記憶にのこしたい町のお店・お宿〜「森田屋」編〜
町で唯一の文房具屋さん……と思いきや、店内には洗剤や手芸用品などの日用品も取り揃え、夏は店先に色とりどりの花火が賑やかに並ぶ「森田屋」。
東町商店街の真ん中にあるこのお店には、長年の常連さんからお小遣いで駄菓子を買う小さい子まで、老若男女がやってくる。それをいつも笑顔で迎えてきたのが、輿水洋子さんだ。
その洋子さんと、勤めていた会社を定年退職後に経営に合流したご主人が、このたび引退される。祖父が創業したという森田屋の歴史や30年前にお店を引き継いでからの奮闘、お店のこれからについて、洋子さんに語っていただいた。
創業者の祖父、二代目の父とお店の思い出
「創業の時期については曖昧なんですよ。私の父親が大正12年生まれで、その前からおじいちゃんがやってたから、大正10年くらいだとは思うんです。うちでは『ラッキーセブンで大正7年』ということにしてたんだけどね」と、家族の会話を思い出しながら話してくれる洋子さん。
祖父の松井忠太郎氏は、群馬県の富岡の出身。小海線が開通し、羽黒下駅から続く東町が栄えてきた頃に佐久穂町にやってきたようだ。そして今の森田屋がある場所に建っていた元料亭の建物を買い、両親を呼び寄せた。当初はそこから川上村に通ってお店をやっていたという。
「おじいちゃんは、商品を荷車に乗せて山の上まで持っていってたんだって。だから70歳手前で腰がダメになって、ずっと居間に座ってました。あの頃は今の私よりも若かったんだけど、ずっと年寄りに見えたわね」
そんな祖父の晩酌につきあって話を聞いていた洋子さんだが、「森田屋」という屋号の由来は分からない。洋子さんにとって「森田屋」は最初から「森田屋」だったから、改めてその意味を尋ねることもなかったのだ。
洋子さんがものごころついた頃は今の場所にお店兼住居があり、下駄を売っていたのを覚えている。
「川上では衣料品を売ってたって聞いているけれど、そこから履物も扱うようになったんでしょうね。お客さんの需要に応じて色々増やしていったんだと思う。店の入口にランドセルを並べてたのも記憶にあるし、お雛様なんかも。昔はもう、なんでも売ってましたよ」
小学校では「文房具屋さんになりたい」と洋子さんを羨ましがる子もいたけれど、洋子さんは共感できなかった。
「うちが文房具屋だといっても、本当に最低限のものしかもらえなかったんですよ」
当時からおもちゃも売っていて、ある時お客さんが売り物のおままごとセットを落とし、一部が割れてしまったことがあった。
「もう売り物にならないし、娘にくれるんじゃないかと思うじゃない? でも、父は奥にしまったっきりで。『ちょうだい』とも言えなくて、恨みが残ってます(笑)。優しい父親だったけれど、商売のことばかり考えていて、娘にあげたら喜ぶだろうなんて気づきもしなかったのね」
都会暮らしを経て帰郷し、職場結婚
父は、洋子さんが高校を卒業したらお店を手伝ってくれることを期待していたようだ。一方で洋子さんは、高校3年のときには八十二銀行の試験を受けるつもりでいたという。
だが、その年に祖父が亡くなったことがきっかけで運命が変わった。弔いにやってきた叔父に「洋子、もう卒業なのか。それなら東京に出てこいよ」と言われたのだ。
「東京といっても、叔父のうちは川崎なんですけどね。じゃあ1年くらい遊びに行ってくる、という軽い気持ちで叔父のうちにお世話になることにしたんです」
都会での生活が楽しくなった洋子さんは、成人式での帰省の折、「私、もう帰りたくない」と軽口を叩いた。すると父は、「二度とうちの敷居をまたぐな」と言うほど激怒した。
「そこまで父を怒らせて、母も羽黒下駅まで私を見送りに来て悲しそうにしてるし、切々と思いを込めた手紙をくれるしで、これは帰ってこなくちゃいけないな、という感じがしました」
