記憶にのこしたい町のお店・お宿〜「市川屋」編〜
国道141号を佐久市方面から小海町方面に向かって進む途中の八十巌橋の手前、千曲川の向こうに、庭木が立派に生い茂る大きな日本家屋が見える。昨年8月に創業から120年の歴史を閉じた日本料理店「市川屋」だ。
4代目の主人である市川信(まこと)さんと共にお店を切り盛りしてきた市川好子さんに、これまでの歩みと今の思いをうかがった。
群馬から来た曾祖母がうどん屋を開業
市川屋が今の場所で営業するようになったのは、1981年(昭和56年)のこと。それまでは東町の、現在は「KOKYU」が営業している建物でうどん屋を営んでいた。
創業したのは信さんの曾祖母で、おそらく1903年(明治36年)に、群馬から一人娘を連れてこの地にやってきたという。
「上州の人だから、お蕎麦ではなくうどん屋を始めたと聞きました。大八車かなにかを引いて下ってきたそうですよ。その当時は上州とここと、余地峠を通って行き来があったみたいです」
創業者が亡くなると、その娘、すなわち信さんの祖母である“おでん”さんが、経営を引き継いだ。宿岩の阿部からお婿さんをもらい、おでんさんが店を仕切っていたそうだ。
おでんさんには6人の子どもがいた。信さんの父は2番目で長男だったがお店は継がずに教員になった。5番目に生まれた女性、つまり信さんの叔母が市川屋の3代目としておでんさんを手伝うようになった。八千穂にお嫁に行き、そこから通っていたそうだ。
やがて大学受験に失敗した信さんがお店を手伝うことに。東京の服部栄養専門学校に通いながら中華料理店でバイトをし、卒業後はいくつかの店で修行した。そのうちのひとつは築地の「藍亭」という日本料理店で、政界財界の重鎮がたくさん訪れる大きな料亭だった。
「とてもよくしてもらったそうで、私たちが結婚するときも、そこの女将さんと料理長さんにご挨拶しに行きました」
信さんは20代半ばで戻ってきて市川屋に入り、しばらくは祖母のおでんさんと叔母と一緒にうどんを出していた。
その後、お店の場所が移ってからもおでんさんはうどんを作り続け、90歳頃まで働き、99歳まで生きたそうだ。
子ども時代の思い出、信さんとの馴れ初め
好子さんは、最初の市川屋があった東町の、タクシー会社を営む家に生まれた。人の出入りが多く、お客さんのために出前を取ることもよくあったという。
「お客さんが来てちょうどお昼にかかったりすると、市川屋さんのおうどんを頼んだり、仲好さんや新駒さんのラーメンを取ったりしていましたね。仲好さんは今のお店じゃなくて、前の仲好さんです。市川屋さんで私が覚えているのは、鍋焼きうどん。鉄鍋で運んできましたね。私たち子どもはおこぼれで、ひとつを分けて食べるくらい。まぁめったに食べられないですよ」
当時の市川屋は出前の注文が多かった。農協や役場はお得意さんで、大量の丼ものなどを車で届けたそうだ。
子どもの頃から知っているお店の4代目と結婚することになった経緯はこうだ。
大人になった好子さんは、東京の小学校の先生になった。学校があった世田谷の三軒茶屋あたりは第二のふるさとのように感じていて、今でもときどき遊びに行くという。
事情があって戻ってきてからは、佐久市の小学校に勤めていた。その頃に実家の母が怪我をして炊事ができなくなり、「お弁当をやってくれる?」と市川屋に相談に行った。それが、何年かぶりに信さんと話をするきっかけになったそうだ。
当時、佐久の小学校では子どもたちが採ってきたタニシを売って教材費にするという活動があり、好子さんにも「これ売ってきて」と割り当てがあったそう。
「困ったなぁ、と思って市川屋に持っていったら『いいよ』と買ってくれたりして。まぁ、昔から知っていたし遊んでもらってもいたんですけど、そういうことでだいぶ親しくなったんです」
結婚前は、商売をやっている家で育ったのだから市川屋にも抵抗なく入れる、と思っていたそう。ところが、「接客業というのは、ものすごく大変でした」と振り返る。
「私、どっちかというと我儘な方で、お客さんにも好き勝手なことを言ってたから、『態度が悪い』って電話がかかってきたりしてね」
そんな好子さんもやがては女将が板につき、40〜45年にわたってお店を支えていくことになった。
本格的な日本料理店としての出発
お店を今の場所に移転したのは、信さんと好子さんが30代のときのことだ。
「結婚して5年目くらいからそんな話が持ち上がって。まぁ信さんには、ずっと前から構想があったらしいんです」
