【対談#2】藤田直哉×杉田俊介 2022年は、弱者男性やインセルの年だった?――『エヴ・エヴ』『別れる決心』ディズニー作品から考える「新しい男らしさ」
映画や文学の背景にある現在の政治・社会問題や文化批評における「男性性」などを気鋭の二人の批評家が深堀り!
アニメ/映画を含むサブカル・エンタメを、さらに楽しむための本格批評対談を2回に分けてお伝えします。今回は第2回目【後半】を公開いたします。
*前回までの記事はコチラ→【対談1】
■男性の欲望と生成変化――ギレルモ・デル・トロ作品
藤田 韓国映画における女性の描き方は、伝統的に「可哀想な女性」として描く傾向があります。そして、そのように描いてきたことが、現在のフェミニズムにも影響しているだろうと想像されます。『別れる決心』のファムファタールの描き方は、それらの韓国映画における女性表象に対する批評であり、同時に被害者ナショナリズムや、被害者性を軸にした社会運動みたいなものに対する批評として機能しているのだろうけど、その真意が最終的に読み取れないように敢えて作っていますよね。多分、直接言葉で問題提起したら相当な反応が起こることを、隠喩やアレゴリーで語っていますよね。
杉田 『お嬢さん』の方は映画のスケールとしては大きいんだけど、『別れの決心』は構造的に小粒なのに、作品としては「謎」だなという印象です。僕は嫌いではありません。
藤田 享楽を許されるのはゲイやレズビアンだけで、一般の男性には許されないという問題があるとジジェクが言ってました。確かに、千葉雅也さんがTwitterで性的な経験を書いても問題にならないけど、普通の男性の研究者や批評家が実名で風俗の話を書いたり、ゆきずりの女性と性行為した話などを書いたら、やっぱり問題になると思うんですよね。そこもマジョリティ男性の鬱屈や不満の原因の一つで、だからこそ『別れる決心』の主人公のように、倫理や職務や家庭の義務から逸脱した世界の外に出る以外に、性愛の欲求を満たす方法がない、という領域に追い詰められていく部分もあるかもしれないですね。
杉田 男性の欲望問題の政治性はとても重要だと思います。それで言うと、『アナと雪の女王2』を映画館で観た時に結構衝撃を受けました。姉のエルサはスピリチュアルフェミニストに、妹のアナはエコフェミニストに覚醒する。そしてアナは自分たちの国が民主的だと信じていたけれど、じつはその根源に植民地主義的な暴力性があると気付いて、隠された真理を暴くために、いわばエコテロリズム的にダムを破壊して、国全体を水没させようとする。たまたまエルサが守らなければ国民は全滅していたかもしれない。『マレフィセント2』も、超越的なグレートマザーが強引にすべてを解決するという話で、近年のディズニー作品では、こんなに女性性や母性が暴走していいのか、と不安に感じたんです。
けれども次第に、それらはたんなるリベラルフェミニズムやセレブ(ネオリベ)フェミニズムを逸脱して、エコテロリズムや霊性の次元に突き抜けていくからこそ、問題提起的で面白いのではないか、と思い始めた。
それに対して、男性たちはいまいちパッとしません。『アナ雪2』のクリストフや『シュガー・ラッシュ:オンライン』のラルフは、女性にとって都合のいい男、善良で無害で、しゃしゃり出ない男に去勢されている。それに対して実写の『シンデレラ』『美女と野獣』『アラジン』等はなかなかユニークな男性性を描いています。アラジンやキット王子は、「王子的な役割と葛藤しつつ自己変革的であろうとする男性主体」です。しかしそれもやっぱりどこか物足りない。男性から有害で有毒な面をできるだけ削り取っていくという、撤退戦のように感じます。
その中では、ピクサーの『バズ・ライトイヤー』は、なかなか身に染みる映画でした。これもある種のマルチバースものであり、虚無との戦いなんですよね。序盤、「与えられた任務に命をかけるという、男らしく意味のある生き方」の呪縛から逃れられないバズの空回り、成熟の不可能性が描かれます。多様化していく世界、地に足をつけた周囲の人々の変化と進歩から、バズの生き方は残酷なほど置き去りにされていく。親友を喪って、家族もいず、友人もいず(唯一ケアロボット=猫型ロボットはいますが)、仕事=任務にすがるしか生きる目的がなく、しかしその「この星から脱出する」という目的自体も今や誰も必要としていない……かつての「意味ある男性性」が「有害な男性性」ではないが「無意味な男性性」に転落してしまった。そういう悲哀です。
