素っ裸にパンツ

※こちらの記事は、自分の考えを整理するために、あーだこーだ自分語りしております。ご容赦ください。

 先ほどの記事にて、「NOTEに好き勝手書きたいことを書いています。いままで自己表現の場がなかった自分にとって、それは現実の人間関係から切り離された『安心安全な秘密基地』を得たような感覚でした。ある人にNOTEに書いていることを伝えました。すると、人の目を意識している自分に気づきました」という顛末を、過去の未消化のエピソードを述べながら、あーだこーだ書きました。
 「書く」ということをすると、次々と新たな気づきが出てきて不思議です。現実のお知り合いにNOTEのことを伝えてから、前述の記事を書くまで、実は少し葛藤がありました。でも、今日書いてみたら、もう次から次から書きたいことが止まらなくなってしまったわけでございます。
 もう寝たい。わたしの眠気はMAXよ。
 書く、という行為はわたしにとって、もっと言えばわたしの「思考」にとって大変有益な行為ですが、肉体の睡眠リズムをともすれば乱してしまいがちで、それが目下のところの悩みであります。

 先ほどの記事で取り上げた「人の目」ですが、意識の差異について新たに気づいたので、覚書として残しておこうかと。
 つまり、「真っ裸のワタクシ」状態で書くか、「パンツ履いたワタクシ」で書くか、という意識の差異が、顔を見知った知り合いの方にNOTEの存在を知られたことによって生じた、という発見です。
 真っ裸だと、ラクだし楽しい。なんでも好き勝手に書き散らせます。もちろん公開している以上は、公序良俗に配慮した内容である必要はあります。あえての炎上目的かよほどの強い決意を持ってるとかでなければ、こういった「誰の目もある場所」で、表現の内容に配慮するのは当然のことと存じます。
 (配慮が至らない部分もあるかと思いますが。よく記事の中で身内を罵倒してますし)

 これが、「あの人も見てる(かも知れない)」となると、「パンツ履かなきゃ」と思う。
 たとえば、他人に理解を得られるかどうか、判断がわかれる趣味を持っていたとします。
 仮に、「わたしは同性同士の緊縛プレイの薄い本が好きです」(仮)としましょう。
 その趣味(仮)について、わたしはものすごく語りたい、とする。現実の人間関係と完全切り離されていれば、「亀甲縛りの食い込み具合、たまらん」(仮)等といったことが、思う存分に書けるわけです。あくまで、例示した趣味は(仮)でございます。わたしは緊縛よりも焦らして空イキの方がなんでもないですとも。

 それが、「あの人が見てる(かもしれない)」となりますとね。その記事を書いた後に、実際にお会いすると、「この人は、はて……例の亀甲縛りの記事(仮)を読んだのか否か」を探りながら、相手と会話をする自分になってしまう。なんということでしょう、これも自意識過剰の一症状なのでしょうか。相手の方も、「亀甲縛りの記事、斬新ですね!」とか言えないでしょうしねぇ。
 だから、記事にする話題選びをする際に、「パンツ履かないといけないかな」となってくるわけです。

 自分のなかで「マッパ」に属する話題を挙げると、「アノ人(共通の知人)へのダメ出しとか、ここがキライだよ、みたいなブラック愚痴話」、「マイノリティ的な趣味嗜好」、「個人の信仰や宗教観」、「MLMやスピリチュアル系でやっつまった体験話」、などがございます。
 とくに、「やっつまった体験話」なんかは、誰にも語れないけど、言いたい言いたい言いたい言いたいばかりでございますので、誰それに読まれるの関係なく、いつか記事にするかもしれません。
 基本、石橋を叩きすぎるくせに、アホなんです。だけど、ひとつひとつ自分でイタイ目を見て学んだことは、きちんと肥やしにしていきたい。
 自分のイタイ体験を「肥やし」にするための手段。それがわたしにとっての書くことです。
 いまは過去の体験とか、自分の考えの整理が主ですが、いつか開き直ってエッセイ風に体験談が語れる境地にたどり着けたらいいなと思っています。 

いいなと思ったら応援しよう!