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【対談#2】山本貴光×見田悠子 書物は人類を救う 『パピルスのなかの永遠』を読む

イレネ・バジェホ『パピルスのなかの永遠』の日本語版の刊行を記念して、NPO法人イスパニカ文化経済交流協会の主催で、2023年10月21日に開催したトークイベントの模様を2回に分けてお伝えしていきます。

*前回の記事はコチラ→【対談#1】


イベント当日の山本さん(左)と見田さん(右)

■声が文字になる時

見田 先ほどホメロスが話題に上がったので関連したお話を。バジェホは声の文化の豊潤さというのも十分わかっていて、声の文化から文字というものが生まれたその瞬間についてこう言っています。「その翼の生えた言葉の豊かさ、即興性、今目の前にいる人たちの心に届くように、その都度つくりかえられる可変性みたいなものがあるのに、文字にした瞬間にそれは死んでしまい、ピンで留められてしまい、精彩を欠いてしまう」と。ソクラテスやイエス・キリスト、仏陀も書かなかったという話も出てくるんですけど、にもかかわらず文字にしたことによって、ホメロスの詩篇もこうして人から人の手を伝って、現在に伝わたってきています。哲学者たちの言葉も弟子が書き留めたからこそ今読める。それまでの口承文化では既にある制度を守り、文化的な一体性をつくるために語られてきた。それが文字化された時に、読者が自分と文字という世界に入ることができ、自分で考えるという余地が生まれた。そこに批判精神だとか、今に繫がる民主政治だとか、本来歴史の中では少数派であった考えが力を持ってくる余地が生まれ、反逆者たちが生まれ、女性の声が残される余地が出てきた。そうしたことを語った面白くて重要な本はたくさんあるんですけど、バジェホの言葉で語られると、声から文字への変換のメリット、そして同時に失われたものの大きさ全部が素直に入ってくるという。その書き方がやはり秀逸で、『パピルスのなかの永遠』を起点にして、いろんな書物に意識がつながっていきます。それこそメディア論の書物も読みたくなるし、失われたギリシアの書物も探したくなるし、失われた女性たちの声も追及したくなります。

