景観問題としての仁和寺門前ホテル建設〜象徴化・拡張化された受苦圏〜(仁和寺門前ホテル建設問題その2)
この記事は以下の3部作の第2部です。
1. はじめに
写真は仁和寺に参詣する福王子神社大祭の神輿。仁和寺周辺の地域は、福王子神社氏子の旧六ヶ村にあたります。福王子神社が宇多天皇の母である班子皇后を祀るため仁和寺の守り神とも言われ、御神輿は勅使門(普段は開かず一般には入れない)から入ります。今(2021年10月)は、まさにお祭りの時期ですが、今年も残念ながら神輿の巡行は、新型コロナウイルス蔓延防止のために中止となりました。
さて前回投稿した「仁和寺門前ホテル建設に住民は反対していない件」については、予想以上に多くの方にご覧いただいたようで、ありがたく思っております。
前回は住民が組織化してこのホテル建設が予定されている土地への対応を、長年行ってきたことを紹介しました。しかしながら一方で反対派の方々のあいだでは、これは「古都」京都の景観問題であり、それを保護する運動なのだ、という論理も展開されています。このことについて今回の記事では少し検討したいと思います。
2. ホテルによってさえぎられる風景・保たれる風景
例えば「世界文化遺産仁和寺の環境を考える会」のサイトにはアピール文が掲載されていますが、その一部に次のような文章があります。
すなわち仁和寺門前からの景観は、京都の伝統的な風景を「象徴」するものであり、これを保護することは貴重な公益的財産を守ることだという主張かと思われます。
ただし、この主張を受け止める前に注意しなければならないのは、ホテル建設は京都市が指定したこの地域の「10m高度風致地区」という厳しい制限を破るものでは無いということです。
この指摘は間違ってはいません。京都市の上質宿泊施設誘致制度により、このホテル建設では「延床面積」を倍近くまで認めることにしています。しかし高さ制限が撤廃されているわけではなく、ホテルの建設計画では高さ9.98mという、10m規制を厳格に守るものとなっています。
つまり、別の施設(ドラッグストアや葬儀場、マンションなど)が建てられたとしても、同じ高さ内で建設されるわけです。これによって「仁和寺門前から望む西山連峰のなだらかな稜線」が見えなくなる可能性はもちろんあるわけです。それを防ぐためにはさらに相当厳しい高さ制限を、京都市の新たな制度として設ける必要があります(それが現実的な政策かどうかは別の議論が必要)。
現在この場所は「空き地」であり、何も建っていないのですからその意味で眺望は抜群です。しかしながらここは私有地であり、何らかの構造物が建設される可能性がある土地なのです。
(上の写真は二王門石段上からの風景。正面にホテル建設予定空き地があり、ご覧の通り空き地です)
実はこの土地は以前より、資材置場等、「住環境にふさわしくない用途」に使われていました(京都市上質宿泊施設候補選定に係る有識者会議「講評」より)。その後も、結婚式場や、給油所&コンビニといった施設の建築計画が出るたびに、周辺住民が対処してきたのは前回の投稿でも書いた通りです。今回のホテル建設はその用途、そして業者の対応も周辺住民が理解をした上で建設されるものです(ただし住民の100%が納得しているわけではない、というのはまた別の投稿で詳しく説明したいと思っています。そもそも100%の人の納得など、どこでもあり得ないのかもしれませんが)。
また、もうひとつ誤解されがちな点は、このホテルが仁和寺の「真正面」に建つわけではないことです。正確には仁和寺の入り口である「二王門」(重要文化財・江戸時代初期)の正面から見た南西方向です。
下図はグーグルマップより抜粋です。左上に見える空き地がその建設予定地となっています。ホテル建設は細かく言えば、「仁和寺門前」ではなく、「仁和寺寺務所入り口前」になります。
そのため仁和寺の門正面からは、南南東方向にある「双ヶ丘」は、ホテルが建設されたとしても今まで通りに見ることができます。Googleマップ ストリートビューでこれを確認してみましょう。
右に見える緑の一帯がホテル建設予定の敷地です。しかしながらここで見える歩道から、さらに右に20mほど行ったところに建つので(見切れています)、ホテル本体は双ヶ丘の眺望に影響はない(もちろん境界に塀はできますが)のです。
この双ヶ丘(双ヶ岡/雙ヶ岡)は一の丘、ニの丘、三の丘からなる丘陵であり、1941年に国の名称に指定されています。また1960年代、仁和寺が売却したことから市民によって保存運動が起こり、国が古都保存法を制定するきっかけとなった場所でもあります。
なお仁和寺の門前には石段があります。石段を登った門前からの眺めは、双ヶ丘に関して言えばほとんど影響がないと言えるでしょう。なおこの門前からの眺めについては、2021年4月19日付けで公表された京都市の「上質宿泊施設候補の選定について」のウェブページに、事業者から提出された二王門(正面入り口の門)を視点場としたイメージパースでも示されています。以下に引用します。
(仁和寺二王門から双ヶ丘を臨むホテル完成後イメージのパース図)
同Webページには、参道から仁和寺を臨むイメージパースも示されています。これも下に引用いたします。
(参道から仁和寺を臨むホテル完成後イメージのパース図)