しかしバズは、人生のミッションが無意味になったことに耐えうようとするし、失敗の積み重ねと、そこで出会えた(英雄でも何でもない)人たちとの関係の中に、「新たな故郷=無限の彼方」を見出していく。何よりもバズを「男」の呪縛から解放してくれたのが、非能力主義的な「使えない」部下たちであり、新人たちとの協働だったという点が重要でしょう。それは中間管理職の悲哀、的なものでもない。バズは「使えない」新人たちとの関係を通して、彼自身が学生時代は成績が悪く、失敗ばかりで、レンジャーの資質ゼロだったことを思い出します。バズ自身も永遠の新人=未熟者なのであり、新人同士のアソシエーションを新たに組み直す。『バズ・ライトイヤー』は最初期から「男らしくない男たち」の内的葛藤を描いてきたピクサーらしい作と言えます。
とはいえ、これもまた、消極的な「脱男性特権」「有害な男らしさの学び捨て」という消極的な男性像の重力圏から、十分な形で逃れられてはいません。もっと先を目指していいのではないか。リベラルで非暴力的な男性になる、「まっとう」な男性を目指す、というのではもう足りない。女性や性的マイノリティたちの政治的ラディカリズムに追いつけていない。気候危機や資本主義やエイブリズムなどに対抗していくためには、消極的な「脱男性特権」や「まっとうさ」だけではなく、何らかのアクティヴな、政治神学的な、超越的欲望の次元が男性たちにも必要なのではないか。ダニエルズの映画、あるいは『RRR』などには、消極的撤退戦ではない能動的な欲望を感じもしたのですが……。
それでいえば最近、ギレルモ・デル・トロの映画が男性学的にも面白いと思っています。『ギレルモ・デル・トロのピノッキオ』がアカデミー賞長編アニメ映画賞を獲りましたね。デル・トロは、フェミニズム的な問いを受け止めつつ、オタク的な弱者男性たちの胎内から、怪物的な欲望やセクシュアリティが生まれ出る、という光景を何度も描いています。どうせ有害で有毒で、リベラルにもまっとうにもなれないなら、いっそ男は怪物になればいいじゃない、というか。マゾヒズム的な欲望の果てに、男性の胎内からクトゥルフ的で暗黒啓蒙的な怪物が自らを突き破るようにして出現する。
たとえば『ナイトメア・アリー』は、「クトゥルフ的わたくし映画」のような作品です。主人公の詐欺師は、映画監督という職業のメタファーであり、デル・トロには、インポスター症候群的な感覚がたぶんあるのでしょう。ラストがすごい。これしかない、という感じです。他人を騙し続けて成功していきますが、人生のどん詰まりで、自分が絶対にこうなりたくないと感じていたホームレス未満の見世物の「獣人」になってしまって、最後にI was bone for it!(そいつは俺の天職ですよ!)と言うんですね。それをホルマリン漬けの一つ目の胎児のような、クトゥルフ的な神が見つめている。このラストは、普通に考えれば、作中の予言通りの、最悪な、胸糞の悪い、最低な鬱エンドなんだけど、それこそがデルトロ的な男性にとって最高の享楽であり、純粋な幸福なのではないか。この場面を、この最後のたった一言を、その表情を描きたかったんだと。
あるいは昨年、ネットフリックスで『ギレルモ・デル・トロの驚異の部屋』という八話のシリーズが公開されました。デル・トロが監督ではないんですが、これもすごくよかった。ある程度共通するテーマがあって、それはたんなる因果応報譚ではなく、社会から転落してクズやオタクになった人々が、いったんモノ化=死体化されて身動き不能な状態に閉じ込められることを経て、最後にはクトゥルフ的な邪神に肉体を乗っ取られ内側から喰い破られて消滅する、そこにマゾヒズムやタナトスをも凌駕するような究極の享楽を得る……という感じです。
フェミニズム的なものに対するスタンスも捩れています。4話と8話は明らかに対になっています。大雑把に言うと、どちらも「心を病んで狂気に陥ったオタク的専門性をもつフェミニスト女性」と「その妻を必死にケアし、肯定し、寄りそおうとする無限に優しい夫」の夫婦の物語なんですね。それは一方では「妻に対して優しく無限にケア的であろうとする夫ですら、女性の真実の苦痛は絶対に理解しえない」という女性の自由を追求した物語にもみえるし、他方では「フェミニスト的でオタク的な心を病んだ女性は、夫がどんなに献身し、ケアしても、夫をひたすら否定し、罵倒し、男を非難し続ける怪物的で自分勝手な存在である」というような物語にも見える。それが決定不能なのです。