山本 この本全体を貫いているトピックスがいくつかあるという話をしましたが、一番大きいものの一つは「記憶」だと思うんですね。1万5千行もあるホメロスの詩行は、長いこと詩人たちが口で伝えてきたと言われるけれども、どういうふうに記憶していたのかという当然の謎がある。口承されてきた詩をある時代に、文字で書き写すわけですが、ヴァリエーションが生まれるわけですね。同じホメロスの『イリアス』といっても同じ場面について違うものが出てくるからです。
 これについてはバジェホさんも本の中で言及している面白い研究があります。ミルマン・パリーとジェームズ・ロードという研究者が、「ホメロスの叙事詩はあんなに長いのに、詩人たちはどうやって覚えていたんだろうか」という問いについて探究しています。ものすごい記憶力で覚える人や、ユダヤ教のラビにはタルムードが頭に入ってますという人がいるといいますが、ミルマン・パリーとジェームズ・ロードはそれとは別の仮説を立てるんです。彼らは、20世紀の旧ユーゴスラヴィアにいた、膨大な詩を覚えて朗誦する詩人たちを調べました。その詩人たちはどうやって詩を覚えて朗誦できるのか。結論を手短にいうと、彼らの朗誦は完全再生ではないというのです。詩の朗唱というと、つい覚えた文字列をそのまま再生すること、カラオケで歌うときに一字一句間違えずに歌うような状態を思い浮かべてしまうのですが、そうではなくて、おおまかなアウトラインは同じでありながら、細部は演じるたびに違っててもいいという発想なんですね。
 それにしてもなぜそんなことできるのか。これも彼らの仮説によれば、詩の中に記憶のフックがしかけてあって、そのフックを覚えておく。ある言葉がきたら、後ろにはこれがくるという組み合わせがあって、この組み合わせのパターンさえ頭に入っていれば、その都度それを自分で埋めていけばいい。そういうやり方をホメロスの長大な詩を歌っていた詩人たちも使っていたのではなかろうか、というわけです。そのとき手掛かりになるのが、「epithet」というもので、日本語では「形容辞」「添え名」と訳されますが、働きとしては「枕詞」みたいなものですね。この言葉がきたら後ろに何かがくるみたいな形容の言葉がホメロスにはいっぱいある。例えば「グラウコエース・アテネ」というと「目の輝くアテネ」という具合です。最初の言葉をスイッチのようにして続きがでてくるみたいな、そういう鍵を握るepithetみたいなものがあって、これがどうも詩人たちの記憶を支えている一つの仕掛けなんじゃないか、という見立てだったかと思います。
 現代の認知科学でも確認されていることですが、私たちの記憶は、自分でそうするつもりがなくても書き換わっていくものです。『脳はなぜ都合よく記憶するのか』という本が書かれてるくらいです。同じ文章をそのまま留めておくのは非常に難しくて、知らぬ間に記憶の中で変形していることもある。そうした私たち人間の仕組みも含めて、音声だけで朗誦していた時代には、朗誦するたび少しずつ違う言葉遣いになったかもしれない。それをなんらかの物質に文字で書くと、これは固定されるわけですよね。
 前半で触れたように、アレクサンドリア図書館に集った文献学者たちが、『イリアス』の本文を確定する作業をすることで、揺らぎが減らされた写本ができる。でも、その写本をまた手書きでコピーする中で、書き写しのミスが書き換えも生じる。これは写本の面白くも厄介なところですね。日本でも片桐洋一『平安文学の本文は動く』(和泉書院)というおもしろい本にそうした事情が記されていました。私たちの記憶と写本は、その辺が似ていて、一定させたいのに一定しないところがある。それが活版印刷になると、一旦固定すれば勝手に動いたりしなくなる。ちょっと長くなってしまって恐縮ですが、バジェホさんは『パピルスのなかの永遠』で、書物と記憶、記憶と人間の関係についておっしゃろうとしているように思ったのでした。

■本とコンピュータ

見田 さっきの記憶のフックがあるという話で、生成AIの翻訳に似てるなって思いました。それと、一つ前の話題の図書館とGoogleの対比のところに関連して、まさにそういう話も『パピルスのなかの永遠』で扱っていることも触れておきたいところです。まず、今のパソコンの発想自体が「Dynabook」という、ダイナミックなブックというのをイメージしたからこそ、家1軒くらいの大きさだったコンピュータが、今のラップトップみたいなものに繫がる道が開かれたというのが書かれています。また、インターネットのウェブの世界も、もちろん最初からすべての情報を包摂したいという気持ちがあったと思うんですけど、そこにやはりアレクサンドリア図書館と同じ、情報の氾濫という問題が発生するわけです。そこでウェブデザインに携わった人が何を参考にしたかというと、図書館で使われている識別子のシステムです。こうしてhttpのプロトコルを考え出された、というように、パソコンも本の子どもであるし、インターネットの世界というのも図書館の広がったもの、子孫なのかもしれない。

