足の音を聴け
朝5時。今日は憂鬱な30km走の日だ。外からは強い雨が地面に打ちつけられる音が聞こえる。 雨なら起きなくてもいいかという気持ちと、 雨の日の練習は雨の日にしかできないという心の声が綱引きをしはじめる。とりあえず目を覚ます。よく考えると近くのジムを契約してる僕にはトレッドミルがある。どんな雨でもこの練習から逃げることはできない。そう、僕らには走る理由なんて何一つない。だから、こうして走らない理由を潰していかないと、もはや走り続けけることなんてできない。
無意識にシューズとギアを選ぶ。今日の相棒はadidasのボストン12。 ジョグからキロ4分までカバーできる優れ物だ。 硬さとクッションのバランス、フィット感、安定性の全てが高いレベルでバランスしている。イケメンでお金持ちで浮気しない男といっても決して言い過ぎではないし、もし無人島に持っていく靴を聞かれたら、僕はこの一足を選ぶ。もちろんレースで履くには少し心もとないが、当然無人島にはレースなどない。いやそもそも無人島にいったら走る意味などないのかもしれない。さらに言えば、僕にそんなことを聞く人など誰1人としていないと思いながら空腹の胃にブラックコーヒーを流し込む。
その時、一緒に30km走をする友人からLINEが届いた。
「大変だ。朝起きたら下半身が固くなって収まらないんだ。 だから今日は走れそうもない。 」
やれやれ、僕は「OK」と簡単に返事をして一人でロング走の定番となる公園に向けて車のエンジンをかけた。 そうだ、今日は東京でレガシーハーフマラソンが開催されいている。Instagramがいつも以上にキラキラしていて羨ましい。かたや僕は1人で本物のレガシー、田舎の公園でロング走に向かう。
レース会場の公園に着く。 一周1.73kmのこの公園は18周すると30kmを少し超える。走り始める前にまた雨が強くなり始めるが、数人走っているランナーが目に入る。この雨の中なんで走ってるんだ?僕はロング走のエネルギーとなる糖質を口の中に入れながら考える。いや、待てよ数分後には僕もあっち側の人間になるのだ。その境界を越えるとこちらの世界にはしばらく戻ってこられない。
そんなくだらないことを考えながら、今日は一人でスタートを切る。 アップもせずに走るものだから最初の5kmは全く体が動かない。 時計を見ずに走ろうと思っていたが、ふと時計を見るとキロ5分を超えている。 やれやれ、僕はそう思いながら少しだけ体のギアを上げた。 最初の10kmは4:30/km位だろうか。
10kmくらいから体が温まってくると時計は自然に4:15/kmを刻んでいた。 そう、サブスリーと呼ばれるタイムだ。 そのペースでモルモットのようにぐるぐるぐるぐるまわっているとおなじみのメンツが公園に集まってくる。 ファイト!と僕らはそう声をかけ合う。 しかし名前は知らない。 毎週日曜日必ず顔を合わせるランナーだ。 リモートワークをしていると会社のメンバーよりもそのランナーたちの方がよく合う。 なのに名前も知らないのだ。ランナーA、ランナーB。おそらくSNSもやっていない彼らとは今後名前を交換することはないのかもしれない。
20kmを過ぎてくると、 自然とランナーズハイになり、ここでコーチから「今月30kmを4:20/kmで余裕をもってやってください」と言われたことを思いだす。文にすると1行だが、そんな数文字で終わるほど簡単なことではないなと苦笑いを噛み殺しながらペースを4:00/kmまであげる。無意識のうちに時間が流れていく。 あと5km、4、3、2、あれだけ嫌だった30km走も最後は少しだけ寂しい気持ちになりながら終わりを迎える。終わり方が気になるのに終わってしまうと寂しい週刊誌の漫画のようだ。そうしているうちに今日も無事30kmが終わる。何を隠そう平日の仕事よりも日曜日のロング走の方が僕にとってはハードなものなのである。
31km ave4:20/km
終わってみれば、秋の早朝に淹れたコーヒーがゆっくりと冷めていくように、特別なことでもなく、ただ自然に終わるくらいの余裕度だった気がする。
走り終わり充実感とともに相棒のボストン12と、汗と雨で濡れたOnとlululemonのギアを脱ぐ。無数にあるアイテムの中でも、機能性に優れたブランドのアイテムは不思議なことに自然と手に取ってしまう。
帰りの車のエンジンをつける。どうやらこの物体は僕の身体より早く温まるらしい。そのアクセルを踏みながらレガシーハーフマラソンを走っている仲間たちと下半身が固くなってしまった友人のことを考えたが、考えても僕にしてあげられることはコーヒーの豆1つ分もないことに気がつき、アクセルを踏みこみながら東に向かった。どうやらこの物体は僕の身体と違いアクセルを踏めば踏んだ分速くなるらしい。やれやれ。僕の身体もこうあってほしいものだ。
自宅に戻りカリフラワーを茹で、プロテインをウイスキーで胃の中に流しこみながらこれから始まるフルマラソンのように長い一日のことを考えた。
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