結局、叔父のところには3年半いて、洋子さんは町に戻った。しかし、川崎では東芝で事務職をしていた洋子さんにとって、自宅兼お店での生活は退屈だった。
「都会なら毎日駅ビルでウィンドウショッピングできるでしょう? だからつまらなくて。それで、ハローワークに行って仕事を探したの」
そのうちに紹介されたのが中込にある日産の販売店で、「ちょうど大衆車が出始めた頃で、これからはクルマの時代だと思って」就職を決めた。
この職場で、洋子さんは結婚相手に巡り合うことになる。
「あの頃はみんな花嫁修業をするのが当たり前で、会社に行きながら料理教室に行ったりお花を習ったり。機械編みの編み物もブームでね、私も高い機械を買ってやりました。
そういう教室に行くと女ばっかりでしょ。みんな暇なもんだから、『あの人も決まった、この人も決まった』って結婚の話をするわけ。
当時は23歳でお嫁に行こうっていう時代でした。私は町に帰ってきたばかりなのに、急いで結婚相手を探さなきゃいけないって、焦ったのね(笑)」
24歳でクルマの営業マンをしていた旦那さんと結婚し、日産は3年半ほどで退職した。
「仕事は腰掛けで、結婚して家に入るのが当たり前の時代だったからね。面接のときに『幾つくらいまで勤められる予定です?』みたいに聞かれたくらい。今だったら、とんでもないよね」
「森田屋を閉める」と聞いて驚いた30年前
結婚した当初は森田屋を手伝った洋子さん。1年ほどたつと子どもが生まれることになり、お店のことは長野の問屋に修行に出ていた弟にバトンタッチした。
それから10年ほど3人の子どもの母親業に専念したところで、たまたま学校の事務をやらないかという誘いを受けた。
「文房具屋だから父が学校の先生と知り合いでね。学校は経験がなかったけれど、事務職やっていたんなら大丈夫だって言われて、軽い気持ちで引き受けました」
産休の職員の代替だったので勤務の期間は短く、5校を渡り歩いた。
「学校って、入ったら全校生徒に紹介してくれて、先生たちも歓迎してくれるでしょう。職場の先生とも子ども達ともすぐに仲良くなるんだけど、4〜5ヶ月経ったら『これで終わりました』ってまた挨拶しなきゃいけない。いつも泣いて別れなきゃいけないのが、嫌になってね」
ちょうど岩村田小学校での勤務が終わるときに、それまでいなかった岩村田小の図書館の司書の先生に請われた。
「ひとところにいられるんならぜひ」とその話を請け、働きながら研修に通って図書の分類や紙芝居、パネルシアターの演じ方などを学んでいった。
「8年間どっぷり図書館に勤めました。楽しく、やりがいのある仕事でしたが、所詮パートです。長女が短大に進学する頃に、もうちょっとお金を稼げる仕事をしなきゃいけないと思って辞めて、新しい仕事を探しました」
その後、いすゞ自動車の損保事務の仕事に就いた洋子さんだが、そこを辞めざるを得ない事態になったのが今から30年ほど前だ。
「その頃、実家では店を閉めるっていう話になっていたのよ。私は弟がしっかりやっているんだろうと思っていたから、『えっ?』とびっくりしてしまって」
慌てて様子を見に来て、洋子さんは驚いた。父は認知症が始まっており、自分が仕入れた商品なのにそのことを忘れて「返品しろ」と言うなど、お店は混乱していた。母は緑内障が進んで小諸や上田の眼科に通う日々で、助けを必要としていた。見かねた叔父や叔母が、「洋子、なんとかなんないの?」と相談してくれたのだ。
「そういう状態で、弟も大変だったんだろうね。その前には国道沿いにラーチができて、お客さんもどんどん遠のいたでしょう。かといって、文房具屋が高い家賃を払ってあちらに出店するのも無理だった。別世帯で子どもも小さかったし、もう商売は難しいと見切って、閉めようと決めたんだと思う」
両親の生活のためにお店をやろうと決心