そして『驚異の部屋』においては、男性は女性から責められ、邪神としての女性に身体を内側から食われて、別のノンヒューマンな怪物的な何かに生成変化することが究極の恐怖でもあるし享楽でもあるという光景が描かれます。たとえば4話では、男は妻によって殺され、内臓を抜かれ、剝製にされてしまって、妻はそれでも剥製の夫と夫婦生活を続けます。『驚異の部屋』は捩れたポリティカルコズミックホラーであり、男性の欲望の怪物的な生成変化の予兆を描いているように感じました。
藤田 デル・トロは面白い監督ですよね。オタクは弱者男性やインセルになりがちな傾向があると思われていますが、デル・トロはオタク的気質を持ちながらあくまでフェミニズムの映画を撮っています。仰る通り、『ナイトメア・アリー』は、主人公の男が虚勢を張って男らしくなり社会的成功を目指す、そのためにサーカス等で人を騙すわけですが、それは作中でナチスに例えられている。その結果酷いことになる。「男らしさ」にこだわって自己啓発的に頑張ってポジティブにやれば地獄に堕ちるというメッセージですよね。彼らのそうなってしまう哀しさを書いている点は重要ですが。
その前の、ベネチア映画祭の金獅子賞を獲った『シェイプ・オブ・ウォーター』も、主人公は喋れない女性で掃除婦、黒人たちと仲が良く、社会的下層で障害を持っているというインターセクショナルな視点のある映画でした。彼女が働く研究所で、連れて来られた怪物を研究者や軍人が虐めるのから助ける。つまり科学、男性、軍人と対抗して女性は怪物を救う。マスターベーションの描写もあり、主人公は非モテ女性です。彼女がその怪物とセックスをするし、享楽も得るシーンもしっかり描く。最終的には、その女性は怪物と同じ種族であることが分かり、「本来の自分」に戻っていくという話なんですが、これはマイノリティの寓話ですよね。マイノリティの中にはオタクや非モテも含むというか、それらと様々なマイノリティを重ね合わせることで共感と連帯の回路を作ろうとする映画でしょうね。
デル・トロは怪獣が好きなんですが、怪獣、怪人、フランケンシュタイン的なものは、これまで社会から疎外される人たちのメタファーとして描かれてきました。彼はメキシコ生まれなので、当然、移民に対する感受性も高い。怪物と障害を持った下層の女性がくっつき、本来の自分に戻る、それによって性的な満足を得る、という結末の映画は、いわゆる女性に責められることを喜ぶマゾヒズムではないし、自己の中にある獣性としての怪物性を肯定するような感じではないと思います。でも、他者と共有していないような、逸脱的な欲望の部分のメタファーとして怪物性を読むこともできますね。それとどう「付き合うか」が彼の近作の主題なのかなと。
「享楽」の話に戻ると、それはロリコンの人たちが、自分たちも性的マイノリティとして扱え、性的な満足を得させろ、と主張していることと似ていますよね。『別れる決心』のように暴力や殺人のある環境ではないと享楽を得られない人もいるわけですよね。それをどうするかが問題なわけですが、繰り返しになりますが、「享楽」、つまり自分の満足や快楽のために次世代や他者や女性を犠牲にする生き方そのものが批判されているわけで、「我慢しろ」「その欲望のあり方を矯めろ」ってことなんだと思うんですよね。ラカン派の精神分析学者が言うには、享楽よりも快適さを求める志向が高まっているようで、社会全体としてはそれを「矯める」方向に行っているし、実際に人間にはそれがある程度可能なのかもしれません。
杉田 もっとそこを突き詰めることが今は大事なんじゃないかな。去勢され矯正されるばかりではなく、自分の中の欲望の特異性やモンスターに向き合え、ということ。『スイス・アーミー・マン』もそういう作品かもしれない。最初に触れた『セックスする権利』では、交差的多様性の時代の中で欲望の政治性をもう一度ラディカルに問い直そうとしていた。そういう実験が今の男性たちには大事なのかなと。
