『面白くて刺激的な論文のためのリサーチ・クエスチョンの作り方と育て方』はこう読めてしまう。

この本、相当示唆に富む。他の研究者や院生の方と読書会をしたい。


概要をまとめると、

この本では社会科学(主に心理学・社会学・経営学・教育学)において、英文トップ・ジャーナルに掲載された論文が「つまらない」ものばかりなのはなぜか?という問題を論じている。それらの分野の論文を分析した上で理由を探っているのですが、以下内容を超簡単に要約すると‥

  • 結論から言えば、先行研究の重箱の隅をつつく「ギャップ・スポッティング」型のリサーチ・クエスチョンばかりなので、つまらないのだ、と述べている。

  • ギャップ・スポッティングの方法は次の3つがあるとされている。

    • 混乱スポッティング。先行研究の中から互いに競合する複数の説明を見つけ出していく。

    • 軽視・無視スポッティング。それまで盛んに研究されてきたにもかからず、見落とされていた研究領域を見つけ出す。あるいはそもそも十分に研究されてこなかった領域を見つけ出す。さらには実証データによる裏付けが不足している/検討が不足している先行研究の領域を探し出す。

    • 適用スポッティング。特定の研究領域の文献は何らかの形で拡張または補完していく必要があると主張する。

  • ちなみに「つまらない研究」とは、インパクトのある理論が生まれない研究、とも表現されている。

  • それは分析方法の定量的・定性的を問わない。さらには、認識論的な違いを超えて、ポスト構築主義や批判理論と呼ばれる従来の(実証主義的な)学派を批判する学派も、実は同じ構造の論文を書いていることが明らかにされている。

  • では、理論生成型と言われるグラウンデッド・セオリー・アプローチはよいかというと、それも「抽象度が低くて些末なものでしかない調査結果と容易に結びついてしまいがちであり、むしろ想像力にとっての障害になる」と切り捨てる(邦訳225ページ)。(これは私もぼんやり思っていたことなので、痛快だった)

  • 「ギャップ・スポッティング」的アプローチが主流となっている背景には、制度的状況(政府、大学、助成財団など)が求める評価研究者集団の規範(学問分野の細分化や方法の厳密化など)、研究者としてのアイデンティティ形成(つまり研究者自身も自ら望んでそれをしている)などがある。

ではどうしたら、「面白いリサーチ・クエスチョン」になるのか。本書の後半でそれが論じられるが、単純に言えばそれは、「あらゆる研究の前提を疑いながら論文を書きなさい」ということになる。これを著者は「問題化」と呼んでいる。しかしそれは(何らかの現状を批判するものにありがちだが)抽象的で分かりづらく、現実の論文執筆にはそのまま適用できるものとなっていないと思った(この点、ちょっとだけ後述します)。

感想。

この本、私は実は解決策を提示するまでの前半のほうが面白く読んだ。

前半部分は既存のアプローチを批判しているのだが、逆に言えば既存のパラダイムでどのように論文を書けばいいかのポイントを明確にしてくれている、とも読めてしまう。そしてそれは、すべてが悪ということではないと自分は思っていて、要領は掴んでおくことに越したことはないのではないだろうか。とくに学習したての院生などには、むしろこの本で否定されている方法こそがまず身につけて欲しいと、私の研究室では思っているものになりますね(実証中心なので)。

たとえばリサーチ・クエスチョンについて。既存の「ギャップ・スポッティング」な研究においてリサーチ・クエスチョンはどこから生まれるのか、という問いに、この本では次の4つの「起源」をあげている。

  1. 社会

  2. 個人的な経験

  3. 既存の学術文献

  4. 実証的なデータ

しかも重要なのは、リサーチ・クエスチョンを定式化するうえではこれらの情報源は1つだけからではなく、複数の情報源のあいだの相互作用から生じる、としている。

「情報源同士を組み合わせていくことによって、様々な情報源の弱点を互いに補い合うようにすることもできる。例えば、先行研究をもとにして有望なリサーチ・クエスチョンを作り出せるかも知れないが、どの程度それが社会全体にとって実質的な意味があるかという点についても確認する必要がある。同じように、何らかの社会問題にもとづいてリサーチ・クエスチョンを作成したような場合には、それが研究上の意義という点でどの程度の貢献を果たし得るものであるかについて検討してみる必要がある。

(邦訳36ページ)

こうした4つの起源を組み合わせてリサーチ・クエスチョンを創造する、とうのは逆に言えば、しごく真っ当な実証研究の指導だったりする。しかも本書では「初期段階で作成されたリサーチ・クエスチョンが、調査結果が最終的に論文として刊行される段階まで一貫して研究プロジェクトの明確な指針であり続けるような調査研究の例など存在しない」(邦訳47ページ)とか、「リサーチ・クエスチョンが最終的に構築されるのは研究論文を執筆していく作業の最中なのであり、そしてまた、そのリサーチ・クエスチョンは、研究によって得られた成果が知識というものに対して示す実質的な貢献の内容を具体的に示している」(邦訳47ページ)など、もはや実証研究のパーフェクト・マニュアルのごとき記述が次々に出てくる。

逆に、後半部分もすべて賛同できるわけでもなく、使えるアイデアはあると思うものの、それで論文が書けたら世話はない…というような夢想的な部分もあるように思う。ギャップ・スポッティングに対抗しての「問題化」の方法として、たとえばリサーチ・クエスチョンの構築方法について、次のように書かれている。

「確立された考え方を打破しその代替案について検討することを目的として、既存の前提、世界観、視点、決まり事、特徴的な用語法など各種の要素に対して焦点を当てて注意深くかつ批判的に考察していくアプローチを開発し、またそれを積極的に推奨していくこと」

邦訳211ページ

これ具体的にどうすればいいか分かります???

