シリアについて-2-
戦争映画なんかで、考えられないような行動をする、常軌を逸した人物が描かれていたりします。例えば、「地獄の黙示録」に登場するキルゴア中佐は狂人です。銃弾が飛び交い、砲弾が着弾し、死体が散乱する中、サーフボードを担いで海に出ようとします。周りの部下が必死で止めようとするのですが、まったく気にもとめません。しばらくして、近くの山林にナパーム弾が撃ち込まれると、その衝撃で波がやみます。そこで、キルゴア中佐は「ナパームが波を壊したんだ」と憤ります。それでも、「あと20分待てば、波が戻る」とあきらめません。その間にも、迫撃砲が雨のように撃ち込まれ、銃弾は絶えず四方八方から飛んできます。この場面でのキルゴア中佐は果たして狂人なのでしょうか。それとも死を怖れない勇敢な上官なのでしょうか。僕はどちらでもないと思います。キルゴア中佐はもはや戦争そのものが日常となり、死そのものにたいして無頓着になっているように僕は感じました。
・戦場の日常
冒頭で余計な話をしてしまいました。ただ、キルゴア中佐は映画の中に登場する人物ですが、彼のような行動をおこす人々を僕はシリアで度々見かけました。兵士だけではなく、ごく普通の市民でさえ、戦争が日常化されると、命に無頓着になってしまうのです。そのことを僕はシリアで嫌というほど思い知らされましたし、シリアで過ごす時間が長くなると、僕自身も、戦争の日常化に飲まれていくのを実感しました。ただ、戦争は決して日常なんかではありません。非日常なのです。それを忘れると、日常では石につまづくような些細な見落としでも、シリアでは命を落とします。
古来より貿易が盛んな商業都市がシリアにはあります。アレッポです。2012年7月、この都市で一斉に武装蜂起が起きました。アサド政権は追い詰められ、さらにダマスカスでも同様の武装蜂起が発生し、もはや政権崩壊は秒読みだと思われました。しかし、アサドは何の躊躇もすることなく、人々の「希望」を打ち砕くことで勝利を手にする手法に切り替えました。それは、僕が見たドゥーマと同じ戦略でしたが、ドゥーマとは規模が違います。アレッポという大都市でそれを実行に移したのです。
・希望を打ち砕く戦略
戦争にも法律が適用されるみたいです。僕は戦争は法律に縛られない、人を殺しても罪に問われない無法地帯という認識がありました。でも、国際法というものがあります。いくつもありますが、代表的なものが以下になります。
⑴ 民間人・施設をターゲットにしない
⑵ 投稿した兵士を殺さない
⑶ 捕虜・収容者に対する拷問、非人道的な扱いをしない
⑷ 病院や救命隊員を攻撃しない
⑸ 民間人が退避する安全な通路を提供する
⑹ 人道支援がおこなえるルートを確保する
⑺ 化学生物兵器使用の制限
⑻ 不必要、過度な損失、苦痛を与えないようにする
これを僕が実際に目で見た経験も踏まえつつ、シリアの戦争に当てはめてみたいと思います。
(1)、(4)、アレッポの反体制派地域に明確な軍事目標はありませんでした。反体制派、自由シリア軍、またはヌスラ戦線など、多くの武装勢力は、人々が逃げ出した空き家を自由に使い、またいくつかの政府系の建物を拠点に活動していました。ただし、学校、病院、市民が暮らす住宅街などは攻撃を避けるため、反体制派の根城としては除外されていました。しかし、アサドは意図的に市民の暮らしを破壊するため、これらの施設を狙いました。
(2)、これは投降した兵士は、アサドに限らず、反体制派の側も、虐待や拷問を加えていました。法律では強制できない人間の本質です。大切な人を失った悲しみや怒りは、戦争という異常な環境で、どこまでも理性を失います。
(3)、今、アサド政権が崩壊して、大きく報道されているのが、捕虜収容所です。以前から指摘されてきた収容所での非人道的な扱いが明らかになりつつあります。指摘するまでもなく、アサド政権は少しでも疑いのある反体制派の人間を不当に逮捕しては、拷問を加え、殺戮していました。
(5)、アサドは民間人を逃さないように周囲を包囲する戦略を得意としていました。雨のように砲弾や爆弾を降らせ、あらゆる建物を破壊し、住む家を失った人々に対して、外からの物資の搬送を途絶させ、飢餓に陥れる。民間人が退避できる通路が確保されるのは、数えきれない命が失われ、希望が根絶やしにされたあとでした。
(6)、人道支援もアサドの了承がなければ、搬送することはできませんでした。もちろん、アサドに包囲されているような反体制派の町や村では、一切の支援物資が止められ、飢餓により亡くなる人々が後を絶ちませんでした。
(7)、シリアで化学兵器が使用されたのは多くの方がご存じかと思います。一度や二度ではありません。特に2013年8月のダマスカス郊外での化学兵器の攻撃では、千を超える人々が命を落としました。ただし、化学兵器の使用を頑なに認めようとしないアサド政権に対して、国際社会は見て見ぬふりをしてやりすごしました。
(8)、シリアで悪名高き兵器があります。「樽爆弾」です。特殊なドラム缶に爆薬と鋭利な刃物を詰め込み、ヘリコプターから投げ落とすだけの安価な爆弾です。ただし、破壊力は抜群で、7,8階の建物が木っ端みじんになります。さらに鋭利な刃物は爆風と共に飛び散り、周囲を八つ裂きにします。標的などありません。反体制派のエリアにアサドが投げ落とすだけの代物です。樽爆弾は、不必要、過度な損失、苦痛を与えるためだけの兵器で、これにより、敵対する相手の希望を打ち砕き、戦力を喪失させることを目的としたものでした。
国際法は戦争という環境下でも、人の命を守る最大限の努力をせよ!という法なのかもしれません。ただ、戦争とは、国際法の逆をいくものです。法律を守って、戦っていては、勝利はできません。それが戦争だと僕は思います。
戦争における日常、それをお話するつもりでしたが、話が逸れてしまいました。また機会があれば、noteに綴っていければと思います。