に生を受けて、命を全うする、その瞬間に体現したい美の集大成であると。

…櫻坂は、アイドルだ。

でもそれだけでは終わらない。

すべての人に、彼女たちは問いかけているのだろうか。

「これが私たちの生き方。
…で、あなたはどうなの?」

もしかしたら、ボールはこちら側にあるのかもしれない。


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川島 雅隆(かわしま まさたか)
noteの中でも、櫻坂46・日向坂46に特化した内容ですので、特に二つのグループの推し活を経て、皆様に文章で還元できるよう努めてまいります! よろしければサポートをお願い致します。