だが、店を閉めて収入がなくなったら父と母が生活できなくなってしまう。
「個人事業主だから、年金は少ないし。郵便局に預けておけば倍になった時代もあったけれど、父は貯金が嫌いな人だったから」
洋子さんは親の生活のために自分がお店をやることにした。町役場など、すでに閉店の連絡をしていた得意先を回り、「森田屋の娘です。私が続けますので、よろしくお願いします」と挨拶をして回った。
しかし、既存の得意先だけではお店の経営を続けていくのが難しい状態だった。
「でも、文房具屋なんだから、学校に売り込みに行けばいいと思ったの。そこから世間知らずだった私にスイッチが入ったんだわ。元々は、そんなに積極的な性格じゃなかったんだけど……って言うと、今じゃみんな笑うんだけど(笑)」
過去の勤務先の縁で仲良くなった教員に事情を話したら、「今、御代田南小にいるから来てよ」と言われた。そんなに遠くまで行くつもりはなかったが、「新しい道ができて、30分で行かれるから」と言う。それで毎週水曜日、職員会議の後で先生たちが揃っている午後に職員室を訪問することに。すると御代田北小学校の先生にも来てほしいと言われ、近隣の平根小学校や田口小学校なども回って注文を取るようになった。
小学校を回って先生たちから注文を取ったり、品物を配達したりという仕事は、コロナ禍で職員室への訪問ができなくなった2020年までずっと続けた。途中、洋子さんがお店にいて常連さんを迎えることも大事だと気づいてからは、学校を回るためのパートさんを新たに雇った。
「パートさんには、まずはこっちの学校へ、その後こっちに行って、コンパスとか三角定規とか多少のものを持って、『こんなのどうですか?』って直々に聞いてみてねって。とにかく先生と仲良くなって注文もらってきてね、とお願いしました」
毎週遠出をし、鉛筆1ダースでもノート1冊でも売れればと頑張れたのは、「両親のためになんとかしなきゃ」という気持ちと、「これしか売れなくても、次につながるかもしれない」という希望があったからだ。
創業の地を確かめに、家族で川上村へ
当時、レジの後方の一段上がったところは家族の部屋で、マジックミラー越しに店内の様子が見えるようになっていた。
「私がお店のことをやっているのを父がそこから見てね、『まだいる』とか『人んち来て引っ掻き回して』なんて言うのが聞こえるの。その時はものすごく切なかったですね」
父には、自分がお店を回しているのだというプライドがあったのだ。
「問屋さんが来ても、父には自分が問屋と話すんだという自負があるの。でも実際は話にならない状態だったから、私は父の後ろに立って問屋さんに品物を見せながら、『これ、これ』って手まねでヒソヒソと注文を伝えてました(笑)」
問屋さんも心得ていて、父の話をよく聞いてくれたという。
「問屋さんが『じゃあ、これで』と帰っていくときに、父が必ず『こっから上はどこまで行きます?』って聞くのよ。大抵の人が『川上まで』って答えるのね。そうすると父が『ああ、川上。俺も若い頃は川上で商売やってた』って必ず話すの。問屋さんには何度も同じ話しして申しわけなかったけれど」
父がいつも川上の話をするので、あるとき洋子さんと両親と弟夫婦で、川上に行ってみたことがある。そして、たまたま見つけた「白木屋」という旅館で尋ねてみると、そこのおばあちゃんが「森田屋」を覚えていて、お店があった場所を教えてくれた。
「そのときはお父さんと『ここだったらしいね』『そうだったかな』なんて話したんだけど、1週間経って『場所が分かってよかったね』と言ったら、全然覚えてないの。完全に私たちの自己満足だったのね(笑)」
周囲の助けと持ち前のバイタリティでお店を継続
