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【自己紹介】僕の人格が形成されるまで(半生の振り返り)

妻との結婚生活を綴った電子書籍を出版しました!

息子にはできれば、妻か僕みたいな人格に育ってほしい。

と考えた時にふと、そういえば僕の今の人格はどうやって形成されたんだろうと疑問に思った。
ということで、今回は僕の30年間の半生を振り返りたいと思います。

完全に僕が自己分析をするだけの、僕のための記事で超長文です。
少しでも何かの参考になれば嬉しいです。


小学校時代

僕が育った場所は超絶田舎で、同級生は13人しかいなかった。
全校生徒も70人ほどの小さな小学校。
その環境で僕は、とにかくスポーツが好きな子供で、特に短距離走が得意だった。

近隣の学校が集まる陸上大会でも短距離部門では常に1位~2位を行き来していた。
短距離走が速いと、自然とクラスメイトから一目置かれるのは、どこでもあることだと思う。知らんけど。
正直、そのポジションに甘んじていたところもあったと思う。

3年生からはミニバスケットボールクラブに入り、土日は全部、午前か午後に練習があった。
ほかにも習い事は、そろばんや習字、塾、レスリングなどしていて、まあまあ忙しい日々を送っていた。
土日のスケジュールは、9時に習字教室、その後10時から12時までミニバスの練習。
そろばんは火・木の18時~20時だったと思う。
塾は月水だったかな。
レスリングは金曜だったかな。。。
記憶が定かでないことをお許しください。

この頃にできた同級生の友達が、今でも互いを親友と呼べる存在になっている。
親友の彼もスポーツ万能で、体育の授業ではチーム戦になると、絶対に同じチームになることが無かった。
ミニバスではチームワークの基礎を学び、そろばんでは暗算のスキルが向上した一方で、習字はあまり成果が出ず、僕の字は今でもバランスが悪いと言われる。

字が汚い奴のあるあるで、作文を書き提出したところで、もっと丁寧に書けと言われ、何度も書き直しをさせられた記憶がある。
3〜4回書き直しをすることは日常茶飯事だった。

なぜそんなに字が汚いのか、実は自分なりにこう推測している。
僕は元々は左利きで、ボールを投げたり物をつかむ時は常に左手を使う。
でも、箸やペンを持つ手だけは右手。
親によると、僕は幼い頃から左手を使うことが多く、親も左利きだと思っていたようだが、保育園を出る頃には、箸やペンは右手を使うようになっていたらしい。
おそらく保育園の先生が、右利き主体の社会に合わせるため、右手に直したのかもしれないと勝手に推測しているが、真実はわからない。
「元々左利きだから、利き手じゃない手で字を書くから汚くなる」と自分を納得させている。

中学校時代

振り返ると、中学校時代が一番楽しかったのかもしれない。
地元には中学校が1つしかなく、すこし離れたところにある小学校の卒業生4人が加わり、クラスメイトは17人となった。

スポーツが得意だと一目置かれるのは変わらなかった気がする。
僕が通っていた中学校には、ソフトテニス部とバレーボール部の2つしか部活がなかった。
ミニバス経験者としてはバスケ部があれば良かったのだが、現実は未知の2択。
最終的に、僕はソフトテニス部を選んだ。

ここでスポーツへの情熱が少しずつ冷めていったのを今でも覚えている。
テニス部に入部し、最初に困ったのは、どちらの手でラケットを持つべきかという問題だった。
左手で持ってもしっくりこないし、右手でも違和感があった。
悩んだ挙句、僕は周りに合わせて右手でラケットを持つことに決めた。
正直、テニスが面白いと感じたことは1度もなかったけれど、他にやることもなかったので、なんとなく続けていた。(失礼)

ソフトテニスはダブルスの試合が基本で、前衛と後衛に分かれてプレーする。
前衛はネット付近にポジションをとり、あまいボールが来たら点を取りに行くが反射神経が必要になる役目で、後衛はラリーを続けながら、チャンスを作る時もあれば、あえて前衛に向かって打ち込むなど戦略を持つ必要がある役割だ。
ちなみに僕は「前衛」だった。

