「人間」を満喫
※こちらの記事では「フェルデンクライスメソッド」の一愛好者が、その体験を好き勝手に語っております。また、少し自分語りもしております。どうぞご容赦ください。またあくまで個人の所感、体感を元にしておりますことを、どうぞお含みおきいただきますよう、重ねてお願い申し上げます。
コペルニクス的転回、という言葉があります。
「太陽が地球の周りを周ってる(天動説)」と思ってたら、「地球が太陽の周りを周っていた(地動説)」と。物事の見方が180度転回する事象を言います。
小学生の頃にこの話を学んで、「天動説ぅ? プフーエラい学者なのに、真理を見抜けないなんて」とゴーマンにも思ったものですが(アイタタタ)、ふつーに生きてたら「太陽が地球の周りを周ってる」方の感覚が一般的ではないかと。なんだよ、太陽の周りを地球が回るって。太陽の方が毎日毎日出たり消えたりしてるんじゃないですの。
大地に足をつけて生活する人間の視点からは「太陽が動いている」と見えても、宇宙を作った神様の「世界」は地球が太陽の軌道を回っている、というのがその仕組みのようです。
というか、宇宙にロケット飛ばしちゃう遥か前に、地に足ついて空を見上げながら、まぁどーやったらそんなこと思い付けるものですかね。
「ち、地球の方が太陽の周りを周っている……だと!?」そんな認識の一大転換を、「わたしの体の中」で感じることがあります。
一般的な、大地に足をついた人間の感覚だと、「地球の周りを太陽が回っている」ように、「わたしの肉体はわたしのもので、わたしが自由に動かしている」と認識している方が多いのではないかと思います。
自分が「わたしの体」という車を操縦している。
だけど、「神様の視点」から見て「地球が太陽を周っている」ように、わたしたちの肉体には、神様が整えた「すばらしい働き」「すばらしい機能」が備わっている。それを今までは使いこなせず自分流に雑に扱ってきたけど、わたしはいま、その機能を知り体を動かすことを通して、神の御業を満喫している!と思う瞬間が、特に最近たくさんあります。
フェルデンクライス、というメソッドがあります。
「フェルデンクライス」とは人の名、「アレキサンダーテクニック」や「自力整体」と同じジャンルカテゴリに入るかな?と(私見ですが)認識しています。「笑いヨガ」も近いかも知れません。体を扱う健康活動である、というジャンルと、比較的マイナーであるという部分において。
「あんま針灸」のように国家資格が整えられた「治療に類似する行為」を行うものでなく、ヨガのように活動人口が多く「ヨガ、ああ、アレね」と一般的な市民権を得るまでに認識が広まっているわけでもない。
フェルデンクライスを一言で端的に言い表すのに、適した言葉をわたしは存じ上げません。知り合いのインストラクターの方も、「なんて説明していいものか難しいんだよね」とよく仰います。ただ、ここ2年ほどフェルデンクライスメソッドをマンツーマンでみてもらって、自分の体に対する理解や認識が、どんどん改まっている。
自己流で扱ってきた「わたしの肉体」に対し、「人間の肉体ってこんなに奥が深いものか!」「人間満喫中!」「ちゃんとその機能に沿って無理なく動かすことがこんなにキモチいいなんて!」と多々の感動を覚えております。
最近、「呼吸する」という行為が、大変カイテキでございます。体の中を風が吹き抜けていくような開放感、爽快感。「息する」とは「生きる」に通じる、とどこかで聞いたことがありますが、げに「生きる(息する)」ことはこれほどにキモチヨキことかな! 骨盤の動きにポイントがあったようです。まあ、そんな感じで、マニアックな気づきをいろいろといたしております。
車を自己流で運転すると、運転者の「クセ」がついてしまう、という話を聞いたことがあります。だから、運転に慣れていない人は中古車より新車がいいよ、と。ブレーキの掛け方、アクセルの踏み込み、車の機能を超えた挙動をさせれば、本来の車の寿命より、傷むのは早くなります。
それを、自分が運転するその横で、自動車学校で習うように補助してもらい、車の機能一つ一つを堪能しながら、「その速度ならタイヤがあまり擦り減らないんだ」「燃費がよくなるんだ」「半クラッチってこうやるんだ~」「へー、ギアの切り替えってこうすると車に無理なくスムーズにできるんだ~」みたいな発見を、自分の体に対して行っている感じです。
(AT車の方には、ピンときづらい例えですよね、ごめんなさい。MT車って、半クラッチをミスると、プスンとエンストするの。坂道発進難しい!)
ただ、こういった気づきは個人の体感によるところが大きく、インストラクターの先生いわく「動きは明らかに変わってるのに、それに気づかない人多いよ」と。また、こうも仰います。「フェルデンクライスって、地味なんだよね」
そう、動きは「地味」です。直近で「コペルニクス的転回」だと思った瞬間は、「壁に手をついて片足のつま先を上げたり、かかとを上げたり、を交互に行う」という動きを行っていたときでございます。
外側から見たら、10センチも身体動いてないんじゃないかな。
体の中の骨盤の動きの連動がハジメテの感覚で脳も体も大騒ぎ、とナニガナンダカな所感ですが、体感してみたらわかるから!でも、「体感」って個々人の五感にゆだねられた、個々人固有の経験なんですよね。
個人の肉体それぞれが、各人に合わせて微妙に細部を調整して作られた、神様製オーダーメイドなのと同様に、その五感を通して得られる感覚や気づきも個々人それぞれのもの。
気づきはそれぞれだけど、コツコツ自分の体と向き合い、その動きを感じようとすれば、「科学的に」(再現性が高く)、比較的誰でも感じられるメソッド。
それが、フェルデンクライスの価値ではないかと、個人的には思うのです。
ちょっと自分の過去語りを致しますが、わたしは肉体が発達する幼稚園前後、おばあちゃんとおかあさんの方針で、「外で友だちと遊ぶな」「家でおとなしくしていろ」と、体を動かす機会を取り上げられ、家でゴロゴロしていました。
「外に遊びに行きたい」
「外は危ないからダメ」
もう、とにかく動き回りたかった。しかし、人間適応能力というのはあるもので、ゴロゴロ寝転がって本を読んでいると、もう動くのがメンドウクサクなってくるのですね。ナマケモノでございます。小学校に上がるころには、小太りでかけっこはドベケツ、「わたしは運動が苦手なんだ」と半ばあきらめておりました。
だけど、動かし方を学ぶ機会がなかっただけだった。学びなおすことができる!
試行錯誤しながら自分の体と向き合う時間は、赤ちゃんが一人遊びをしながら自分の体を知っていく時間を、もう一度たどっているのかも知れません。
わたしがお世話になっているインストラクターの方も、「最近赤ちゃんをよくみるんですよ」と言っておられました。赤ちゃんの頃に、フェルデンクルイスで自分のからだの取り扱い方を補助してもらえたら、その後の人生において、とても大切な大きな贈り物を授けてもらったといえるのではないかと、個人的には感じます。
まあ、地味なんですけどね。マニアックだし、各人によって体感も違う。開脚のように「おなかがベターっと地面につきます」みたいな、分かりやすく達成感のあるゴールもありません。
だけど、地道に重ねる自分の体との対話の時間は、ひょっとしたらカラダを作り宇宙を作った「神様」と言われるナニモノかの奇跡を、自らの五感を通して体感できる時間なのではないかと、感じたりする所存でございます。
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