信さんが切り盛りするようになってから元のお店を改装したものの、車の時代になって駐車場が不足していた。何よりも、「市川屋を本格的な日本料理の店にしたい」という信さんの理想を叶えるための移転だった。
たまたま今の場所に市川屋が持つ田んぼがあり、周りの土地も取得して、庭付きの大きな店舗を構えることに。建物の設計は、佐久市近代美術館も手掛けた斎藤先生という方にお願いした。
「そんなに偉い方だとは知らなくて、紹介していただいたから相談したんですよ。そうしたら丹下健三の教え子ということで、『私はコンクリート打ちっぱなしの建物が専門です』って言われたんです。困ったな、どうしましょう……と思ったら、『やらせてください』とおっしゃって。信さんと斎藤先生とで日本風の料亭の建物を見に行ったりして、色々勉強してやってもらいました」
お金の工面に奔走した好子さん
問題は資金だ。斎藤先生も「こんな若造に払えるのか」と心配したらしく、佐久市の大進建設の社長をしていた義父を連れてきた。色々と話すうちに、大進建設と好子さんの実家との間に昔から取引があることが分かり、「田中さんのお嬢さんでしたか。それならいいですよ」ということで話がまとまったそうだ。
とはいえ、予算は潤沢ではない。広い庭も最初はほとんど更地の状態でのスタートだった。
「それでも木の何本かは植えなきゃっていうことで、なんとかお金を工面して、造園屋さんに頼んで植えてもらいました。この木がこんなに大きくなるには、やっぱり何十年もかかりましたけどね」
この時もその後も、お金の工面は好子さんの役割だった。お店の移転を実現させるために、生まれて数ヶ月の次女を連れて金融機関を回ったそうだ。
「国民金融公庫、八十二銀行、信用金庫、全部に連れて行って、おっぱい飲ませながら書類を書いたりして(笑)。ちょうど実家の母の妹の嫁ぎ先が倒産しちゃった関係で、その時期に銀行からお金を借りられないことになってたんですよ。それをあの手この手で頼んで回って、ようやく借りたんです」
お客さんたちとの出会いで得たもの
移転した頃は次女がまだ1歳だったが、お店も広くなって一層忙しくなり、子どもたちはいつも好子さんの実家に預けていた。
「おぶってやってた時もあるけど、旦那が『みっともないから、おぶって店に出ないでくれ』って言うの。だから、子どもたちはほとんど実家で養ってもらったのよね(笑)」
その当時は、コース料理を信さんが、最後に出すうどんをおばあさんが作るという体制で、おばあさんが引退するときには、3代目の叔母とは別の叔母がうどん作りを引き継いだ(叔母の引退後は、大日向の由井勝之さんに頼んだ)。
信さんが厨房で料理に専念する傍ら、好子さんは、経理や事務、接客、パートのおばさんたちや高校生アルバイトの管理や指導など、お店の運営に必要なことを一手に引き受けてきた。
「税務署や保健所、それに労働基準局。この3つは何年かにいっぺん、監査があるんです。もうそういうのがくるたんびに、嫌でねぇ(笑)」
金融機関も最初は慣れず、手形の書き方も分からない。当時の八十二銀行で融資を担当していた課長さんが一から教えてくれたそうだ。
好子さんが「こういう仕事をしていて良かった」と振り返るのは、様々なお客さんとの出会いだ。町の人には「敷居が高くて行けねえ」と言われるくらい、正式な日本料理を出す店だったので、農村医療の確立に尽力した佐久病院の若月俊一院長や他の医師たちのほか、東京からは実業界の大物や学校経営者などがこぞって訪れた。
「そういった方たちから、私達の日常では耳にするようなことがないような話を聞いたりして、学ぶことがたくさんありました」
夏になると毎年来るお客さんもいて、常連さんの料理の好みを覚えておくのも大事な仕事だった。お客さんの質問に答えられるよう、床の間に飾った掛け軸の書の意味や、信さんがこだわって選んだ器の産地や作家など、様々な勉強もしたという。
順調だったお店に訪れた転機
日本の景気が良かった時代、夏に別荘で過ごすためにやってくる都会の人たちは羽振りが良かった。市川屋で提供しているコースが4〜5千円のところ、「1万円にしてくれ」というお客さんもいた。毎年、鮎のフルコースを楽しみに来る人もいたそうだ。
まだ「官官接待」が問題視される前は、官庁の役人が来ることも多かった。
「このあたりで災害が多かった時期があって、視察に来た人たちに食事を提供することもありました。60年頃にすごい台風があったときも知事が来られてね、周りの様子を見て『大変ですね』っておっしゃるので、『そうなんです、近くに保育園もあるし危ないんですよね。よろしくお願いします』って陳情したこともあります」