父に煙たがられたりしながらも、両親のためにがむしゃらにがんばった洋子さん。年中忙しく、過労で倒れたこともあった。そのときは、優秀なパートさんが助けてくれたそうだ。
「歴代のパートさんにも助けられたし、同業の方も学校への営業の仕方とか伝票の機械化のことなんか教えてくれたり、役場の皆さんや周りの会社の方、商工会さんにもお世話になって、本当に皆さんのおかげですよ。
それから、社協さんのデイサービス、その後の老健さんへの入所など町の皆さんの助けも大きな力でした。老いていく両親を預かってくれたからこそ仕事が続けられました。感謝しかありません」
夫も、急に家業を継ぐと言い出した洋子さんを何も言わずに送り出してくれた。会社を定年退職してからは、同居していた姑の晩年の面倒を見てくれ、その後、お店の経理やパソコンを使う仕事を引き受けてくれて本当に助かったという。
学校に知り合いがいてお客さんになってくれたことが、本当に大きかったと振り返る洋子さん。そうだとしても、学校や会社で雇われて働いた経験しかなかったのにお店を成り立たせることができたのは、洋子さんの性格や才覚があってこそに違いない。
「ただただ一生懸命やってきただけ。なにかあるとしたら、私がこの地で生まれ育ったからじゃない? おじいちゃんが川上まで荷車を引いていった話なんかをずっと聞いてきて、商売というものが染み付いているというか。根性もののドラマも好きだしね(笑)」
経営の本を読んだり勉強会に参加したりして、一生懸命勉強もしてきたという。何事にも好奇心をもって臨み、努力を惜しまない洋子さんの気質が伺われる。
加えて、人と接するのが好きだというのも重要な点だ。お店をやっていて一番嬉しいのは「お客さんとお話すること」と目を細め、駄菓子や玩具を買いに来る子どもたちの思い出を問うと、やんちゃなエピソードを次々と語ってくれる。
ちなみに、駄菓子を置くようになったのは洋子さんが来てから。儲けにつながるものではないが、呼び水になればと始めたそうだ。
夏を盛り上げる花火への思い
洋子さんが一番思い入れのある商品は、ずっと昔から扱っている花火だ。以前は周りの店でも花火を置くところがあったが、森田屋のようにバラ売りをする光景はすっかり見なくなった。
カタログを見ながらひとつひとつ吟味するのも在庫を管理するのも手間だが、夏の東町に彩りを添える大事な役目だと考えてやってきた。
「私もお祭り好きなもんだから、なにしろ盛り上げなきゃと思って(笑)。この前の祇園のときは、高野町交差点の駐車場とKOKYUさんの前の駐車場とでイベントをやっていたでしょう? うちが花火を売らなかったら、夜はその間の通りが真っ暗になっちゃうから、これは続けなきゃなと思って。今年はこの目で見て良いものを選ぼうと、主人と上田の問屋まで仕入れに行きましたよ」
お盆と祇園祭の時期には、花火を目当てに家族連れのお客さんが増える。昨年は洋子さんの娘と息子や弟夫婦などが仕事をやりくりして応援に来てくれ、なんとか乗り切ったそうだ。
店先で売るほかに、学校への売り込みにも力を入れてきた。
「夏は学校でキャンプに行くでしょう? そうすると夜に花火をするんです。だから『花火の注文承ります』っていう写真入りのチラシと注文書を主人に作ってもらって、いろんな学校に置いてきてもらって注文を取るの」
売れても大きく儲かるわけではないけれど、他の店がやらないことをやってきたと洋子さん。そんな地道な努力の積み重ねで地域との関係を築き、続いてきた店なのだ。
両親、叔母を見送り「私の役割は終わった」という気持ちに
両親の生活を守るためにお店を引き継いだ洋子さんだったが、両親が亡くなってからも「納品先のために」と続けてきた。町に文房具屋がもう一軒存在した時期もあったが、今は森田屋だけ。「ここで閉めたら町の人たちが困るんじゃないか」という、使命感があった。
お店を引退することを考えたのは、夫の体調不良がきっかけだ。