藤田 そもそも、男性の欲望は元々去勢されている、という性質があるのではないかとも思うのです。逆の言い方をすると、男性の欲望は、満たそうとすると、他者との関係性において有害で搾取的になりがちな傾向があるのかもしれません。女性をモノ扱いしたいとか、性奴隷にしたいとか、3Pをしたいとか、凌辱ものに興奮するとか、支配や羞恥に快楽を感じるとかが、ポルノなどを見ていると男性の欲望にあるのだと推測されますが、それはなかなか現実の社会や他者とのフェアな関係性の中で満たすのが難しいものです。だから、金銭を支払ったりして帳尻を合わせて関係性を作ってきたり、フィクションの中で満足させたりしてきたのだと思うんですよ。遊郭とか風俗とかを見ていても、それが女性に対する不当な搾取や貧困の利用などで、強い心身へのダメージを与えていることも明らかなわけですよね。十全に欲望を満たすことがそうなりがちであるという条件がまずあり、その上で、際限が無いという性質があるのではないかと思うんですよ。タブーを犯すこと自体の快ってありますが、しかしそれは最初の一回だけが強くて、次からはもっと過激にしなくてはならない。自分の思うように「モノ」扱いできる女性を一人見つけても、もっと別な人も……となっていく。実際、昔の天皇は気に入った女性をたくさん集めていたと『古事記』に書いてあるし、中国やヨーロッパの権力者が性欲を満たすために大量の人命を奪った例も枚挙に暇がありません。フロイトの「モーセと一神教」的に言えば、そのような「父」が女性を独占していることに、子どもたちは怒り、父を殺害するわけです。つまり、「父」のように欲望を全的に満たす状態を互いに禁じ合う世界に入っていく。恣に欲望を満たせる「王」的な存在への憧れは、今でも男性が権力や出世を目指し資本主義などを駆動させる裏に働いているのだろうと思いますし、日本で風俗などが権力・資本主義と密接に結びついて機能している部分なのだと思います。しかし、それ自体が問われている、ということなのでしょう。かつてのヨーロッパの貴族が他者の生命や人生を犠牲にして欲望を満たしていたことを矯めたように、現代の我々も倫理的に向上し欲望を矯め、決してこの世では満たすことのできない欲望があることへの断念をうまく受容しないといけないのではないでしょうか。幻想の中に存在する、神話的な時代の「王」のような「父」と比較したら、常に不全感と不満があるに決まっているのですから。
■人肉食と男「らしさ」――『BEASTARS』
藤田 男性の欲望の次元を「矯める」ことを主題にしているマンガで面白かったのが、板垣巴留『BEASTARS』です。明らかに『ズートピア』への返歌ですね。主人公は男性で肉食獣なんだけれど禁欲的で、ヒロインは女性で草食獣で小さい兎なんだけれど性的にアクティヴ。いわゆる「肉食」と「草食」を逆転させるユーモアですよね。肉食獣の男が禁欲して新しい男性になろうとする話なんですが、それがいかに辛いことかが主題です。作品の後半に裏市というものが出てきます。肉食獣は裏で死んだ草食獣の肉を喰って、日常で草食動物を食うのを我慢している。それは性風俗や売買春のメタファーだと思いますが、そのことをどう受け止めるのかという葛藤が出てきます。先ほど話したような破壊、暴力、逸脱みたいなものがなければ幸福になれない男性(肉食獣)もいる、けど、結論は、結局、その裏市をなくすということになります。ここにある葛藤は、欲望の苦しさから逃れて幸福になるためにこの社会の中で普通には認められない欲望を満たす必要があるかもしれない、しかしそこで生命すら犠牲になっている存在がいる、さあどうする? ということですよね。犠牲になっているのは、貧しい子どもたちや、脆弱な立場にある弱者たちです。それでも欲望を満たし享楽を求めますか、ということが問われる作品として、『BEASTARS』は大変面白い作品だったと思います。これに男性としてどう応えるのかが重要なのかなと。
杉田 そういえば最近、フェミニズムと人肉食を主題にした映画がいくつかありましたね。肉食と家父長制、あるいは肉食資本主義については考えてみたいと思いつつ、今はまだ動物倫理について生活実践を含めた答えが出ていないので、『BEASTARS』についても中々うまく語れません。
ただ、肉食と男性の性欲・恋愛欲がつねに絡み合っていますよね。男性が他者に欲望を抱くこと自体が、他者を殺害し肉を食べることと切り離せないなら、そもそも他者を愛するとはどういうことか。主人公のレゴシが自らの欲望の暴力性にひたすら葛藤して、自らの身体を不可逆的に欠損していく。傷ついて欠損していく身体を通して、自らの男性性を問い直していくという意味では、メンズリブ的にも重要な作品です。ただ、やはりまだ論じる準備が出来ていません。今後の課題とさせて下さい。
■激論『RRR』は何で熱くなるのか?