山本 まったくそうですよね。私たちはあまりそういうふうに考えなくなっているかもしれませんが、コンピュータの歴史を見ると明らかに本が元になっている部分がある。しばらく前に日本では『本とコンピュータ』という雑誌があったのをご記憶の方もいるかもしれません。今見田さんがお話しくださったように、アラン・ケイという人が「Dynabook」というものを考えた。それまではコンピュータといえば、部屋いっぱの巨大なメインフレームと呼ばれる大型のもので、IBMなどがそういうのをつくってたわけです。これはとても高いし、大きいし、扱いも難しいものだった。やがてこのコンピュータを個人が使える、そして小脇に抱えて持ち運べるようになるんだというのが、アラン・ケイが構想した未来です。面白いのは、そこで「book」「本」という名前を付けていることですよね。しかも、Dynabookだから中身がどんどん書き換わる本というイメージでしょうか。これはボルヘスがお好きな人だったら、「砂の本」という、開くたび違うページが目に入る本について書いた小説を連想するかもしれません。Dynabookは、紙で物理的に固定された本に対して、まさに開くたびに中身書き換わっていくような本のことですね。のちに東芝がdynabookという名前そのままのラップトップを出しました。コンピュータでは、しばしば本のメタファーが使われてきました。
 ウェブもその好例です。ウェブサイトには、「ホームぺージ」と呼ばれる、そのウェブサイト全体の大本となるトップページがありますね。あれは基本的にindex.htmlという名前をつけるというお約束がある。indexはどこから来てるかといえば、本の索引ですね。このウェブサイトは500ページからできていますが、インデックスページに行ってください。インデックスページに行けば、お探しのことが載っている他のページに飛ぶことができます。そもそも「ページ」という単位からして本をもとにしていますね。また、ウェブページの中身をどうやってつくるかというのも、活版印刷に始まって培われてきたタイポグラフィーのメタファーをそのまま使っています。コンピュータなんだから、コンピュータにしかできない仕組みを考えて使っていけばよさそうなところ、なぜかいまだに本と印刷物のメタファーを使いながらやりくりしてる。そういう意味でも、パソコンとウェブは本の末裔というバジェホさんの指摘はその通りだなと思います。

■物質としての本

見田 バジェホは、書店で一人ひとりに合った本を見つけ出すという営みを続けている書店員の人びと、それから書店ではもう売られていない本もずっと守りつづけてくれている図書館の司書の人たちも、本文中に何回も主要人物として登場させていて、感謝を伝えています。さっき山本さんが、X(旧Twitter)で復刊リクエストのつぶやきをしてほしいとおっしゃっていたのは、一人ひとりがこの本を読みたいと思ったり、好きだと思ったり、手に取ってみようと思ったりしたその瞬間に、その本が命を吹き返すんだということを思い出させます。誰の言葉か忘れましたが、「ページを開いてそこを読むまではただの物だ。だけど開くとそこには世界が広がっている」と。確かに、ブックデザインとかが素敵だから家の飾りとしてリビングに置こうとか、そういうのもよくアメリカンホームドラマとかだとありますよね。すごく素敵に本が並んでいて、読んだことあるんだろうかみたいな(笑)。そのような場合は一瞬目を走らせるだけだけど、ただのこの塊りを1日とか2日とかかけてずっと眺め続けているという行為もあり得て、この長い時間を共にするという行為そのものに既に人間と文字というか人間と本というか、その絆が現れているような気がします。図書館の司書さんが今まで手に取られていない本を、ちょっと目立つところに飾ってみるとか、さっき山本さんがされたように、ちょっとこの本読んでみてと薦めること。そうしたことについて、例えばバジェホはこう書いています。

〔図書館の司書さんたちが訪れる人に〕助言し、勇気づけ、催事をたくらみ、読者の視線が、ときには一年を通して棚に積まれている本の眠り込んだ言葉の目を覚ますための言い訳を作り出す。このあまりに日常的な行為が奥底では―ラザロ、出てきなさい〔イエスによるラザロの復活〕―世界の復活なのである。

(『パピルスのなかの永遠』180頁)

現在はあらゆるところに文字が溢れているけど、いまだに文盲の人がたくさんいるということも語っています。そうしたエピソードからも翻って、あまりに日常的な存在である文字が人間にどれほど大きな影響を与え、共に生きている人間を奇妙な生物につくりかえているかが分かります。