商売はいたって順調だったが、信さんに病気が見つかって状況が変わった。
「昔の写真を見れば分かるけど、体の丈夫な人だったんですよ。叩いても蹴っ飛ばしても死ぬような人じゃなかった(笑)」
信さん自身、怪我をしてはいけないと好きだったゴルフやスキーも控え、健康にも気を使っていた。それまでは寝込んで休業するということもなかったそうだ。
ところが13年前、歯医者で治療を受けたが、何度か通っても歯の痛みが取れなかった。そこで高校の同級生がやっていた歯医者に行ったところ、「早く佐久病院の口腔外科に行け」と言われたという。最初に治療を受けた歯医者の方でも、親族が口腔外科の医長をしている都立駒込病院を紹介してくれた。
「だけど、うちの主人は意外と気が小さいんです。大きな病院で検査が必要だなんて言われたら倒れちゃうくらい。だから『ディズニーランドに遊びに行こう』って子どもたちも一緒に東京に行って、そのときに『ちょっと病院に行ってみない? 私も行くと大げさになるから、一人で行っておいでよ』って言いました。それで主人が一人で駒込病院に行って診てもらったら、すぐに顎骨癌だと分かったんです」
病気と戦いながらの営業
すぐに抗がん剤治療が始まり、すでに入っていたお店の予約は断ったり、どうしても断れないお客さんは近くの日本料理屋の「いろは」に頼んで対応してもらったりした。そして、少し腫瘍が小さくなったところで17時間にわたる手術をした。
信さんは、その後も抗がん剤治療を続けながら、無理のない範囲で厨房に立つようになった。
「1日何組限定という感じで、予約のお客さんだけにしました。だから、本当にお断りすることが多かったんです」
信さんは、昔のようにたくさんのお客さんを迎えられないことはもちろん、料理人にとって大事な口に癌ができてしまったのがショックだったのだろう。うつ状態になってしまった。「口の手術をして、味が分かるの?」などとお客さんに言われてガックリとうなだれていたこともあるという。
「すっかり自信をなくしちゃって、私に『ちょっと味を見てくれや』っていつも言ってました」
それでも長年の勘のなせる技か、信さんの味付けが狂うことはなかったそう。
「家にこもりっきりになられると困るから、『出汁は私たちではとれないからやってね』とか、『天ぷらは揚げられないからやってね』とか言って、なんとかお願いして。で、やり始めるとできちゃうから、『社長さん、すごいすごい!』って、パートのおばさんたちみんなでもちあげて(笑)。そんなふうにして何年もやってましたね」
仕事に真剣で厳しかった信さん
信さんが亡くなったのは、2020年(令和2年)8月10日のことだった。部屋から出てこないので様子を見に行くと意識不明になっており、救急車を呼んだがそのまま逝ってしまった。
その1週間前に、たまたま信さんの高校の同級生がお店に集まったそうだ。
「黒澤明男さんという方が奥村土牛のお宝をいっぱい持っていて、それを同級生に見せたいというのでここに20点ほど持ってきて並べたの。食事をしながらそれを眺めよう、という会を開いたんですよ。
その頃の信さんは人に会うのをすごく嫌がったけど、『同級生の誰々ちゃんが来てるんだし』とか『誰々が会いたがってるよ』とか言って引っ張り出されてね。そうしたらニコニコして握手したりしてました。
後になって『あれが最後だったね』ってみんなに言われたけれど、皆さんにお別れできてよかったと思います」
信さん亡き後の市川屋は、好子さんとパートのおばさんたちとでなんとか続けてきたが、5代目を担う人は現れなかった。
信さんの存命中に何人かの若者が修行に来たが、「うちの旦那と合う人は、なかなかいない」と好子さんは苦笑いする。
「他のお店で経験のある人をお預かりしたことがあるんだけど、『え、こんな出汁の取り方するの』って驚いていました。その人はパックの出汁を使っていたんですね。うちは大きな昆布から出汁を取るんです。お料理も、既製品は絶対に使わないで手作りするから時間がかかって、夜中までやってましたよ。
それに、信さんは細かいの。私たちが盛り付けしてても、お箸を持った片手だけでやったらだめだって怒られる。必ず器に手を添えて、両手を使ってやれって言われましたね」
ただ気難しいのではなく、日本料理に対する真剣さが高じてのこだわりと厳しさだったのだろう。信さんは料理そのものにとどまらず、日本料理を取り巻く文化を知ることも大切にしていて、お華やお茶も嗜んでいたそうだ。あるとき店内にお茶室と水屋も作り、それからは佐久病院他の社中の茶事が催されたという。