藤田 先ほど仰っていた『RRR』ですが、正直に言うと、僕はみんなが言うほど面白くは感じなかったんです。神話的映像や男たちの活躍が視覚的に面白く、気分が上がるというのは分かるのですが、白人女性にモテモテになるダンスシーンとかがちょっと痛くて見てられなかった。植民地の男が躍ったら貴族的な女性が好きになってくれるというのは、コンプレックスの裏返しであって、その衒いのない「白人の上流階級にモテたい」という欲望それ自体が内なる植民地化を克服できていない証拠のように見えてしまいました。それから、敵が悪く描かれ過ぎているのが幼稚だと感じます。敵の単純化、自己の美化、構造の単純化があり、その単純さゆえで分かりやすくてスカッとするんですが、しかし現実の歴史や政治を扱ったものというのは、もう少し複雑な陰影がないといけないと思います。本作が受けるのも分かって、そこには、SNSでの通俗ラディカルデモクラシー的な「敵味方」がはっきりした社会観がありますからね。しかし、まさにそれこそが現代の問題である以上、僕はこの映画を受け容れることが出来ない。果たしてインドのナショナリズムは良いのか、歴史や過去の美化はいいのか、という問題が、『永遠の0』などに私たちが問うてきたように、当然問われなければいけない。「植民地化された犠牲者」であるインドが反撃しているという権力勾配は確かにあるにせよ、権力勾配を口実にすることで現代的な洗練を回避したり無責任や暴力性を自身に免責するタイプの作品群にも見えて、ちょっとそこが気になってしまいました。前作『バーフバリ』は凄い好きでしたし、映像表現としては新しいし、インド作品が世界的に評価されるのは良いことですが、現実の歴史や政治を参照したエンターテインメントとしては、水準が低いと言わざるを得ないと思います。
杉田 そうですか。なるほど。僕は、感情的で情動的な面からいうと、最近の映画では『RRR』から圧倒的な喜びを感じました。めちゃくちゃブチあがった。有名なパーティ会場でのナートゥダンスのシーンもだけど、少数民族のビームの、鞭打ちの痛みに耐える身体が神々の歌になり、大衆蜂起となって伝播していくシーンも特に好きでした。革命についての総合芸術的な神話を目指そうとしている感じがした。
しかしかつての戦争の帝国主義の侵略側で、近代的な「下」からの市民革命の経験も経てこなかった日本の僕らが、今、『RRR』を観てブチあがるとはどういうことか。そこは捩れた感情も当然あります。ハリウッド的資本への回収と消費、あるいはインドの革命史の歴史修正とナショナリズムをめぐる諸論争もあるとは聞いていましたが、はるかその手前の手前で、そもそもブチあがる資格のありそうにない日本民衆としてのこの身体のことを考えていました。日本文化がそれを描こうとすると、押井守と二・二六事件みたいな、悲観的な屈折した情動に頼らざるを得ないのでしょうか。
藤田 日本的な情念の描き方の類型のようなものがあるのでしょうね。歌舞伎でも、ヤクザ映画でも、怒りが爆発するのは、我慢して我慢して、耐えて耐えた後で……。
杉田 最近の『ゴールデンカムイ』『忍者と極道』『ハイパーインフレーション』『淫獄団地』などのマンガ作品には、バカバカしさ、下品さ、くだらなさ等の先に宿る(冷笑とは全く異なる)人間賛歌の熱さがあって、それは何か重要な時代感覚のようなものがある気はします。少年マンガ的なものと政治的な情動やクィア性を両立させうる可能性がその辺りにあるのかな。どうだろう。
『RRR』のラージュとビームについても、ホモソーシャルというよりホモセクシュアルな友情に近い感じがあるし、あのガチッとむちっとした身体が現在の規範的基準を攪乱するような、ある種のユーモラスなカッコよさになっていませんか。少年マンガにこだわれば、『キン肉マン』や『魁‼男塾』のバカバカしいカッコよさに近いというか。