山本 古代の本について書かれたこの本が、なぜ今世界中で100万部も売れて読まれているのか、ちょっと不思議な気もします。インターネットと電子書籍が普及し始めたころに、ジャン゠クロード・カリエールとウンベルト・エーコが、『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』(工藤妙子訳、CCCメディアハウス)という本で対談していました。彼らはどちらもたいそうブッキッシュな人たちですから、滅びるわけはないだろうというのが結論だったかと思います。また、現に紙の本は滅びていないわけですね。完全に電子書籍に置き換えられていないことについては、いろんな原因があると思います。なぜなのかというのは考えてみてもいいと思うのです。
 これについては音楽の場合と比べると分かりやすくなるでしょうか。かつてレコードで音楽が使われていたところに、CDが現れて、かなりの割合でCDに置きかえられた。このままCDの春がずっと続くかと思ったら、やがてインターネットを通じて音楽データを配信するストリーミングに置き換えられて、CDがなくても音楽を聴けるようになった。音楽の場合は、聴ければメディアは何でもよろしいということになって、置き換えられがちです。本の場合はどうか。
 ネットとスマートフォンが大いに普及して、液晶ディスプレイ上のデジタルデータのやりとりでいろんなことが便利になった半面、物と私たちの関係をもう一度考えるところに来ている気がしています。インターネットにデータが溢れかえっていて、好きなだけ電子データで読むこともできる。そんな環境でどうして紙の本を使うのか。見田さんがおっしゃったように、普段これらの本は部屋のどこかに置かれているわけですね。モノとしての本のもつ働きについて、永田希さんが『積読こそが完全な読書術である』(イースト・プレス)で指摘していることがヒントになります。今は放っておいても次から次へと読むべきもの、観るべきもの、聴くべきものが積み上がっていく状態です。アプリにせよデータにせよ、大袈裟でなく文字通り時々刻々と更新されていく。その結果、私たちにはまったく把握できないほどのコンテンツが山ほど積まれる。永田さんはそれを「情報の濁流」と呼んでいます。では、情報の濁流のなかで溺れて流されないように生きるにはどうしたらいいか。自分のための情報のビオトープをつくろうというのですね。ビオトープとは、小さな生態系のようなものです。
 自分の周りに自分でコントロールできるビオトープをつくる。そうでもしないと、次から次へと現れる新しいものが濁流となって流れ込み、流されていくだけになってしまう。そんな中で、たとえ小さくてもいいから、自分なりに選んだ本を自分で並べる。音楽を並べる。というふうにして、ビオトープをつくるということを永田さんは勧めていて、私もそれはとても大事なことだと思います。
 そうしたビオトープをつくろうという場合、人間の身の丈に合っているのは、物質なんですね。デジタルでも自分なりの環境をつくって整理すればよいわけですが、本の場合でいえばモノとしての本とデジタルデータとは決定的に違うところがある。コンピュータは、電源を入れて、アプリを立ち上げて、検索して、選んだものをタップして、ようやく開いて中が見える。そうするまでこの本がここに存在しているということを、私はまったく思い出せないし認識もできない。翻ってみれば、当り前すぎて誰も気にしてこなかったけれど、物としての本はそこにあるだけで目に入る。いつも暮している場所であれば、放っておいても目に入る。繰り返し見るうちに、そうした書棚や本たちは記憶の中にもマッピングされる。物が目の前にある効能ってそういうところにあると思うんです。
 また、今日ここに持ってきた本たちも、普段は書棚で眠っているわけです。今回見田さんとこのバジェホさんの本についておしゃべりしようというつもりで書棚に並ぶ背表紙を眺めると、「そうそうこれあったよね」「この本も並べたくなるよね」と向こうから目に飛び込んでくるのですね。そうすることでこれらの本が息を吹き返す。今読んでくださった箇所のようなこと、「世界の復活」が起こる。物としての本は、そういうことをしやすい存在だと思います。

見田 今ちょうど書物の背のことに言及してくださったのですが、巻物が冊子本になったという画期的な歴史について、それがどんな状態だったのか、どんな材質でできたのかっていう本についてのマテリアルな部分も『パピルスのなかの永遠』にはしっかりと書かれています。
 マリオ・バルガス゠リョサが、「今日の読者が来世にあるときもなお、この本は読み継がれゆくだろうという、絶対的な確信がある」とこの本を評価しています。

