身体感覚

 祖母は変わった人で、「ヨソの子と遊ぶな」「騒ぐな」「じっとしていろ」と育てられました。祖母は幼稚園が終わった後に、近所の男の子が自宅に遊びに来たのを、追い返していました。家に友人が上がったことはたぶんありません。幼稚園や学校の放課後に友人と遊んだことも、ほとんどありません。年下の兄弟の面倒を見なさい、と言われ、泣かせてしまうと責められ、小さな子供にとっては大変ストレスフルな日々でした。

 現在のようにスマホやパソコンはなく、テレビもずっと点いている環境でもなく、暗い家の中で(電気は点けてもらえませんでした。祖母の頭が痛くなるからだそうです。小学生に上がってすぐ、近視になってしまいました)、わめくな騒ぐなと言われた子供の、ほとんど唯一の娯楽が「ゴロゴロしながら本を読むこと」でした。

 幼稚園~小学校低学年のころだったか、母が読み聞かせてくれていた本を、一人で通して読むことができました。「お母さん、やったよ!」「よかったね、もう一人で読めるね」その時から、ほとんど母には読んでもらえなくなったので、仕方なく一人で読むようになりました。漢字の多い本も読めるようになりました。小学校一年生のとき、「よく本を読むで賞」を貰ったり、他の同級生には読めない漢字も読めたりしました。

 だけど、身体の成長が著しい時期に、「幼稚園から帰ったらずっとゴロゴロする」生活は、大変苦痛でした。走りたい、外に出たい、…少しでも遠くに行くと叱られ、公園で妹を置いて遊びに行くと叱られ、とにかく「じっとしている」ことを求められました。運動しないので、かけっこはいつもビリけつ、「あの子は勉強がとっっっても良くできる子だから」と田舎の小さなコミュニティの中で、大変肩身の狭い思いをしました。おかげで、今でも人間が怖いです。

 本を読んでいると、たくさんの言葉と出会います。

 たとえばピーターパンは、クック船長と船の上で決闘することになり、細いローブの上で綱渡りを演じてみせます。臨場感のある面白いシーンです。しかし、「読めて」も「分からない」のです。

 ロープに足の裏がかかる感覚、浮遊感、潮風、波の音、そういった身体感覚が、「分からない」のです。大人になった今、ひとつひとつ自分の体の感覚と向き合いながら、もう一度自分の体を「感じる」ことを試みています。とても気持ちいいし、楽しいです。だけど、取り戻せないものもある、とも思います。もうこの世にいない祖母に、その祖母の言いなりだった両親に、何かを言うことも虚しいです。

 何年も前に、「現在の小学校中学年の体力は、昭和の時代の幼稚園児の体力と同じ」といったデータがあると、見聞きした覚えがあります。ジブリの映画の中で、「土から離れては人は生きられない」とありますが、現在の子供たちの身体感覚は、どうなんだろう、とふと感じることがあります。

 森の幼稚園や放課後保育、部活動など、さまざま体を動かす機会はある。だけど、「読めるけど分からない」……守られた箱庭の中で、本当に「分かる」には、自分の足で冒険する経験が必要なのではないか。人は、自分で経験したことしか、「分かる」ことはできないし、分かることができなければ、他者の痛みを想像することもできない……そう、感じる次第です。

 

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