ある雨の日、体育館の少し広めのスペースで部活動が行われた時のこと。
その日の練習では、コーチが「恐怖に打ち勝つ」ためとして、3メートルほどの距離から前衛に向かってボールを全力で打ち込むという練習があった。これがとにかく怖くて、人間の反射神経では到底対応できないスピードで、ボールが顔に飛んでくる。
ネット際でその練習をしていたので、僕は打ち込まれるたびにネットに隠れる動作をしていた。
ラケットだけをネットの上に出しながら、自分はネットの後ろにしゃがんで隠れるというみっともない姿を想像して欲しい。

するとコーチから僕に向かって「やる気がない奴は出て行け!」と怒鳴られた。
近くから思いっきり打ち込まれる練習の理不尽さ、意味の無さを感じていた僕は、言われるがまま無言で立ち去ろうとした。
しかし、その瞬間、コーチは持っていたラケットの持ち手部分で僕の腰を思いっきりぶった。
痣になるほど痛かったが、何も言わずに立ち去った。
あの日から、そのコーチを軽蔑するようになったことを、今でも鮮明に覚えている。(今でも軽蔑する思いは変わらない)
しかも、その日の夜、コーチは僕の親に、「こんなことがあり、ラケットで叩いてしまった」旨の内容を電話で説明し、謝罪をしていた。
一方、僕には何の謝罪もなかった。
この経験は、今でも反面教師として心に残っていて、物で人を傷つけることは絶対にしないと誓っている。
当たり前。

高校時代

高校に進学すると、クラスの人数が倍に増えた。
僕が通った高校は少し有名な学校になっていて、県外からも多くの生徒が入学してきた。
この時に初めて関西弁を耳にするなど、イントネーションや価値観の違いを如実に感じた。
結局、最後までそこに慣れることはなかったと思う。
一方、勉強面は特に優れているわけでもなく、かと言って悪いわけでもなかった。

高校時代の唯一の趣味はゲームで、部活が終わると、すぐ家に帰りパソコンを付け、ひたすらゲームをしていた。

部活動は1年生の時は小学校の時にレスリングクラブに入って県大会でも2位という成績を残していたので、「レスリング部」に入部した。
さらに、兄がレスリングのジュニアオリンピックに出るほどの成績を残していたため、既定路線のような入部だった。
しかし僕自身、争いごとが嫌いな性格で、喧嘩にも似るレスリングは全く合わなかった。
ただただ、キツイ練習と筋トレをやらされていた。
それでも1年間続けた自分を褒めてあげたいと今は思う。

高校2年生になったと同時にレスリング部を退部し、中学と同じソフトテニス部に入った。
テニス部に入部しながら、ほとんど参加せず、悪目立ちしていたことを反省している。

専門学校時代

ここから超絶田舎を出て、1人暮らしを始めた。
専門学校のIT学科に進学し、2年間通った。
皆勤賞ももらえました。

この専門学校時代に色々な経験をした。
バイトや知らない人との関わり、恋愛、就活など。

バイト先はたこ焼き屋。
たこ焼き屋がオープンする前から働き、がっつり長く働いていたので、店長が休みの日は、僕が代理で営業終わりのレジの清算などを行っていた。

店長がいない日は、僕がリーダーとなるので、こっそり他の後輩バイト達にたこ焼きを焼いて食べさせていたのは今になって言えること。
たこ焼き人身買収で、後輩のバイトたちはすごく慕ってくれて、バイト外でもよく遊ぶほど仲良くしていた。
少し自慢になってしまうが、仲良くしていた女性一人は、今や誰でも知っている国民的音楽アーティストのお嫁さんになっていることが小さい誇りだ。

