「ソウルメイト・ドラゴン~篤あっつつ~」第二十七話 そして思い出した。私がまだ女だったことを
そして思い出した。私がまだ女だったことを・・・リーディング時代小説「篤あっつつ」㉗
薄桃色の桜吹雪に見送られ江戸城を出た私は、三十二歳だった。二十歳で大奥に入り、女が最も美しく輝いた十二年間を大奥で費やした。けれど後悔などない。そう思い大奥のあった江戸城本丸を一歩出た時だった。誰かに襟を引っ張られた気がして、足が止まった。胸から上半身を後ろにひねる。真後ろで家定様が笑っていた。嘘ではない。袴に包まれていたが、しっかり足もあった。えっ?と目をつむり、もう一度目を開くと、家定様の姿は消えていた。
「誰か・・・・・」と侍女を呼ぼうとして声を飲み込む。家定様の姿は私にしか見えなかったはずだ、とわかるからだ。あのはにかむような笑顔は、二人だけの時に見せる顔で、彼の本性だった。
家定様も私と一緒にこの江戸城から旅立ちたかったのだ。私はそっと懐にしまった家定様からいただいた赤い蝶が舞う黒い櫛を押さえた。たくさんの着物は皆に分け与えたが、この櫛だけは肌身離さず持っている。
「家定様、さぁ一緒に参りましょう」小さな声で囁き、二度と後ろを振り向かなかった。
江戸城を出てからは、家定様の生母の本寿院様と一橋邸に暮らし、亀之助を育てた。生まれて初めての子育ては大変なこともあったが、楽しかった。
彼は物覚えもよく、頭の回転も良かった。
私は事あるごとに
「あなたは江戸幕府を作り、三百年近く日本を平和にした徳川の家の跡取りなのです。誇りを持って生きなさい」
と言い続けた。徳川は没落したのではなく、新しく生まれ変わっただけだ、とも伝えた。亀之助には、徳川に生まれたことをハンデではなく、自信に変え新しい時代を生き抜いて欲しかった。
時代は新しく明治という年号に変り、鎖国を止め国を開いたが、まだ法も秩序も整っていない。新政府も民も右往左往している。
だけどそれは当然だった。
三百年近く続いたものを変えるのは、並大抵ではない。個人でも長年続けた自分のやり方や習慣を変えるのは、むつかしい。
これまで慣れ親しんだコンフォートゾーンという安全地帯から出るのが、怖いのだ。国全体がコンフォートゾーンから出るのを怖れているように見える。そのせいか、鳥羽伏見や函館などで内戦や反乱が起こった。
新しい日本は身震いしながら、産みの苦しみを味わっている。
江戸城無血開城から十年後、あの西郷も西南戦争で命を落とした。その知らせを聞いた時、膝から力が抜け床に崩れた。
私は結局、薩摩に帰ることはなかった。
いつの間にか私にとっての故郷は、桜島のある薩摩ではなく、大奥のあった江戸城になっていた。
私達が出た江戸城は明治政府のものになり、その後天皇が移ってこられ、皇城と呼ばれた。かつて江戸と呼ばれたこの国の中心は、天皇が京都から来られたことで、東京と呼ばれるようになった。
今ならわかる。家定様や家茂様が手渡したかったのは、徳川、という家系ではなく、日本という国の平和な未来だった。私と静寛院宮様は、二人の思いを新しい政府に引き渡した。子供を産んで命のバトンを未来に手渡すのではなく、新しい時代となる架け橋をつないだ。
江戸城を出た後、世間から楽隠居と思われていただろうが、私は色々忙しかった。亀之助を育てながら大奥に勤めていた者たちの再就職の世話に駆けずりまわり、結婚を希望する者には、縁談の世話もした。
忙しい毎日だったが、手持無沙汰の大奥の生活よりも何十倍も楽しかった。中でも、時々会う静寛院宮様との時間はひとしおだった。
静寛院宮様は江戸城から退城された翌年、一旦京に戻られた。
しかし明治七年にまた東京に戻ってこられた。私は手を叩いて喜んだ。彼女とは激動の時代を共に生き抜いた徳川の嫁で、最強の同志だ。それからは一緒に東京にできた話題のスポットや美味しいと評判の店にお茶に行き、ランチを楽しんだ。