「体調を崩した時、主人は80歳になっていたの。70代のときはまだなんとも思わなかったんだけど、80歳となると、ずいぶん働かせてしまったなと思ってね……。人間ドックでは問題が見つからないんだけど、ずっとお腹の調子が悪くてずいぶん辛そうで、もういつまでも無理させちゃいけないなと」
もうひとつ、父が認知症になった頃に洋子さんに声をかけ、お店に戻るきっかけを与えてくれた叔父と叔母の存在もあった。
「ふたりがご存命のうちはお店が続いているのを見せなきゃ、という気持ちもあって。その叔母が、この間92歳で亡くなりました。そして千葉にいる叔父の方もだいぶ認知症が進んでいてね。だから、叔母が亡くなった時点で、私の役割は終わったなという気持ちもあるんです」
とはいえ、取引先になるべく迷惑をかけないよう、昨年の秋頃に各所に連絡を入れた上で少しずつ閉店の準備をするつもりだった。ところがお店を任せられる人に巡り合い、「やっぱり閉店しません」と再連絡をし、今は引き継ぎの最中だ。
なお、自身の子どもたちにお店を継いでほしいという気持ちは全くなかったという。
「私が子どもの頃は父も母も忙しくて家族で旅行なんて行けないし、お店屋さんなんて嫌だなと思ってサラリーマンと結婚したんです。それが今、お店の生活にどっぷりつかってしまっている。
主人も、6人兄弟姉妹の一番下で、東京の大学を出た頃に父親が亡くなって、兄弟から『お前が一番身軽だから帰れ』って言われて素直に地元に戻ってきたの。お互いそんな経験があったから、子どもたちには自分の人生を好きなように生きてほしいと思って育ててきたのよね。
遠くに住む3人の子どもたちは、お店のことを応援はしてくれていたけれど、自分たちが引き継ぐ気は全然ないみたい。最近はもう『ゆっくりして』っていう気持ちが強いらしくて『早く閉めて東京で一緒に暮らそう』と言ってくれる子もいてね。私はこっちがいいから、移るつもりはないんだけど」
お店にいたから再会できた友人も
若い頃は都会での生活に名残惜しさを感じながら家に戻り、お店を継いだのも親のためと、自分の希望ではない道を歩んできた洋子さんだが、「最後まで親の側にいて、看取ることができたのが良かった」と感じている。
また、自分が店にいることで続いている縁もある。団塊の世代の洋子さんが子どもの頃は、近所に同年代の遊び友だちがたくさんいた。やがて家族の都合で引っ越したり、嫁いだり、都会に出た子どもと同居したりで東町を離れた人も多いが、洋子さんに会いに森田屋を尋ねてくることがあるのだ。
「10年ほど前には、小学校5年生で転校してしまって以来のお友だちが『私のこと覚えてますか?』って尋ねてきたの。すごくびっくりしたんだけど嬉しくて、それ以来電話や手紙のやり取りを続けています。それから、千葉に行った同級生が『もう両親とも亡くなって、私には帰ってくるふるさとがなくなっちゃった』って言うから、『そんなことない。いつでも帰っておいで』って言ってね。それで、もう一人の友だちも誘って一緒に軽井沢に遊びに行ったりしたこともありました」
思えば、洋子さんと久男さんの住まいから森田屋まで、15分ほどで通える距離だったことも幸運だった。それまでの仕事の体験も含めて、人生にはすべて無駄はない、すべてがご縁でつながっていると、洋子さんは振り返る。
時間ができたら、今度は洋子さんの方が遠方の友人や親戚を訪ね歩きたいと考えている。加えて、自宅の片付けやガーデニングに力を入れたい、かつて夜に習っていた絵手紙を昼間に習いに行きたいという希望もあり、お店を引退しても忙しい日々が続きそうだ。
(執筆:やつづか えり 撮影:山口 絵里子)
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