「魂のLiar」を聴いて派生した、私の魂の叫びのようなもの
時は、桜月な季節が少しずつ過ぎ去り、五月雨が頬を濡らす季節の足音が近づく。
櫻坂46の5thシングルが2月15日に発売され、まもなく2ヶ月。
「桜月」という楽曲は、櫻坂にとっての春のスタンダードとなるのは間違いなく、櫻坂46というグループが続く限り、春にはずっと歌い継がれる曲となるのであろう。それについては確信を持って言える。
坂道の楽曲、というより、現代のCDの売り方がそうなのかもしれないが、各種形態も含めてカップリング曲が複数あるというのは、もはやシングルではなくミニアルバムに近い。これはいつも思うことである。毎回彼女たちはミニアルバムを発売している、と言えなくもない。
「桜月」に関して言えば。
「Cool」は推しメン大園玲センター曲。どちらかといえば、歌詞は櫻坂というより欅坂を彷彿とさせる。櫻坂として新しい境地に挑戦しつつ、欅坂の系譜を忘れない、という姿勢がたまらなく嬉しい。彼女たちをずっと推してきた人間にとっては、楽曲の世界観が心に蓋をした部分を刺激する。
「もしかしたら真実」は、アルバム「As you know?」に収録された「ずっと春だったらなぁ」を継承するカラーリング。ただあの曲との違いがあるとすれば、こちらは色で言えばモノトーンのような、白黒映画を観るような感覚に陥るこの曲調で、実はこれも結構クセになる。明るい曲調のようで、どこか寂しさがずっとついてくる、そんな裏が表になり、表が裏になる微妙な心の移ろい方を的確に表現しているところが秀逸だ。
「無念」。収録内容が発表されたとき、このタイトルを見て本当に衝撃が走った。世の中が勝利と敗北の二分法だとしたら、櫻坂はどちらも経験したグループだ。それも中途半端ではない。世の中を突き動かすほどのムーヴメントを起こす大勝利と、グループを活動休止させなければならないという、見る人が見れば敗北としか思えない事態も経験した。だからこそ、無念と無念を晴らすためのバイタリティーに説得力が生まれるのだろうと納得した自分がいた。
「夏の近道」。櫻坂三期生の期生曲。おもてなし会と、冠番組のライブしか私は観ていないが、それでもその2回が実に違うものに見えたのは印象的だった。村井優・山下瞳月・谷口愛季・村山美羽といったダンス経験者だけでなく、全員のダンススキルがどんどん上がっていることがわかる。それもある意味、櫻坂の真骨頂である。Nobody's faultなどまさにその代表。披露すればするほど、まるで生き物のように、二度同じものはない。彼女たち三期生がこれから、グループの中で様々な経験をし、そしてあるとき思い出したようにこの曲を披露すれば、その経験に裏打ちされてまた違ったものに見えるはずでそれがとても楽しみだ。
「その日まで」については、もはや多くは語らない。ただこの曲が不意に流れてくると、それだけで涙腺が刺激されるという、私にとっては「二人セゾン」以来の立ち位置となる曲にまで昇華していった。
どれも私たちにとっては様々な「意味」を持つ楽曲ではあるが、個人的に今回、上記の楽曲とは全く違う意味づけとなった曲が、もう一曲ある。
「魂のLiar」
敢えて言うなら、上に記した「Cool」と「無念」から自分の心身に取り込んだ想いのハイブリットということにでもなろうか。
いずれにせよ、その芯として存在するのは、やはり私の中に大きくある「欅坂46」への想いなのかもしれない。
もう、刺さりまくるのだ。
あの曲の流れ、まさにQueenの「We Will Rock You」。
逆にそれ以外の何であるかと問いたくなるくらい。でもそれが、オマージュだとか何だとか、そんなことどうでもいいくらい刺さる。
(ちなみに、「We Will Rock You」の歌詞がBuddyから始まっているのは、偶然なのか必然なのか)
少し話は横に逸れるが。
アイドルって一体何なのか、と考えたとき、たとえば一般的なアイドルのイメージに近いのは、どう考えても乃木坂や日向坂の存在の方だろう。
アイドルは疑似恋愛の対象である、とよく言われる。
いかに惚れさせるか。
追いかける側も、それを求めているとされる。
とはいえ、50代を迎えた私のような存在が、そんな10代や20代と同じようなものを求めてアイドルを観ている、というわけはない。少なくとも私はそんなところに視点を置いていない。
蛇足ではあるが、先日日向坂46清水理央の流出騒動があったとき、彼女自らそのことに対する釈明のブログを書いた。その内容は、個人的にはわざわざ釈明する必要があるようには思えない話ではあるが、日向坂に加入する前にお付き合いしていた人がいたことを明かした。