もちろん私達の身分は隠し、一般庶民のように何喰わぬ顔で色んなお店に入入る。ただ行くだけではつまらないので、訪れた場所や店をコッソリ格付けして表を作った。
それを私達は「徳ミシュラン」と呼んだ。
「徳ミシュラン」は華族の奥様達に好評で、「徳ミシュラン」の星がいくつもついた店は、満員御礼の人気店になったそうだ。
大奥とまったくちがう自由な女子的生活を楽しんだ。
静寛院宮様以外、私がよく遊んだ人物は江戸城無血開城に尽力し最後まで徳川存続に力を注いだ勝だった。
彼は話もうまく、明るく豪放。女好きする男だった。
女一人ではいけない酒場や、芝居や相撲も彼が連れて行ってくれた。いわゆるデートというものをしたことがない私は、勝のエスコートがとても新鮮だった。彼は妻帯者でありながら、愛人もいる上、女にモテモテだった。
彼はお酒好きの私に、汚いけど美味しい酒の肴がある、という店に連れて行った。確かに一人では二の足を踏み、背中を向けて帰るようような店だった。掘っ立て小屋のような店は、外まで男達の酔った声が響き渡っていた。勝は平気で暖簾をくぐり、私のために席を作ってもらう。店の中は煙がもうもうで、向かいの席の人の姿も見えない。服に匂いが染みこむこと間違いなしで、家に帰ったらどこに出かけていたのか、追及されそうだ。カウンターの中の大きな七輪で、串刺しの食べ物が数十本焼かれ、美味しそうな匂いが鼻をくすぐる。席に座ると酒が運ばれた。何が焼かれているのか興味津々で身を乗り出した時
「おまちどうさん」と頭のてかった店主がドン、と目の前に串焼きの入った皿を置いた。
串にささったものを恐る恐る口に入れると、甘辛いたれと鶏肉の肉汁が口の中に溢れだす。
「美味しい!」思わず口に出すと、私の顔をのぞきこんでいた勝が言う。
「そうでしょう?それを食った後、酒を口に含んで飲んでみて下さい。口の中がさっぱりしますから」
言われた通り酒を飲むと、鶏の脂っこさを酒が消し去るのがわかった。
「ね、美味いでしょ?」子供が手柄を誉めてほしいような顔で勝が笑う。
その笑顔にくらっ、ときた。
家定様と一緒にいた時には体験したことがない揺らぎだ。私は心のゆるみを引き締める。
亀之助は十四歳でイギリスのイートンカレッジに留学した。多額の費用が家計をひっ迫し生活が苦しくなった。
そんな状況を見かねた薩摩から、何度も金銭の援助を申し出た。けれど今の私はもう島津の人間ではなく、徳川の人間だ。私の故郷はこの東京だ。島津に甘え、援助を受ける理由はない。
カウンターに肘をつき酒を飲む勝にそう伝えると
「あなたは甘え下手ですね。もっと上手に甘えればいいのに」
と彼は目を細め微笑む。胸がドキッと音を立てた。
彼が女にもてる理由がわかった。こういうセリフが、女のハートを震わせるのだ。心のボタンを締め直し、串焼きをもう一本口にくわえる。
私だって甘えたい。だが一度甘えたら、クセになりそうで怖い。
私の夫は家定様だけで一人で生きていく、と決めたのだから、一人で頑張るしかない。と告げる私に
「一人で頑張らなくても、いいのですよ。
一人で頑張っているから助けたくなるし、愛おしくなるんです」
と勝は言った。
胸の早鐘が止まらない。
オーマイガー!!と心の中で叫んだ時、固く締めたはずのボタンが引きちぎれて飛んだ。
「それだったら一度だけ、甘えさせてもらうわ」
煙のまきたつ店で自分から彼に抱きつく。男の吐く息から酒の匂いがする。がっしりと厚い胸板は、優しく私を受けとめた。心地よい酒の酔いが戒めを麻痺させ、彼の胸にまわした手に力を込め、浅黒い首に頬を寄せ、肩に自分の首を載せた。酔った客たちは私達に見向きもせず、大声で唾をまき散らしながら話し、酒を飲み、串を食らう。上半身だけ男に抱かれ、下半身はまっすぐカウンターの下で足を揃えている。だがその足の間がじゅわり、と潤んでいることに気づく。そして思い出した。
私がまだ女だったことを。
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