専門学校では、良い成績でも悪い成績でもない僕が「特待生」になるくらいのレベル感の学校だった。
医療事務学科の女性たちと仲良くして、よく遊んでいた思い出がある。
これが高校を卒業した人の「遊び」かと思い、楽しかった。

それまでは、ほとんど女性と関わることがなかったのに、クラスのいわゆる陽キャになぜか頻繁に呼ばれて混ざって遊んでいた。

なぜ僕を誘ってくれるのか、1度聞いてみたことがある。
陽キャ曰く、僕はものすごく訛っている。
だから、僕が喋るだけでイントネーションとかの話のネタになるので、毎回呼んでくれていたらしい。

今はイントネーションを意識的に普通にする技を会得しているので、
ほとんどそういうことを言われることはなくなった。

就活は1社だけ受けて、受かったのでそれ以上就活することは無かった。
4月の半ばには内定をもらったので、その後、卒業するまでは、バイトをしながら遊んでいただけ。
その時に体重が10キロくらい増えて、人生の中でも1番太っていた時かもしれない。

社会人1〜2年(1社目)

新卒で僕が入社したのは、出雲大社で有名な出雲市にあるIT企業だった。
入社後の最初の3ヶ月は研修があり、その間は社宅に住んだ。
学生マンションに住んでいたが、卒業と同時に出ないといけないため、出雲の会社近くで賃貸を探した。

運良く会社の近くに良さげな賃貸があり仮契約していたんだけど、入社直前に会社から「社宅を用意したからそこに住んでほしい」と言われた。
なので、すでに押さえていた賃貸を断る羽目に。
ギリギリ本契約前だったので違約金はかからなかったが、「社宅を用意するんだったらもっと早く言えよ」と心では思いつつ、快く承諾した。
社宅と言われた場所はレオパレスで、県外から来ている新入社員が住む場所だった。

でも結局、3か月の研修期間が終わると、自分で賃貸を探して引っ越さなければならず、手間も費用もかかる。
未だに東京に配属された同期には引っ越し代の補助が出たのに、近くで引っ越す僕には補助は出さないと言われたことが謎すぎる。
結局、最初から自分の決めた賃貸に住んでいれば良かったと思うことが今でもある。

研修が終わり、僕は出雲勤務に決まった。
配属された部署は全員40代以上の社員で、同期でたった1人僕はそこの部署に配属。
主にインフラ関係やプロバイダー関連の業務を担当した。
個人宅に訪問してインターネットの設定をする業務もあり、老夫婦の家でお菓子やコーヒーをいただきながら話すこともあったけれど、僕は人見知りで正直あまり楽しくはなかった。(失礼)

また、この2年間の間に同期の女性と密かに交際していた。
買い物やお祭りに一緒に行く姿を社員の誰かに見られ、社内で噂が広まった。
交際を認めると面倒なことになりそうだったので、バレにバレていたが、僕は一貫して否定し続け、誰にも何も言わせない雰囲気を作り出すことに成功した。笑
そんな同期の彼女は鳥取県に配属され、車で2時間ほどの中距離恋愛をしていた。
何となく仕事にやりがいを感じず、このままこの会社でダラダラと仕事をする未来が嫌だったため、その1年後に僕は転職することを決意。

専門学校時代の就活の時と同じように、1発の入社試験で採用してもらえた。
次に選んだのは、従業員2000人以上を抱える鳥取県にしてはかなり大規模な医療法人だった。


2〜6年(2社目)

この医療法人での仕事は非常にやりがいがあり、とても良い経験ができた。
システム課に配属され、5人で1500台以上のパソコンや電子カルテサーバーなど、人間で言う心臓部分にあたるところの管理をする仕事に就いた。

最初は分からないことだらけだったが、先輩社員が手取り足取り教えてくれたおかげで、2年経たないうちに業務にはかなり慣れることができた。
3年経たないうちに、その先輩が異動することになり、僕が管理の仕事を引き継ぐことになった。
規模が規模なだけに常に不安が付きまとい、最初は不安で眠れない日々もあった。
しかし、職員や業者の方にすごく助けてもらい、徐々に慣れて楽しくなっていった。