藤田 植民地の問題は描かれていても、カーストの問題は出てこなかったり、障碍者は出てこなかったり、ある部分は無視しているわけですよね。そこには、『すずめの戸締まり』に大して杉田さんが指摘されたのと同じ問題があります。現実を扱ったエンターテインメントが、社会のいろいろなものを捨象している問題はあるんじゃないですか。そこは、インターセクショナリティにこだわってきたこれまでの議論からすると、批判しなくてはいけないのではないかと思うわけです。
杉田 確かにそうですね。前回の対談で僕は『すずめの戸締まり』には違和感を述べたのに、なぜインド映画の『RRR』だと全肯定に振り切れてしまうのか。
――後発国というか、発展途上から成長する国へのような「坂の上の雲」みたいなエネルギーなんだなあ~的、エンタメとして単純に思いましたが。
杉田 感情や情動のレベルでいえば、最近観た映画の中で圧倒的な喜びを与えてくれたのはダントツに『RRR』なんですが、自分の身体が何を喜んでいるのか、それは政治神学的な喜びとして肯定してよいものなのか、よくわかりません。自分の中の矛盾は感じますね。積み残しの課題です。
藤田 あれだけ人がいてワサワサしてムキムキしている映画って、エイゼンシュタインの『戦艦ポチョムキン』とか、昭和の日本映画はそうですよね。でも日本は『ドライブ・マイ・カー』のような、人も少なく動きも少ないという方向に行ってます。高度成長や昭和の頃のような、人と人の距離が少なくて、集団でワーワーしていたような生命の沸騰していた時代で、集団的な情動と一体化したいという気持ちは分からないでもないですが、しかし「男らしさ」「おじさん」批判の中にあるのは、こういう「昭和」的な感覚批判ですよね。『ドライブ・マイ・カー』は、それに対して令和的な?感覚なのかな。ここには人間同士のあり方をどのようにするべきか、という、結構重要な論点がある気がします。
■スピルバーグは究極の反資本主義か?――『フェイブルマンズ』
杉田 最後にスティーヴン・スピルバーグの自伝的作品『フェイブルマンズ』を取り上げましょう。まず素朴な事実として『エヴ・エヴ』と『フェイブルマンズ』は、作風は違えど、構造的に似ている面があります。『エヴ・エヴ』ほどではないにせよ、『フェイブルマンズ』も交差的多様性が前提で、主人公サミーは、ユダヤ人で体が小さく、高校ではいじめと差別を受けます。現実と虚構が入り乱れていく、というポストモダンでポストトゥルースな主題を扱ってもいます。
母親の立場が結構似ているんですね。『エヴ・エヴ』のミシェル・ヨーも『フェイブルマンズ』のミシェル・ウィリアムズも、家族のために芸術家の道を諦め、優しい夫に不満を持ち、暮らしの空虚さに耐えているけれど、子どもの破壊的な力によって、自分の内なる秘密の欲望を自覚します。ただし、二人が進んだ道は全く別物でした。『エヴ・エヴ』は母親が娘を救って家族を再結合させますが、『フェイブルマンズ』では息子が映画を通して象徴的母殺しを行って、家族を根本的に破壊し分裂させる。その点では『フェイブルマンズ』は『エヴ・エヴ』の家族啓発的な最善説とは異なります。
サミーにとって映画はユダヤ人差別やイジメに対抗する力ですが、同時に他者を破壊し、象徴的に殺害する力でもある。宿命や運命というよりも、ベンヤミンのいう摂理的な暴力のようです。事実、サミーの映画という象徴的で摂理的な暴力が加害的なのか恩寵的なのか、最後までよくわかりません。家族は分裂したけど母親は真実の愛に覚醒したとも言えるし、父親も別れによって「終わらない愛」をこれから生きるんだ、と最後に言う。二人はあるべき愛の形にたどり着いたのかもしれない。たぶん、これからの未来の文化を考える上では『エヴ・エヴ』が大事なのでしょうが、個人的に心を強く揺すぶられたのは『フェイブルマンズ』の方でした。