この本特有の魅力は、文体にある。バジェホは学術的な文体を切り捨てる、もしくは解放するという賢い選択をした

(『パピルスのなかの永遠』491-492頁)

バジェホは学術論文の中身のデータというものをきちんと残したまま文体を解放し、物語を語るように魅力的に提示してきたということです。そのことについてバジェホ自身は、モンテーニュの『エセー』ように古典への愛を思うままに発露しながら、語り口は『千夜一夜物語』に出てくるシェヘラザードのようにしたかったと言っています。伝えたいことを伝えるために最適なエピソードを選び、全体の構成も語り口もすごく意識的に組み立てて、それでいながら心から自然に発露した愛の物語みたいな本をつくりあげたというのは、ものすごい力量の持主だと思います。

■限りある人生でなにを読むべきか

見田 これは誰かを傷つけるようなことはないというような優しい本で、著者自身もものすごく丁寧で優しい方なんですけれども、実は辛辣なユーモアを発露させるところがたびたびあります。ユーモアとかパラドックスとかそういうのが大好きだとバジェホ自身も言っています。例えば、本がたくさん出版されているということを表現するときもこう書いています。

マラルメは一九世紀に「肉体は悲しい、あぁ、私はすべての本を読んでしまった」と書いた。おそらくこの詩人は、飽和し、やつれた生活の退屈さに言及しているのだろう。しかし、アマゾンとキンドルの時代においてこの言葉は皮肉なことに、すべての書物を踏破するという野望は最高に狂った愛書家の不可能な夢でしかないことを思い起こさせる。人類は三〇秒に一冊、本を出版している。二〇ユーロの値段と二センチの厚さと想定すると、一年に二〇〇〇万ユーロと二〇キロメートルの書棚がマラルメの書庫には必要となる。

(『パピルスのなかの永遠』184頁)

このデータの使用とその表現の仕方のうまさが、この本をみんなが常に面白いと思いながら読み進められるスパイスの部分だと思います。

山本 本当にそうですね。レトリックも含めて最高にキマっている一節をご紹介いただきました。「マラルメ先生、馬鹿なことを言って」と文句の一つも言いたくなりそうなところ、「マラルメさんはこう言ってますけど、今はこうですね」と並べることで、マラルメの時代と現在とが互いに照らしあって、一方だけを見ていると気づかないものが浮かび上がって見えてくる。『パピルスのなかの永遠』の至るところでこうした対照が効いていて、バジェホさんは古代のことと現代のことをひょっと並べてみせるのですよね。その結果、読者は現代の馴染みのあるものを手がかりとして、古代のものへと興味が惹かれるというわけでした。最後に改めて本書の魅力を教えていただきました。本日はありがとうございました。

*これまでの記事コチラ→【対談#1】

【プロフィール】
見田悠子(みた・ゆうこ)
ラテンアメリカ文学研究者、大学講師。専門はガルシア゠マルケス。論文・論考に、「黄金郷の孤独」(『れにくさ』現代文芸論研究室、2013)、「いくつもの世界のひしめく文学」(『ユリイカ』青土社、2014)、「『眠れる美女』以後のガルシア゠マルケス」(『〈転生〉する川端康成』文学通信、2022)ほか。訳書に、ジョシュ『バイクとユニコーン』(東宣出版)、サマンタ・シュウェブリン『七つのからっぽな家』(河出書房新社)ほかがある。
山本貴光(やまもと・たかみつ)
文筆家、ゲーム作家、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。1971年生まれ。主な著書に『コンピュータのひみつ』(朝日出版社)、『文体の科学』(新潮社)、『「百学連環」を読む』(三省堂)、『文学問題(F+f)+』(幻戯書房)、『マルジナリアでつかまえて』(本の雑誌社)、『記憶のデザイン』(筑摩書房)、『世界を変えた書物』(小学館)、『文学のエコロジー』(講談社)のほか、共著も多数。