もちろん、加入前の話なので問題などまるでない。
しかし、そこから私が見たものは、私の考えとは違った。
ミーグリの売上がよくないのだ。
本当に、恐怖さえ感じた。
「アイドルは、たとえ付き合っていたことがあったとしてもそれを明かしてはいけない」と書いてた向きも目にした。
ペナルティーはないにしても、おひさまの一部が冷めてしまった現実を見た。
私がアイドルに求めているものはそんなことではないので、たかだかその程度のことで人気に影響するというのが甚だ信じられないのである。
求めているものが違いすぎる。
日向坂が欅の木から離れて独立し、全く別の色に塗り替えた、と言ってもいいだろう。もちろん、生まれ変わって新しいカラーを身に纏うのだから、それはそれで正しい。ただその結果、新たに呼び込んだおひさまが彼女たちに求めているのは、そういう疑似恋愛の部分が大きいと言わざるを得ない。もちろんメンバーによっても、おひさまの求めるものは違うかもしれないけれど、清水理央の出来事ひとつとっても、日向坂メンバーにも一般的なアイドルに求められるものの比重が大きくなっている、ということは疑いようがない。
私が日向坂に求めているものについては、冗長になるので別の機会に譲るとして…
閑話休題。
翻ったときに、Buddiesとして櫻坂を支える私たちは、彼女たちの一体何に惚れたのか。
もちろんBuddiesの皆様それぞれにその答えはあるのだろうが、私の場合は彼女たちから「生き様」を見せつけられている想いがずっとあって、それが心を捉えて離さないのだ。
もちろん、欅坂の時代からそうだ。否、欅坂が一般的なアイドルが発信するようなコンテンツではなく、見かけの美しさなど必要ない、泥臭くてもいいから自分の道を突き進む尊さを訴えていたからこそである。
自分の娘のような年齢の彼女たちに、人生を教えられている。
もちろん冷静になって考えれば、彼女たちに楽曲という総合芸術を与えているのは、秋元康を始めとする周囲の「大人」である。歌詞然り、振付然り、ステージ構成然り。含蓄を感じるとすればそんな「大人」の作り上げた世界のせいではある。でも、たとえそうだとしても、「大人」の作り上げたそんな世界を、人として薄っぺらい人間があてがわれたとして、それこそこの曲の歌詞にあるような「誰かの人生変えてしまうくらい強烈な歌」を歌うことができるだろうか。
櫻坂46。構成するメンバー全員に「物語」がある。
それを知るからこそ惹かれるのである。
欅坂46として、いきなりデビュー曲が世の中を席巻し、
その後も売れ続けた中で、様々な出来事が彼女たちを襲い、
自分たちの力だけではどうにもならない渦に巻き込まれ、体を委ねるしかできない状態となり、
それこそ、たくさんの人の人生に影響を与えてきたかもしれない彼女たち自身が、
思い入れも愛着もあるそのグループ名を変える憂き目にさらされ、
そんな中でも、新しいグループ名となって3年目を迎え、
個人も成長させて現在に至る。
これを「物語」と言わずして何と言うのか。
魂とは。歌とは。人生とは。
確かに、長く生きていればその分の経験も豊富になるし、達観することもできるだろう。
でも私は、一生の価値は「長さ」で決まるのではなく、「濃さ」で決まるのだと思っている。
その瞬間でいかに濃密な時間を過ごせるか。
それができた人は、たとえ長い時間を生きていなくても、人生を語ることができる。
はっきり言う。
アイドルが日々やっていることは、そこら辺の一般人よりも、何倍も何十倍も濃密な時間となっている。彼女たちの凄まじさは、それを表に出さないことにあるのだ。
表面だけ見て、楽しそうだとか、何も考えてないだろうとか、そんなふうに思うことがいかに愚かか知ってもらいたいものである。
もちろん、今この駄文をお読みいただいている皆様に、そんな方はおられないとは思うけれども。
昨今、アイドルがアイドルというだけでバカにされるような、もはや差別意識としか呼べない事象が目立つ。
彼女たちがこれだけ魂入れて日々の活動をこなしながら、なぜここまで軽く見られてしまうのか。
歌っても歌っても、魂が届かない。
どれだけ心を込めて、強く強く願っても、どうせ、とか、たかが、と言われてしまう。
これが限界なのか。
アイドルの宿命なのか。
本当にそうなのか。
「魂のLiar」が心に響くのは、おそらく私の心が求めているものと、彼女たちの魂が共鳴したからだ。
さらに言えば、私がそうやって憂う彼女たちの境遇を打破したいと強く願う気持ちにも反響したから、なのかもしれない。
秋元康が、この曲を今の櫻坂46に提供しようとした、その理由の核を知りたい。