年々給料も上がり、退職前の最後の年には基本給が一気に5万円上がった。
課長手当が7万円ということを聞いていたので、それくらい会社からは働きを評価されていたんだと思う。

私生活では1社目で付き合っていた女性とは別れ、マッチングアプリで出会った2つ年上の看護師の女性と結婚することになった。

妻の家に行くには車で1時間かかる距離があった。
看護師歴約10年の彼女の方が、僕よりも断然給料が良かったため、キャリアの面を考慮し、妻の職場に合わせ、同棲する場所を決めた。
通勤に車で往復2時間かかるのはキツいと思い僕は転職することにした。

退職することを伝えた際は、最初こそ引き止められたものの、応援してくれる人もたくさんいて、
出勤最終日に、「今まで支えてくれてありがとう」と大きい花束をもらい、最高に嬉しい形で退職できたことは本当に良かった。
改めて僕は人に恵まれていたのだと感じた。
そして、退職した年に息子が生まれた。

7年〜現在(3社目)

現在、僕は製造業の会社のシステム部門で働いている。
プログラム開発やパソコンの管理などを担当していて、前職で身につけたスキルも活かせているので、特に大きな困難はない。
しかし、今の会社では前時代的な機種を選定することが多く、そのたびに「それは古いです」と指摘して、時には口論になることもある。
こうした衝突が多いため、ひょっとしたら厄介者扱いされているかもしれない(笑)

そんな中、今の会社に入社して半年が経過した頃、大きな人生の転機が訪れた。
それは今後の人生に大きく影響を与えることになる。

脳腫瘍の闘病が人生の転機

元々偏頭痛持ちだったが、その日は朝からいつもと違う頭痛があった。
看護師の妻にそのことを話すと、「病院に行って」と言われた。
※後から分かったことだが、朝からの頭痛は深刻な病気の兆候である可能性があるらしい。
妻の言葉に従い、近くの脳神経クリニックに行った。
最初の診察では「片頭痛だと思います」と言われたが、念のためMRIを撮ることにした。
すると、脳に影が見つかり、妻が働く総合病院に紹介状を書いてもらった。

総合病院での精密検査の結果、僕の小脳に2.4cmの腫瘍が発見された。
そしてそのままとんとん拍子に手術日が決まった。
発覚・入院・手術・そして退院後に至るまでの詳細な体験は、書籍にまとめて残す予定。
もしこの内容に興味があるなら、ぜひ完成後にチェックしてほしいし、僕のX(旧Twitter)もフォローしてもらえたら嬉しい。

https://x.com/sakuma_yuuuu

この闘病期間を通して、家族や自分の人生について深く考えることができた。
これまでいかに無駄な生き方をしていたか、そして命が有限であることを強く感じるようになり、僕の生き方は大きく変わった。

2社目時代の人事課の先輩が教えてくれたこと

2社目で働いていた時、人事課の係長と仲良くなり、その人から積立NISAや保険などの金融知識を教わった。(職業柄覚えていることもあると思う)
その知識の豊富さに驚き、休日にはワーキングスペースを借りて、3時間ほどお金や税金の話を聞きまくった。
そのとき初めて、自分がいかに無知であったかを痛感した。
これが「無知の知」か。と思った瞬間だった。

その後、YouTubeで両学長の動画を徹底的に何度も見て、市場が落ち込んでいたコロナ禍のタイミングだったので妻を説得し、積立NISAに加え、特定口座に400万円を一括で投資することを決断した。
現在では、約4年間でその資産が1000万円に迫る勢いで増えており、本気で行動して良かったと思っている。