美味しいお店巡りが家族の思い出に
信さんの料理への思いは、器へのこだわりにも現れていた。それぞれの料理に対して器も含めた盛り付けのイメージがあり、それに合うものがなければ京都の器屋さんに注文したり、その支店がある東京まで買い求めに行ったりもしていたそうだ。
ちなみに信さんは、趣味においてもこだわりが強く、好きなものが見つかるとそれ一筋というところがあったようだ。
「一時期、オペラ歌手のパヴァロッティが大好きになって、仕事している間中CDをかけてるから、みんな耳についちゃって(笑)。うちに帰ってもビデオ見てるし、好きになったらとことんやっちゃう人だったんですよ。だけど、それが何年も続いた後にぱっと飽きるんです。スイッチが切れて、また違うものにカーっとなるんですよね(笑)」
そんな信さんがずっと変わらずに好きだったのは、食べること。半分は仕事のための研究でもあったのだろうが、休日は美味しいお店巡りに費やされた。家族4人で車に乗って、随分遠くまで行ったそうだ。
「昔は車にナビなんてついてないから、地図を見ながら私がナビしたり、運転したり。なかなかお店が見つからず、子どもたちと私が『もういいよ、帰ろうよ』なんて言っても、見つけるまで絶対帰らないんです(笑)」
高級料理店での食事となることも多く、財布係の好子さんは大変だった。でも、二人の娘たちにとっては、いつもお店で忙しい両親と過ごせる嬉しい時間だったのかもしれない。
「信さんが亡くなったときにね、長女が『何が良かったって、美味しいもんいっぱい食べられたことだよね』なんて言ってました」
お店を営業している日は、親子で一緒にご飯を食べる時間もなかった。お店の隣に自宅があったが、早めにご飯を作っておくか、間に合わなければおにぎりだけ握って「食べておいて!」という日々だったという。
「特に長女なんか、お店のことは『大っ嫌い』って(笑)。そう言いながら、お店でバイトもしてたんですよ。高校生のときは娘の友だちも結構バイトにきてくれて。娘たちは小さい時から手伝わされてたから、余計イヤだったのかもわかりません。でも次女は後に飛行機のCAになって、『こういう仕事を手伝わされたのは、とても役に立った』って言っていました」
閉店の経緯とこれから
信さんが亡くなってからも、好子さんはできる限りお店を続けていくつもりだった。
ところが、存続の壁になったのは消防法だった。立入検査があり、市川屋のような広い店舗では、自動火災報知設備(自火報)を備え付けなければ営業許可が下りないというのだ。
「直接消防署の本部に連絡がいくシステムで、見積もりしてもらったら300万もかかるということでした。消防の人に『分かったけれど、もう何年かするとやめるんですよね』と言ったら、『あ、そうですか。いつやめるんですか?』って言われて。だから『次の決算の時までに』なんて適当なこと言ったら、それを紙に書いて出せというので出したんです」
それでも決算をまたいで営業を続けていたら「まだおやめにならないんですか」と問われ、好子さんはとうとう決断をした。当時の営業許可の期限が切れる令和5年8月31日で閉店することにしたのだ。
「まあ、やってもあと1〜2年でしたよね。献立を立てて、仕入れして、設備関係も一切自分でやるというのは、75を過ぎたらきついですね。お掃除とかは頼めば良いんだけど、ガスや水道、そういうのが壊れたら全部自分でやらなきゃいけないし」
実際、去年は漏水が見つかって水道管の修理を頼んだり、漏水のために2ヶ月分で10万円にもなってしまった水道料金の免除を水道局に交渉したり、そんな仕事も好子さんがひとりで対応することになった。
「もう、諦めました。主人も、亡くなるまで『やめろやめろ』って言ってたんですよね」という好子さんだが、「100年続いた店を自分たちの代で終わらせるのは……」という気持ちもあり、悩んだ末の決断だった。
閉店はしたが、お店を手放す気はない。これからもここを維持をしていくことが「私のミッションです」と好子さんは言う。以前から店内に事務所を置いている千曲川ロータリークラブの例会が定期的に開かれるほか、子ども食堂、習い事の教室、地域の人たちの集まりの場として開放している。
「地域の人たちに使ってもらって風通しを良くしておけば、ここももう少し維持できるんじゃないかなと思って。それに、やっぱり人のつながりって大事ですからね」
(執筆:やつづか えり 撮影:山口 絵里子)
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