補助席とワガママ

※こちらの記事では、自分の考えを整理するためにあーだこーだ好き勝手に語り散らしております。どうぞご容赦ください。

 これはちょっと事の顛末を書いておかなければならないであろう、と半ば義務感に駆られて書いている次第でございます。

「あ…ありのまま 今 起こった事を話すぜ!」←これがやりたかっただけとも言う。

 前述の記事にて、とある合宿研修に参加するかしないか、悶々悩んでいました。カラダは「行かない」。ココロは「行きたい」。で、わたしは「行かない」と決意し、NOTE上で宣言いたしました。そして、主催者にも「欠席します」とメールをしました。

 すると、来たんですね。怒涛のごとく。ココロの抵抗が。
「やだやだやだやだ行く行く行く行く――――!!!」
 ココロにセリフを吐かせるとこんな感じ。
 で、途方に暮れました。わたし、休みたいんだけど。欠席って言っちゃったんだけど。泣きながら、主催者に連絡しました。
「体の調子があまりよくないので、バスの席に余裕があり、途中寝転がって移動しても差し支えないようなら、参加したいのですが……」
 主催者サイドからは、「バスの席だいじょうぶですよ」と返事をいただいたので、最低限バスで休めるとほっとして集合場所に向かいます。

 翌朝6時。
「ごめんなさいね。バス満席です」
 わたしが申し込んだ時点では1席空きがあったのが、深夜に追加参加の申し出があり、ピタっと満席に。
「体調がしんどいなら補助席を出して、横になってくださいね」と。
 ここで、わたしの中の何かがプツンと音を立てて切れました。
「わたし、ここでバスに乗らずに帰ります」大泣きしながら、言いました。

 やだもー恥ずかしい。人として恥ずかしい。
 自分の中で、ココロに引きずられて(バスで休めるなら)とイヤイヤ譲歩して集合し、しかしバスの中では休めないことがはっきり断言されてしまった。
 【カラダの声】ココロよ、お前はバスの集合場所に来れば、観念してバスがいっぱいでもなんでも参加するものだと思っているのだろう。ならぬ、貴様の好きにはならせぬぞ。
 【ココロの声】行く行く行く行く行く行く行く行く行く――!!!!

 結局、わんわん泣いて帰ると言い出すわたしを見かねて、おひとり補助席に移ってくださり、わたしは体を休めながらバスで移動し、合宿にも無事参加できたのでした。
 穴は、穴はどこですか。

 えっと、そんなこんなで無事行って帰ってきました。反省したいと思います。

 まず1点目。
 わたしはあまりに自分の視野の中だけで物事を考えていました。
 合宿に参加「したい」のはわたし、体を「休めたい」のもわたし。合宿に参加しながら体を休めることができれば、という自分の中の妥協で「バスで横になれるなら参加します」といいましたが、これはあまりに自分勝手で幼い暴論でございました。
 本来は「粛々と与えられた環境で参加する」か「最初から参加しない」かのどちらかです。それが自己責任を果たせる大人というヤツの本来あるべき姿でしょう。
 ……自分の我を通すために周囲の善意に甘え、心配をかけてしまった。もうやだ、穴に入って静かに暮らしたい。わたしは貝になりたい。

 2点目。
 前述の記事で、わたしは「合宿に参加することは間違いなく価値がある」と述べましたが、それはうわべだけのことであったと、今回のことで思い知らされました。そう、本当に自分にとって価値があれば、「バスが満席で自分の体が休めなくても行く」、そもそも「迷わず出席する」です。欠席と出席をやじろべえのようにふわふわと行ったり来たりし、自分の「思った通りの」条件でなければ、合宿自体に行かないと駄々をこねる――どこが「価値があると思っている」のか。

 3点目。
 今回のわたしは、ココロとカラダの暴走に翻弄され、さんさいの子が「いやいやいやいやいやー」するような大変見苦しい状態でした。
 ただ、諸先輩の皆様方によると、「ああ、よくある話」ということ。
 なんかね、そういうのって出てくるときには出てくるんですって。
「気にしてるのは本人だけよ」とカラっと言われました。もちろん、中には何も言わないけれど眉をひそめている方もおられましょうが。
 ただ、わたしにとっては、「キチンとできなかった」「ヒトとしてあまりに未熟なふるまい」を、「ヨシヨシハイハイ」とそっと見守っていただき、「お菓子たべな?」とあやしてもらい、「あはは」と笑って済ませてもらったことは、大きな安心感を得られた経験でもありました。幼少の頃に「ちゃんとできないとダメ」と言われる環境にいて、本来、家族や近しい人に見せるべきダメダメな部分を、誰にも見せてこなかった。見せたら、ダメだと思っていた。
 それが、今回半強制的にプッチンとやってしまって、それをハイハイとただ見守り、「大丈夫?」と声掛けしてくださった方がたくさんおられたことは、自分にとって本当に救われる出来事でした。
 いままで、わたしは組織(サークルとか労働組合とか習い事とか)などから「頼まれごと」をされたときに「うわ、またわたしを(一方的に)利用しようとしている」みたいな感覚を持ってきました。本来、こういった役割ごとは持ちつ持たれつで回していくものであるのが、自分の方が一方的に相手をお世話するような感覚を持ってきました。それは、幼少期からの家族との関係性をがっつり引きずっていて、それにとらわれているからでした。
 今回の件で、その認識が少し変われそうな感じがします。
 なんとかいい話でまとめようと必死ですが(笑)、ヒトとしてあまりに未熟なことに改めて気づいたこと、そしてヒトのやさしさを実感したことを残しておきたく、したためた次第です。

 最後に一言。結局ココロの思い通りかよ、お前、いい加減にしろ。

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