藤田 『フェイブルマンズ』を「新しい男性像」の観点から話すとすると、スピルバーグの自伝が投影された主人公は弱い、いわゆる「負け組」と言えるかもしれません(でも、西海岸に引っ越すまでは学校でも人気者で仲良くやっていたと思うので、単純にそうとも思えないのですが)。彼には映画の才能がある。その才能を育てているのは父親と母親で、両者の遺伝的要素もある。主人公は弱いけれど、芸術的才能で、そのクラスの権力者=リア充を非常に美しく描いて、そのことによって彼を動揺させ味方にしてしまう。その美しさに恋人は陶酔し、リア充は幸福になるけれど、主人公はフラれどんどん孤独になっていく。他のエピソードとして、母親を鬱から救うために母親を記録して映画を作ったら、そのフィルムは不倫の欲望を捉えてしまい、主人公も秘密を抱え家族との間に亀裂ができる。『エヴ・エヴ』の場合、フィクションを経由することで家族に帰ってきたけれど、『フェイブルマンズ』はフィクションに取り付かれ、才能を得たことが家族を破壊していく。『フェイブルマンズ』は母親が不倫相手と行ってしまう。『別れる理由』では真面目な理系の妻と暮らす夫が抑鬱状態になったけど、『フェイブルマンズ』では逆ですね。母親が自身の幸福と享楽を求めた結果、家庭が維持できなくなってしまう。父親は科学者で才能がありコンピュータか何かの発明をする、母親もピアニスト、富裕層で、転校してユダヤ人であることをいじめられることと、離婚以外は、割と幸福な子ども時代を過ごしていますよね。そして映画という魔的な力に憑りつかれた者の悲喜劇が起きる。映像を通じて人の気持ちを上げたり、美しいイメージをもたらしたり――ナチスドイツの国策映画とか、プロパガンダとか、政治家を美化することとかそういうことの隠喩だと思いますが――するその当事者たちは、その美しさや幸福に属していない。設計して企んだ通りに人を感動させることは、技術なわけで、作り手はその感動や共感の世界に入れないわけですよね。そういう立場の孤独が強烈な作品でした。最後にデビッド・リンチ演じるフォードが出てきて、「映画監督なんて辛い仕事だ」みたいなことをよれよれの格好をして言う、あそこがいいですよね。美しさ、崇高さ、神々しさ、そういうものを作るカメラの裏側にいる人々の、世俗的な現実が提示されているわけですから。そしてそこで語られていることも、「上から撮ると面白い」みたいなしょうもない映画論を論じてる。その即物的な、上から撮ったり下から撮ったりすることで崇高に見えたり矮小に見えたりする、単純な効果を語ることが最後にあることが大事だと思うんですよね。「それは技術による効果なのだ」という即物性をちゃんと観客に示し、バカバカしさの笑いで、ロマン主義的な陶酔に釘を差すところが。
杉田 『フェイブルマンズ』には打ちのめされました。人生的に決定的影響を受けた映画の一つが『A.I.』なんですが、『フェイブルマンズ』は『A.I.Ⅱ』または『A.I.The Origin』のように思えた。
最後なので直観的なことをいくつか言うと、『フェイブルマンズ』を観て、欲望の怪物化というか、誰の中にも何らかの摂理的暴力、ベンヤミンが言う神的暴力があるのかもしれない、と感じた。『エヴ・エヴ』のあの<虚無>とは、いわば<資本主義>そのものだと僕は思う。人新世ならぬ資本新世とも言われますが、ディザスター資本主義というか、植民地主義や気候変動を巻き起こして強化されていく資本主義の原初的な暴力性がある。重要なのは資本主義自体が交差的であり、『シン・ゴジラ』のように次々と形態変化していくことです。WOKE資本主義という言葉もありますが、実際にそれは、LGBTやフェミニズムや人種的多様性や障害者へのバリアフリーなどをも組み込みながら、怪物的に生成変化してきた。リベラル左派もそこに取り込まれてきた。それこそがまさにディザスター的な虚無という感じがする。
サミーは自らの暴力性に気付いておそれおののく。しかし交差性とは、もとより、加害と被害が重層化して決定不能になることではないか。キャンプのホームビデオも、そもそもカメラは母親から手渡され、撮影を父親から依頼されて、家族間の複雑な経緯を通して撮られています。母親は自らの秘密の欲望を自覚していなかった。だから息子が編集した映像を観て、ショックを受ける。重要なのは、撮影したサミーも気づいていないことです。フィルムを事後的に編集し、「映画」にしていく過程で、母親の秘密の欲望に初めて気づいた。自分が何を撮ってしまったのか、やってしまったのか、と。