結局は、前半の話が悪で後半の話が善、ということではないと思う。私個人は(著者が批判する)漸進主義者なので、いきなり大きなパラダイムを転換させようとは思っておらず(そうした取組はたいがい大コケするか、成功しても弊害が大きかったりする)、現状の「ゲーム」のルールを理解しつつ、ある部分では意識的にそれに乗っかりつつも、しかしその問題も理解しつつ、「ゲームチェンジ」を諦めずにできることをしていくしかないのでは、と考えている。

また、「つまらない」研究でも、積み重なることによって、それがパラダイム転換を生むのではないかとも考えている。本書ではトマス・クーンを批判してもいるのだが、しかし既存の理論での研究の「山」がどこかで飽和することによって、量が質に転換するというか、それらを踏まえた新たな理論を提示する研究が生まれる、ということがままあるからだ。

とはいえ、「ギャップ・スポッティング」的な発想での論文量産競争に辟易している部分がないわけでもない。まあこれは個人的なことなので本書の内容とは関係ないといえばないのであるが、コロナ禍で精神面での健康を損ねて、生活(下手したら命)に関わる部分で、研究への向き合い方を考えざるを得なかった。今までの研究の仕方を一回白紙にして、もう一度、自分がほんとうに面白いと思えることに取り組まないと、自分自身が壊れてしまうな、とも思ったのである。

しかし自分が「面白い」と思うことに正直になって研究しようとすると、それは自分が積み重ねてきた業績の分野とはかけ離れることにもなった。慣れ親しんだ理論や研究体系を離れ、また一から勉強せざるを得なくなる。それだけでなく、研究フィールド(とそこの人たち)・研究仲間・関連学会とも疎遠になる。義理もあるし、そう簡単にはスパっと切れない。もちろん義理は果たしたいが、理解を得られず喧嘩別れすることだってある。

しかし新しい世界に飛び込んでいくことはとても清新な出来事だ。自分自身のための選択として間違っていなかったとも思っている。

しかも不思議なことに、その新しい研究領域は今までとはまったく関係ない領域であるにも関わらず、これまで研究してきたことと意外な共通点を見出すこともある。これ、こういう点で前の分野の話に似ているなあ、とか。

それはある種の、この本の著者が主張するのとは別の方法での、「ギャップ・スポッティング」の相対化になるのではないかと考えたりもする。つまり、まったく異なる分野を研究者(チーム)が往還することによって、今までにない「問い」が生まれる可能性があるのではないか、ということだ。

それは学生の卒論指導でも似たことを感じる。学生たちに自由に研究テーマを提示させると、(それは学生たちにとっては馴染みあるテーマでも)こちらとしてまったく想定外のものであることが、ままある。それ、どうやったら(社会学的な)研究になるの?とこちらが頭を抱えることも。ちなみに、研究者の関心やテーマの流行も、研究を「つまらなく」する原因と本書は批判している。しかし私は(部分的には)そうは思っていない。学生が提示してくる「流行りのテーマ」は、新しい観点から研究する契機となったりする。そうして、指導がうまく行った場合には、思ってもみない観点の研究になることがある(教員の力量が問われますね…)。

しかしそうであっても、リサーチ・クエスチョン抽出の方法論としてはやはり、「ギャップ・スポッティング」を踏襲する部分は自分にとって大きい。なぜならそれでしかジャーナルへの掲載ができなかったり、あるいはリサーチ・クエスチョンの発想自体、その方法が訓練されていてもっとも作りやすいからである。繰り返しになるが、だから院生にもまずはそうした方法で研究して論文を書きなさい、と指導することになる。

しかし「ギャップ・スポッティング」という言葉を知ったこと自体、そのことに自覚的になれるのは、おそらくこれからの研究を「面白く」(自分にとって/社会にとって)していく助けになると思う。どこは意識的にそのまま研究をし、どこはチャレンジしてみるかを、考えられるようになると思っている。概念化による相対化。だいじですね。

「守・破・離」という言葉がある。何かを習うときは師匠の教えをまずは「守」り、それが身についたら身につけた型を徐々に「破」っていき、最後にはその教えから「離」れ、自分の流儀を創造する、ということを訓示した言葉だ。それでは革新的な研究を産まない、というのがこの本の主張だし、そう考えている研究者のかたも多いかも知れない。でも自分は何事も今の主流の基本を覚えることは大事だと思っている。

怖いのは、そうした「型」としての「ギャップ・スポッティング」すら理解できていない未熟な院生などがこの本を読んだときに、「自分は革新的な研究をしている!」と勘違いをしてしまうことだったりする。

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