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居場所の話②~わたしの「居場所」ってどこ?

確信を持って、「ここが私の居場所!」と言えるような地域、家、スペース、何もかもないことにハッと気づいた22歳初夏。自分が帰る場所のことを、世間一般では「居場所」というらしい。広辞苑によると、居場所とは、「いるところ。いどころ。」と、これでもかというほどにシンプルな言葉でまとめられている。一方、私が考える居場所という概念はもう少し複雑なので、たとえ話を使ってここに書きたい。

南極でもサハラ砂漠でもアマゾンでもいいけれど、人っ子一人いない土地へ1ヶ月旅に出たとする。そして今、数多の複雑な乗り継ぎや、税関や保安検査官の疑い深い視線をかいくぐり、あなたの乗る飛行機が宝石箱のような夜景をバックに羽田空港へ着陸態勢に入った。エコノミーシートのせいで身体中痛いしかゆいし、まずい機内食にはこりごり。とりあえず帰ったら、熱い風呂に入って、おいしいご飯を食べたい。そんな状況下にあることを想像してみてほしい。

居場所とは、その時のあなたの心に浮かぶ、「飛行機を降りたらあそこに帰りたい。」と思うような場所なんじゃないかと思う。
私はそんな場所を思い浮かべると、なぜか場所の情景ではなく、人の顔がぽわーっと浮かんでくる。なぜだろう。

居場所には、「その特定の場所を居場所とたらしめる人間」の存在が必要不可欠なのではないか。そのような人のことを、「居場所をつくる人」と呼ぶことにする。新しいワードを導入してみたものの、「居場所をつくる人」ってどんな人だろう。

自分の過去に遡る。日本に住んでいた時、私の居場所は間違いなく実家だった。実家にはもし私が砂漠に旅立ったとして、帰りを心待ちにしてくれる家族がいた。砂漠まで出かけなくとも、毎日学校の帰りを待っていてくれる家族がいた。同じように、私も帰りを待ちたい家族がいた。帰りを待つという行為に、居場所へのヒントがある気がする。「居場所をつくる人」=「帰りを待っていてほしくて、かつ帰りを待ちたいような人」と定義したい。そして居場所とは、「居場所をつくる人が日々暮らすところ」とする。つまり、自分の帰りを待っていてほしくて、かつその人の帰りを待ちたいような人が暮らすところを居場所と解釈する。

しかし、もしこの定義を広辞苑の新版に無理矢理載せたとしたら、一人暮らし世帯から猛烈な反発を受けるだろう。一人だけで生活する住処を居場所と呼ばないなら、「居場所難民」で国は溢れかえる。なので、「居場所をつくる人」の対象をもう少し広げて、動物(ペット)もアリにして、呼び方を「居場所をつくる生き物」に修正したい。そうしたら、居場所難民は若干減るかもしれない。そんな付け焼き刃の対応で居場所難民は納得しないんじゃないかとも思いつつ。

いまの私に居場所が無いということは、これから新しく自分の居場所を構築できる可能性があるということだ。まず、自分の居場所新築プロジェクトの第一段階として、「居場所をつくる生き物」をみつけたい。手っ取り早いのは、毎日帰りを待っていてくれるような知能の高いペットをお迎えすること。私はとても犬好きなので、今後「居場所をつくるイヌ」をみつけ、その犬と暮らすスペースを、自分の居場所としようかと企んでいる。

2記事にわたって、実家をたたむこと、またそれに伴う喪失感について「居場所」という視点からまじめに考えてみたけど、「犬を飼う」という突飛な結論でおわっちゃっていいものだろうか。

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