もしあの時、係長の話を聞かなかったら、自分が無知であることすら気づかずに、搾取され続けていたかもしれないと思うと恐ろしい。

親同士の喧嘩を見たことが無い

僕は親同士が喧嘩しているところを一度も見たことが無い。
自由にさせてもらっていたし、非常に恵まれた環境だったと思う。

最近、実家に帰った際に、
「親同士の喧嘩を見たことが無い」
と、この話を聞いてみたところ、

両親は笑いながら「喧嘩はしてたけど、あんたたちには見せなかっただけ」とサラッと言われた。
母は古い引き出しから折れ曲がったメガネを出してきた。

僕が知らないところで、そんなことが起きていたのかと驚き、親の偉大さを改めて感じた瞬間だった。

親だけは常に味方でいてくれた

僕は3人兄弟の中で唯一、ゲームや漫画が好きだった。
兄と弟は外で遊ぶのに対し、僕はひたすら家の中で遊んでいたが、両親からは一切人格を否定するようなことは言われず、受け入れてくれていた。(放置が正しいかも笑)
なので特別劣等感を感じることは無かった。
どんな時も家族だけは味方でいてくれたからこそ、僕は偏見をあまり持たない思想になったと思う。

高校生になったとき、初めて携帯(ガラケー)を持たせてくれた。そのうちmixiやモバゲー、Twitterを見て、世界には多種多様な意見や人がいることを見て圧倒された。

親になって初めて分かった親の偉大さ

今、僕には3歳になる息子がいる。
僕自身、男3人兄弟で育ったが、いざ自分が親になってみると、3人を育てた両親のすごさを実感している。
特に母は、父があまり育児に参加しなかった分、ほとんど一人で僕たちの面倒をみていたらしい。
いや、ちゃんと父も遊び相手になってくれた記憶もあるということをフォローに入れておく。

今、僕の妻が2人目を妊娠しているが、息子1人でも大変な中で、3人も育て上げた母の偉大さを、今度改めて聞いてみたい。

脳腫瘍との闘病を経て、人生が再スタート

僕は妻の一言で病院を受診し、脳腫瘍が発見され手術を受けた。
結果として、左半身に障害が残ったが、幸運にも障害年金の給付が決まり、働きながら年金を受け取る生活が始まった。
思い描いていた人生とは大きく違ってしまったが、これが新たな人生のスタートだと思っている。

それと、曲がったことを嫌う性格はずっと抑えてきたけれど、死を意識した瞬間、それまでの生き方を強く後悔したことを覚えている。 そして妻からも「もっと素直に生きてほしい」と言われたことで、自分の信条として“曲がったことには声を上げる”と決めた。

この生き方は、会社やどこであっても周囲から浮くことになるかもしれない。でも、「他人がどう思うかなんて気にする必要がない」と今更になって気が付いた。 というか、そんな言葉は小さいときから耳にタコができるほどよく聞く言葉だけど、ようやく自分に落とせ込めた。 他人からどう思われるか、考えれば考えるほどそれが無駄だと感じるようになった。

親からの教えもある。 「なにかの議論をしているとき、自分が正しい」と感じた瞬間、議論の焦点は「正しいか正しくないか」にずれてしまう。 「結局、相手を屈服させることが目的になってしまうから、そうなったら潔くその議論または立場からは降りろ」と教わった。

だから僕は、「曲がったことを嫌う自分」と「無駄な争いには加わらない自分」を両立させる、そんなハイブリッドな存在でいたいと思っている。

「全ての経験が今の僕を作っている」

人生の転機となった出来事、特に脳腫瘍との闘病や、家族や職場での人間関係を通じて、どのように自分の価値観や性格が形成されたのかを長文にわたり勝手に書いてきた。

冒頭に言ったが、息子には、できれば僕か妻のような人格に育って欲しい。
唯一分かるのは、僕と同じ生き方をさせれば、僕ができること。
妻はものすごく慈悲深いので、妻の生き方を息子に教えて欲しいと願っている。

でも結局は本人次第。
僕たち両親は、逃げ道を作ってあげる事しか出来ないよねって話。


最後まで読んでいただきありがとうございました!
次回また会いましょう!



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