自己嫌悪の理由
※こちらの記事は、自分の考えを整理するために、あーだこーだ好き勝手に自己分析し、痛々しい自分語りをしております。お気をつけください。
ここのところのNOTEに「書く」という行為は、わたしにとって誰かに聞いて欲しかった話を、真っ裸で包み隠さずさらけ出しているような感覚です。
ブログのアカウントも持っていますし、SNSもやっています。だけど、そちらに公開するのは「服を着た自分」。
現実でも顔を合わせる機会のある他人に、「わたし」という人間の印象があまり損なわれないよう、TPOに準じた服を着てふるまうように、「余所行き」の意識で書いています。よそ行きって疲れますよね、だからSNSは読む専で、滅多に書きません。ブログもアカウントだけ作ってほとんど放置です。
NOTEはマッパ。等身大、ありのままの自分の体験や考え、わたしという人間を通して感じた「わたしの物語」を、誰かに聞いて欲しかったお話を、これでもかと正直にド直球に書きなぐっています。
不思議なことに、書く端から書く端から、気づくことがある。
昨日「いじめられたいじめられた言って被害者ぶってるけど、自分だってなかなかヒドイ人間である」といった旨の記事を書きました。
すると、気づき、というより思い出したことがありました。それをまたありのままに書きます。
何回も書いてると、いい加減自分でももーいいかな、と思ってきたのですが、わたしは「機能不全家庭」で貧乏くじ役を押し付けられ、いじめられてきました。また、母は情緒不安定で、過干渉のヘリコプターペアレント。
「お願いだからおかあさんの言うことを聞いて」となだめすかして懇願することもあれば、「おまえ、誰に向かってそんなクチ聞いてるの」と動物をしつけるように手をあげる。「自分の言うことを聞かせて」「ガマンさせること」が親の役目とばかりに、精神的に押さえつけられ、圧搾させる日々でした。
そんな中で、わたしは母と対話を試みようとしましたが、わたしが大学生になって実家を出るまで、彼女はわたしと対等に話をする姿勢を見せてくれたことはありませんでした。
2才くらい、確か幼稚園に入る前頃に、おかあさんと話していて「この人の言うことは信用できない」と愕然とし、「言ったことがコロコロと変わるから、わたしだけでもこの人の言ったことを正確に記憶しておかなければ」と胸に誓った記憶があります。また、同じく2才くらいだったと思いますが、何かをやらかして、おかあさんにひどく叱りつけられ、もう泣くしかないところまで精神的に追い詰められ、わーんと泣く。そんなことがたびたび起こりました。「おかあさんはもう大人になってしまったから、子供の気持ちが分からないんだ。わたしは大人になっても、子供がこんなに傷つくということを覚えていよう」と思ったことを鮮明に覚えています。小学校低学年の頃には「ここは出ていかなければならない」「とにかく離れなければ」と、とにかく実家を出ること、経済的に自立することを第一に考えてきました。
実家を出ること、それがわたしの生きる希望であり、人生の最大の目標でした。
わたしはよく母から「お前は他人の気持ちが分からないヤツだ」と言われました。また、「おねえちゃんがいると空気が悪くなる」とか「おねえちゃんはおかしい」など、少しでも母の気に障ることを口にしてしまったり、妹とぶつかるようなことが起こると、とにかく人格を否定するようなことを日常的に言われました。
母も妹たちも、とにかく「おねえちゃんが悪い」「おねえちゃんがおかしい」と言います。
わたしは、(違う)、と心の中で思いました。
(違う、オカシイのはお前たちだ)
しかし、彼女の言い分にも一理あるのです。わたしは確かに他人の気持ちを推し量ることが不得手でした。空気を読まずに衝動で物を言ってしまうこともあります。
わたしは、「とにかく事実をベースにして話をしよう」「客観的に確実なことを、できるだけ相手に分かりやすく伝えるよう心がけよう」と思いました。
また、確かに自分はおかあさんの言う通りに「他人の気持ちが分からなかったり」「空気を悪くする」存在かも知れない。だけど、せめて与えられた環境の中では、正しくあろう。毅然と胸を張って、少しでもマシな人間であるように努力をしよう。
また、こうも思っていました。わたしは、おかあさんのような人間には絶対になりたくない。自分の子供に、おかあさんがわたしにしたような思いを、絶対にさせたくない。
わたしは、自分なりに自分の置かれた環境の中で、清廉潔白であろう、と努力しようとしました。
だけど事実として、わたしという人間は、自分を慕ってくれた犬を「助からないから早く楽になってね」と目を背けたり、いじめっ子に言われるままに、気の弱いクラスメートを押し倒して引きずるような、惰弱で弱い人間でした。
わたしは正しくあることなどできない、環境の中で翻弄される、被害者意識を盾にした、ただの弱い人間に過ぎませんでした。
だけど、その当時のわたしの自意識はそうは思わなかったんですね。
「わたしは清く正しくあろう」「わたしは母親とは違う、マシな人間であろう」。
わたしは自分をいじめてくるような人間とは違う。あいつらよりはマシな人間だ。
そう思いたかった。そう思いたがっていたのに、「現実の自分の弱さ」という事実と直面し、わたしは自分が卑怯で弱い人間だと思い知るような経験をして、とてもショックだったのです。
おかあさんや家族が当時わたしにしたことは、ヒトとして最低の行為だと今でも思います。
けれど、わたしの方も「お前たちよりマシだ」とか「わたしの方が正しい」と言えるような人間ではなかった。
母やきょうだいたちが卑怯で弱いように、わたしも卑怯で弱い存在だった。少なくとも、「お前たちがおかしい。わたしが正しい」と言えるような立場ではないことがはっきりと分かってしまった。
今でも、彼女たちのことを許そうとは思いません。特定の個人をスケープゴートにして集団の体を保ち、挙句に「あのときは仕方がなかった」「まだ気にしてるの」と自分たちを正当化するような卑怯なひとたちだと、今でもはっきりと認識しています。
だけど、それを「正しくない」と裁くような正しさは、わたしの側になかった。ただ、それだけのことでした。
そう、もう正しいとかマシとかいうモノサシで、精神的に彼女たちに縛られるのは、終わりにしようと思います。どちらにしても、わたしはおかあさんのこともきょうだいたちのことも、理解できません。
今後、彼女たちとかかわることがあったときには、自分の境界線を引き、情に流されないよう、そして自分の「正しさ」に目がくらまないよう、自分は自分の境涯を生きることに専念していきたいと思う次第でございます。
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