ご覧の通り参道からは、仁和寺が問題なく視界にばっちり入ります。また、ホテル南側は住民に配慮して、塀が高く設計されているのもわかります。こうした配慮はホテル建設事業者と周辺住民が交渉する中で、住民たちの不安を受けて行われたものです。
ちなみに仁和寺の境内に入ってしまえば、下の写真のように門外の風致地区高さ規制のかかった建物は全く視界に入りません。外界からしゃ断された、広々として緑豊かな境内の景色にはとても癒されますね。
(筆者撮影。中門から二王門ーー南向きーーを臨む風景です。ちなみにGoogleストリートビューでも仁和寺境内、二王門から中門手前までを散策体験できます。)
なお上記の世界文化遺産仁和寺の環境を考える会のサイトに掲載されたアピール文には以下のようなフレーズもあります。
ここでの2行目の「山の稜線」が双ヶ丘(双ヶ岡)を指すのか、それとも西山連峰を示すのかは明確ではありません。双ヶ丘は門前石段の上から変わらず見ることができるのは先にみた通りですが、西山はさえぎられてしまうのは否めません。
ただし、山の稜線が西山を指す場合、それと二王門は現在でも一体的に見えるわけではありません。参考までに、夕焼けをバックに二王門手前(東側)から西向きに撮影した写真をご覧ください。
ごらんの通り真西の景色は、すでに隣家・街路樹により「西山の稜線」は確認できません。ただ、夕焼けをバックに縁取られる仁王門自体の姿はとても美しく雄大で、いつも見惚れてしまいます。
ただし最初の写真で見たように、二王門からの南西の景色では、西山稜線が綺麗に見えます。そのため、横長で同じ場所・方向に撮影した(ただし別の日)夕焼けの景色をご覧いただきたいと思います。
(先のと合わせ筆者撮影。ピンボケで申し訳ありません。)向かって左側、南東方向には稜線の確認はできます。あまり見えていないのが恐縮ですが、先に述べた通り西側の景色にはすでに建造物や街路樹があったりして、連続的に見えるものではないのは確認いただけるかと思います。そしてホテル建設はその一部をさらに遮る、という形になるかと思われます。
このことは先のイメージパースでも確認できます。確かに仁和寺門前(石段の上)から南西を臨んだときには、ホテル建設後は西山稜線は視界が遮られることが予想されます。これは、この景観を大事に考えている人からは痛恨の出来事でもあるでしょう。ただしそれはこの私有地が現在たまたま空き地であるためであり、ホテル自体が問題なわけではないのは先に述べた通りです。
3. 「受苦圏・受益圏」…大型建造物による近隣へのまだらな影響
抒情豊かに人々の心の琴線にふれる、詩のような文章は心打たれるものです。しかしそれはある種、「象徴化された京都」の景観なのではないでしょうか。それは実際には上に述べたように、部分的には保たれつつ、部分的にはすでに過去のものとなっていたり、あるいは今回のホテル建設が原因ではない問題だったりしています。
そうした「象徴化された京都」が多くの人の心に訴え、そのイメージを喚起させることで、かつて京都での無制限な街並み景観破壊を押し留めてきた歴史があります(後述)。しかし、その論理を住民ではない外部の人が推し進めるなかで、住民にとっては無理が通される部分もあるのではないか、と疑問を提起したいとも思うのです。
鈴木(2016)はこうした景観問題をいくつかの類似の分析概念によって分析し、政治的な当事者間の対立を読み解くことを、便宜上「景観紛争の科学」と呼びました。今回の仁和寺門前ホテル建設の事例も、そのように少し理論的な観点からの検証が必要なように思います。例えばそれは、環境社会学や社会運動論で主に使われてきた「受苦圏・受益圏」という考え方(言い換えれば「理念型」)などがその理論のひとつです。
受苦圏とは梶田(1988)によれば「被害者ないしは受苦者の集合体」として概念設定され、また受益圏とは「加害者ないしは受益者の集合体」としています。そしてそれらは、「広範囲な社会システムからの要請から発せられた形で、特定の局地的地域に社会的意味をおびた巨大な資本の投下がなされ、その結果、一部の地域に大きな構造的緊張を生んでいるという点」を問題とし、その特質を解明するための概念装置であるとされます(梶田 1988)。
今回のホテル建設では、受苦圏は第一には近隣住民であると言えます。それはホテル建設による生活環境の悪化です。日当たりが悪くなるのではないか。交通量の増大やよそ者の無遠慮な眼差しや行動、騒音問題などが出るのではないか。威圧感や圧迫感を感じるのではないか…等々です。
ただし近隣の仁和寺門前には、少ないながら観光客を対象とした飲食店がいくつかあり、それらにとっては受苦なだけではなく受益もあるでしょう。梶田(1988)は新幹線の線路や原発の建設といった大規模開発は、受苦圏と受益圏を分離させますが、そうではない小規模な開発の場合、それらは「重なり」があるとしています。今回も60室程度のホテルの開発であり、そのために受苦圏と受益圏は近隣地域でまだらに重なってもいるのです。
4. 「象徴化・拡張化された受苦圏」による景観保全運動の成功と弊害
しかしながら今回、ホテル建設反対の市民団体は、近隣住民とは異なる意味での受苦を訴えています。
