36.芽生えた迷い

彼の呟きはその通りだと思います。
でも見ず知らずの男による性犯罪を、私はどう立証したらいいのでしょう。
立証したい、警察に突き出したいという気持ちはあっても、被害者はその性犯罪のせいで生活や精神状態に少なくない異変が起きてしまい正直、加害者をどうこうしようとする気持ちの余裕はありません。

当事者になったこともないのに、勝手なこと言って欲しくないという気持ちや、過去のレイプも今日の痴漢も私になんらかの落ち度があるからこんな目に遭うのではないかという自責の念がごちゃ混ぜになり、怒りとして噴出したその感情を彼にぶつけました。

「警察に通報したらいいの?そしたら、警察は確実にそいつを捕まえて、死刑にでもしてくれるの?性犯罪者は捕まっても何年かしたらまた社会に出てくるんだよ。性犯罪者は再犯だって多いのにたった何年か服役させただけで、また野放しにしてるのは国でしょ?司法でしょ?被害受けた方じゃない!

それに通報したらどんな状況でどんな風にどんなことをされたのかを初対面の警察に詳しく話さなくちゃいけない。自分が破壊されていく様を人にさらすのが、どんだけしんどいことか考えたことある?
しかも通報したところで、証拠もないのにどうやって立証するの?もし捕まったとしてもこっちが恐怖で動けなかったことを『抵抗しなかったから同意のうえだ』とか、身を守る為に防衛本能で体が反応しただけのことを『喜んでた』とか『感じてた』とか言われたら……。
そしたら被害者はレイプにあっただけでも死んでしまいたいほど苦しむのに、余計に傷がえぐられるだけなんだよ?
勝手なこと言わないでよ!」

いつの間にか、彼はどこかの駐車場に車を入れていました。

「なぁ…今日のは痴漢だよな?レイプってどういうことだよ?」

エンジンを切り、彼は静かにそう言いました。

「もしかして、そういうことがあったのか?」

いつもとは違う声色の彼に、私は我に返りました。

「時々おかしくなるのもそのせいか?」

肯定はしませんでしたが、否定できないことが肯定を物語っていました。

ガン!!

突然の衝撃音に驚いて彼をみると、握り拳でハンドルを殴っていました。
私が止めるまで、何度も何度も彼は殴り続けました。

長い沈黙のあとで
「手、大丈夫?」
と聞きましたが返事はありませんでした。
彼は無言のままエンジンをかけると、車を走らせました。

しばらく走ってから
「じゃなんで…」
と彼が言いました。

次の言葉を待っていた私に
「…いや…やっぱいい。何でもない」
と彼は言い、問いかけをやめました。

確認はしませんでしたが、多分
「そんなことがあったのに、露出の多い衣装で男の足に乗る店で働いてたのか?普通無理だろ?」
というようなことを聞きたかったのではないかと思います。

この時がきっと
『桜瑚のことを理解して支えていくのは、自分には無理かもしれない』
彼がそう感じた最初だったのだろうという気がしています。












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