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レディー・ドラゴン セックスレスな妻たちへ

夫の名前が、思い出せなかった~レディー・ドラゴン~③


電気が消えた真っ暗な部屋でその女を見ようと、璃宇はよくよく目をこらす。
ぼんやりとした影が、女の面影を描く。
暗闇に慣れた目が女の姿をじょじょにフォーカスする。女は虚ろな目をし、璃宇を見つめていた。
背中は丸く髪の毛はボサボサで、老女のようだった。
「あ、あなたは誰?」
かすれる声で、璃宇はもう一度女に尋ねる。

けれどその声は闇に吸い込まれ、ぽとん、と床に落ちて消えた。
女は目の前で立ちすくみ、じっと璃宇を見つめる。女の視線から逃れたいのにその場で杭を打たれたように体は動かず、目もそらせない。

璃宇は今の自分が、テレビのCМで見た台所を這い回る茶色の不気味な虫を凍らせ殺虫剤をかけられたようだ、と思い脇から冷汗が滲むのを感じた。
あの虫は凍らされ叩き潰されるか、ティッシュにつままれゴミ箱に捨てられるかのどちらかだ。
自分もそうなるかよ思うと、璃宇は髪の毛が逆立つほど恐ろしくなり、夫を呼ぼうとして、ハッ!と気づく。
夫の名前がわからない。
璃宇はこれまで夫を、何と呼んでいたのか必死に思いだす。
「あなた?」
「お父さん?」
「パパ?」
璃宇の頭は、鍋の中で絡んだスパゲティーのように混乱した。
夫の名前が、思い出せなかった。

二十五年間、一緒に住んでいる夫の名前を思い出せないことに気づいた璃宇は、自分が若年性アルツハイマーにでもなったか、と疑った。その時、現実に戻り金縛りがとけた。

幽霊より何より、アルツハイマーの方が怖くてガクガク足が震える。
息を止めたまま目を閉じ、その場から逃げようとしたその時
「ほーら、また逃げる。目をそらさず、しっかり現実を見てごらんよ」
とまた声がする。
現実から目をそらし逃げようとする璃宇を、面白がっている声だ。
だが璃宇は一刻も早くこの場を立ち去り、寝室まで走り、ベッドにもぐりこみたかった。両手で耳をふさぎ幻聴だと何度も首を振る。
「大げさね~。いいから、目を開けて。
そして、よく見て!」
呆れるわ、とでも言うように、その声の持ち主は璃宇に命じた。
璃宇は怖くてたまらなかったが意を決し、固く閉じた目をうっすら開く。
そして言われた通り、よく見た。

目の前にあったのは、リビングの入り口に置いてある全身の映る細長い姿見だった。
璃宇は思い出す。レッスン後に数人の生徒が自分の作ったアレンジメントを持ち写真を撮りたい、というリクエストがあった。
インスタグラムやフェイスブックにアップするという。インスタ映えするために、化粧直しをしたい、という声があがり、長女の部屋から運んだ鏡だった。
幽霊でも何でもない。
ふだんそこにあるはずのない鏡に、自分の姿が映っていただけだった。
体中の毛穴から固く縮こまった空気が、はぁ、というため息になり、体の外に出て行った。悪夢から醒めたように璃宇は、正気に戻る。
そしてあのザンバラ髪の虚ろな目をした老女は自分だ、と気づきショックを受けた。

だとしたら、あの声はいったいどこから聴こえたのか、と璃宇は混乱し両手で頭を抱え床にうずくまる。
するとその時
「もう!いい加減気づいてよね!
あんたよ!
あんたの中からよ。
あんたが言ってるのよ!」
自分の体の中から響く怒鳴り声を聴いて、璃宇は顔を上げた。

そして恐るおそる下を向き、自分の下腹部に手を当てる。
子宮だ。信じられない、と首を振りながらお腹をさする。でも声の出どころはここだ。ここから声が聴こえる。
璃宇は自分の子宮が、自分にモノ申していたことに気づき、愕然とした。

「あ~、ようやく気づいてくれたね」
ほっ、と安心した声で、璃宇の子宮は言う。聞こえる、その声もしっかり聞こえる。
そして唐突に、自ら子宮を捨てたあの人のことを思い出した。

彼女は子宮を捨てることで、女としての幸せも捨てた。
その後、娘達を守るために再嫁したのに、あの人は新しい夫に自分の体に指一本触れさせなかった。
私は自分の子宮を捨ててないし、今も子宮はここにある。そして子宮は私に話しかけている・・・・・・その事実を現実に受け入れがたいが、璃宇はそれもありかもしれない、と思った。

「あのね、自分の体の中に子宮がある、てことは、彼女も同じだったの。
体から取り出したのはあの人のイメージ。新しい道を切り開く覚悟の現れだったの。
でもね、あんたは何の覚悟も努力もしないまま、勝手に女を閉じただけ。
生理が終わり更年期になったから女じゃない、と都合のいい理由をつけ、問題から逃げただけ。自分を幸せにする覚悟がないのに、愚痴ばかり言うずるい女。それがあんたよ」

璃宇の子宮は、冷たく言い放つ。その言葉は璃宇の心をえぐった。すべて図星だ。
自分の子宮は今から一体何を言いだすのかわからず、璃宇はお腹に手を当て唇を噛んだ。フローリングの床についたままのお尻は、どんどん冷えていく。


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