住民たちが生活環境の受苦を問題視していたのに対し、市民団体は「象徴化された京都」としての<景観>を問題していることを、指摘することができます。しかもそれは近隣に住む人々でないにも関わらず(京都市外の人も多い)、です。これは何故なのでしょうか。
アルヴァックスは、「個人を超えて集団で共有される記憶の形態」を「集合的記憶」と呼びました(Wertsch & Roediger, 2008)。象徴化された京都とは、集合的記憶の中の京都ととも言えるでしょう。そしてその集合的記憶とは単に人々によってノスタルジックに想起されるものであるだけでなく、ある種のアイデンティティに関わるものであり、ときに争いのもとになるとWertsch & Roediger (2008)は述べます。
このような集合的記憶の特徴から、「象徴化された受苦圏」は拡張されて、近隣地域の直接的な受苦の可能性がある人々を超え、当事者ではない人々まで巻き込むのだと言えるのではないでしょうか。「ひとびとの記憶にある京都」からの争いでもある、ということです。
こうした「象徴化・拡張化された受苦圏」の訴えが有効であった時期が京都にあります。それは1997年、京都市内を流れる鴨川の三条大橋と四条大橋の間に、パリのポンデザールを模したデザインの歩道橋を架ける計画が起きた時です。この時に市民団体はこの計画を景観面等から問題視して、「京都にフランスの橋はいりまへん」などと書かれた横断幕で訴えるなどし、最終的に翌年、京都市の計画を白紙撤回させたのでした。このときも今回同様、市民団体の他に、文化人や一部マスコミが反対運動に関わり、広くキャンペーンが行われました。
このときは直接的な近隣住民と呼べる人たちの受苦には、あまり注目はされませんでした。そもそも公共建築物として繁華街近くの市街地に橋が建設される問題でもあったためかと思われます。しかしながら今回は静謐な住宅街にも接した場所での建設です。そしてそこでもっとも生活環境に受苦がある近隣住民は、すでに仁和寺門前まちづくり協議会を組織化し、仁和寺門前のホテル建設を容認し、建設的に話し合いを行なってきています。
その経緯は前回の投稿、および上でも少しで説明した通りですが、これまでにこの場所で起きてきた土地利用問題へ対処という、継続的で大きなコストが周辺住民には「受苦」として存在してきたためです。そして、いずれは何かが建つこの土地について、住民としてギリギリでも納得できる計画(とその事業者への信頼性)が、今回のホテル建設であったのです。
すなわち周辺住民の「実体的な受苦」としてのこれまでの経緯と、その乗り越え方として当事者たちが選んだ、ホテル建設への積極的関与というまちづくり上の選択があったと言えるでしょう。こうした生活環境の悪化や近隣環境への監視・介入コストといった「実体的な受苦」に対して、拡張された「象徴的な受苦」の訴えが対立してしまっているのが現状と言えるでしょう。
これは前回の投稿でも書いた住民運動と市民運動の相克とも重なる話かと思います。しかし近隣環境への監視・介入コストについて言えば、「象徴的な受苦」を訴えている市民運動サイドはそのコストをこれまで支払ってきていた当事者とは言えず、いわばフリーライダーな受益圏の側でもあったと言えるのではないでしょうか。
追記(余談)
この文章を書いているときに下記の文献をご紹介いただきました。
沖縄県名護市辺野古地区は、アメリカ軍普天間基地が移転される予定地となっていますが、そこで基地移転反対運動をしている市民団体たちは、住民が(消極的にでも)基地受け入れ容認に転じたことを批判しているそうです。これについて本書では住民団体等への丁寧な聞き取りを行い、その住民たちが受け入れ容認に転じた理由、合理性を明らかにしています。そして住民の意見・立場を十分に理解せず批判する市民団体が、もし住民側に歩み寄ることができれば、「国策」に対してともにたたかうことも可能ではないか、と述べています。
仁和寺門前の今回の出来事とは前提が大きく異なるので(国策とは関係ない、私有地での小規模建設問題であるので)展望を同じようには考えられませんが、参考になるところが大いにありました。すぐれた研究成果がまとまった文献であると思います。
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この記事は以下の3部作の第2部です。
【参考文献】
梶田孝道. (1988). テクノクラシーと社会運動. 東京大学出版会.
鈴木晃志郎. (2016). 「景観紛争の科学」で読み解く太陽光発電施設の立地問題. 地域生活学研究, 07, 84–94.
1955, Esquisse dʼ une psychologie des classes sociales , Paris: M. Rivière. (= 1958, 清水義弘訳 『社会階級の心理学』誠信書房 .)
Wertsch, J. V., & Roediger, H. L. (2008). Collective memory: Conceptual foundations and theoretical approaches. In Memory (Vol. 16, pp. 318–326). Taylor & Francis Group.
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