趣味の定義とは?
鴨:「私の趣味は川でシンクロをすることです。」
広辞苑の9503ページによると、趣味とは以下のことを指すらしい。
しゅ‐み【趣味】
①感興をさそう状態。おもむき。あじわい。
②ものごとのあじわいを感じとる力。美的な感覚のもち方。このみ。「―がよい」
③専門としてでなく、楽しみとしてする事柄。「―にピアノを弾く」
④〔哲〕カントの用語。対象を美しいと判定する美的判断力の一つ
上記四つのうち、「あなたの趣味はなんですか?」と聞かれたときに、質問者が意図するのは③だと思う(多分カントを学ぶ哲学のクラス以外では)。そして、昔流行ったプロフィール帳にも、ソーシャルメディアの自己紹介欄にも、履歴書にも、「趣味」を書くことを要求される。普通に社会を生きてきた人間には、ある程度「専門としてではなく、楽しみとしてする事柄」が存在するという前提があるみたいだ。しかし、「趣味」とGoogle検索すれば、トップにでてくるのは「あなたにぴったりの趣味の見つけかた」「趣味がない人へ〜あなたはひとりではありません!〜」みたいなページである。
社会に生きる人が持つ必須のクオリティのようなものに趣味が含まれているのに、趣味がないことに悩む人が多い理由は、おそらく今の社会が求めている趣味の定義は、広辞苑の定義よりもっと狭いからでは?と考えた。そして、その狭い定義を考えるうちに、とても窮屈だから自分で作ろうと思った。
前置きが長くなったが、この記事のテーマは、社会が定義する「趣味」についてと、(個人的に提案する)新しい「趣味」の定義についてである。
社会が定義する「趣味」
先日、三分の自己紹介動画をとるために台本を考えていた。一般的な自己紹介といえば、仕事や経歴、資格等、最後に趣味とくる。そして、私は「私の趣味はランニングです。2年前にはフルマラソンも完走しました!」と、ランナーらしい快活さを意識しながらコンピュータに向かって話す練習をしていた。ここで、なぜか心の中がもやっとした。それのもやっとは、平然とバレないだろうとタカを括って嘘をついたときの気持ちに似ていた。それはたぶん、ランナーとして半年間走ってない事実を思い出したからだ。暑いとか忙しいとか言い訳をつくって、走るのをやめてから随分と長い時間が経っていた。
今でも走るのが好きなのは嘘ではない、フルマラソンも2年前に完走して、それを証明するための記念品もある。しかし、半年も走っていないランナーが、「趣味はランニングです!」と言えるのか?広辞苑的にはオーケーだろう、走るのは専門ではないし、走っているときは楽しい。しかし、社会的にはアウトなんじゃないかと思う。社会は、「趣味はランニングです!」と言う人に、「毎週どれだけ走ってるの?」「ランニングコミュニティはあるの?」「マラソンのタイムは何?」「最近のランニングのトレンド(そんなものが存在するのか知らないけど)はどんなの?」「好きなランナーはだれ?」等の質問をして、それにまともに答えられなかったら、「あなたにとってのランニングは趣味ではない」と判断を下すのだろうと容易に想像できる。反対に、それらの質問に熱意を持って堂々と答えられたら、この人は「趣味をランニング」と公言するにふさわしいとか認定されるのだろう。ちなみにここで言う社会とは、漠然とした世間やメディアで、特定の個人を指しているわけではない。あくまでも、私は漠然とした社会というかたまりの集合的な思考のことを考えている。具体的にそれは、ソーシャルメディアの辛辣なコメントかもしれないし、趣味はランニングと書いた応募者に深掘りの質問する面接官かもしれない。
つまり社会は、人が「趣味」と呼ぶものへ、一定のコミットメントを求めるのだ。社会が「趣味と呼べるもの」から期待するのは、普通以上の情熱であったり、並外れた努力や練習のストーリーであったり、客観的で計量可能な結果である。それは、とても狭い定義だし、達成するのが難しい。そもそもそこまで趣味を高めた人はそれを仕事にするだろうから、次は広辞苑の広い定義に当てはまらない。インターネット上で、「趣味がない」ことを悩みにしている人が多いのも肯ける。実際私も、「ランニングが趣味」なんて言うのはおこがましいのかもしれない。
けれども、ここで「自分には趣味がないんだ」と泣き寝入りするのは悔しいから、自分なりに広辞苑よりは明確だけど、社会の定義よりは包含的な「趣味」の定義を考えてみた。
新しい「趣味」の定義
まず第一に、「趣味」は好きで自発的に始めたもの、あるいはきっかけは自発的ではなかったけど、好きで続けているものである必要がある。大事なのは、「好きだ」と言う気持ちと、自発性。義務ではなく、自分が好きだから何かをしている。それが広辞苑の示す「楽しみとして」というパートを詳しく説明したもの。逆に、「好き」という原動力を失ったら、それはいくら社会の趣味という定義に収まっていても、もはや新定義によると「趣味」ではない。しかも、意外に「好き」という原動力は失いやすいものだ。なぜなら、先ほど書いた社会が認める「趣味」はとても厳しい基準だから。社会が定義する「趣味」を維持しようと思えば、相当な努力と継続力が求められると思う。そうして、ランニングの例に戻ると、「趣味はランニングです」と堂々と主張し続けるためには、なんとなく気分がのらなくても(私の過去半年のように)、走らないといけない、ランニングについてもっと詳しくないといけないなどと、いつのまにか「好き」が「義務」に変わっていく。そうすると、好きで始めたのに、自分が少し飽きてきても、信用を失いたくなりなら、その趣味を続けることが責任として重くのしかかってくる。実際、「趣味はランニングです」と履歴書に書いて入社した新人が、半年後には太って「もうしんどいし飽きたので走るのやめました」とか言ったら、自分の好きなことさえも継続することができないのかなんて思われて、信用を落とすと思う。そうしないために、社会的定義に従うと、公開している趣味に飽きたとにとれる方法は2つ: 嘘をつき続けるか、義務的に趣味を続けるしかない。
その苦しみを取り除くために、「趣味は飽きてもよい、ブレークがあってもよい、最終的にやめてもよい」という項を定義として追加したい。一旦は飽きてほったらかしにしていたけど、何かのきっかけで再開することもたくさんあるし、あるいは永遠に興味を失ってしまうこともある。飽きるというのは極めてふつうな現象で、社会はそれを継続力が無いとかに変換しないでほしい。
最後に、当たり前だけど、「趣味」に結果は伴わなくてもいいと思う。そもそも定量化できる「好き」がどれだけあるのか。社会が「趣味」の定義の中に結果を求めるのは、数字で表されるものが一番わかりやすいから。数値化できない物事はたくさんあるし、それらが意味のある数字に置き換えられないからといって何も劣っていない。ただ定量化されている物事に比べて、知るのに時間がかかるというだけで。「目に見える成果とか結果はないけど好きなこと」は、充分「趣味」だと思う。
余談: この趣味の新定義を胸に、私はこれからも「趣味はランニングです」と言い続ける。もうちょっと涼しくなったら再開するつもりだし、まだ「好き」が原動力だから。
まとめ
広辞苑が定義する「趣味」
③専門としてでなく、楽しみとしてする事柄。
社会が定義する「趣味」
一定以上のコミットメント、継続、情熱、客観的な結果
新しく定義する「趣味」
広辞苑定義 +「好き」が原動力、飽きてもよい、ブレークがあってもよい、やめてもよい、結果はなくてもよい
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