高校時代、同級生のイジメとユダヤ人差別に対しカメラを向けた、という有名な自伝的エピソードも、カメラによって非暴力な抵抗を――という生やさしいものではない。他者をカメラに映すのは全て暴力だとか、現実と虚構を歪曲しているとか、そういうことでもない。スピルバーグにとって映画とは、虚構と現実の境界を食い破って、現実の他者を超える別の他者を産み落とす力です。それは本人にもアンコントローラブルな、摂理的な<真理>を出現させてしまう。サミーが映画を撮影する時、加害と被害、能動と受動を切り分けられず、政治的でも神学的でもあるような、何か決定的な摂理的出来事が起こってしまい、いつもさサミーの方がそれに驚いて、茫然としている。
サミーは人生初の映画を両親と観た時に、「クラッシュ」と言います。電車が車を吹き飛ばして人間がバタバタ倒れている、という光景に心を奪われてしまう。一方で映画は美しい幻燈的な夢です。しかし他方で映画は――途中で『宇宙戦争』のような竜巻に母親が魅せられて狂気のように接近していきますが――災害的で交通事故的なクラッシュそのものです。『宇宙戦争』では、宇宙人の攻撃から難民のように逃げ惑う少女の眼が強調されていました。少女は眼を閉じられません。サミーの映画を見つめる母親の身開かれた眼もそうでした。その眼は、無力な恐怖を感じつつ、非人間的で恩寵的な享楽を感じてもいる(『宇宙戦争』の火星人は、比喩でも何でもなく、地球人を撮影に来た映画クルーだったのでしょう)。
ビーチのドキュメント映像をパーティ会場で観たいじめっ子のイケメンも、決定的な打撃を受けます。南波克行さんが「サミーが撮ったローガンの映像、筋肉を躍動させてビーチを走っているあれは、レニ・リーフェンシュタールを模しているんじゃないかな。ユダヤ人だと言われていじめられたサミーが、ナチスの手法で逆襲する。何たることを仕掛けたのかスピルバーグは」(「キネマ旬報」2023年3月上旬号)と述べていました。あのクラッシュ的なクライマックスで何が起こっていたのか、頭の中で何度記憶を反芻し反復しても、うまく意味がつかめない。何が加害で被害か、現実か虚構か、意志か無意識か、何が幸福か不幸か、友愛か憎悪か、誰がどうなったのか。それは僕ら観客にとってのクラッシュのようです。
サミーの映画を真に「観る」ことが可能な「観客」は、つねに一人だけなんですね。母親にしても、イケメンにしても。そして真の「観客」にとって、スピルバーグの映画という出来事は、ユダヤ教とキリスト教が分離する以前の、摂理的な恩寵の一撃であり、悪夢の竜巻のように人生を飲み込んでいく。サミーが編集したママの欲望を写した「映画」も、一般観客の我々は画面に直接視認できない。暗いクローゼットの中でママが一人でそれを「観る」のであり、観客は映画を観せられるママの驚愕の顔しか観れません。
『エヴ・エヴ』が真偽や善悪、意味と無意味をかき混ぜて飲み込んでいく虚無に向きあい、家族愛の力によってそれを最善として選び取っていく映画であるとしたら、『フェイブルマンズ』は理不尽な災害や悪夢のようなクラッシュが始原の一撃としてあって、それに曝された人間がその後の人生で、摂理的な欲望をいかにして自らの力に変えていくか――そのような映画に見えました。
藤田 スピルバーグ自身も言っていますが、自分は恐怖をすごく感じるので、それをコントロールしたくてフィクションで怖いシーンを撮る、と。『フェイブルマンズ』の主人公が、映画でクラッシュするシーンを見て、それが母親の解釈としては悪夢のようで、その悪夢をコントロールしたいという欲望を抱いたから、模型を作って撮影してそれで心を安定させようとしている。それを撮っているうちに彼は映画を作る才能を持つ。ある種破壊的暴力、巨大なカタストロフのトラウマに取り付かれ、怖いんだけれどそれを愛して反復してしまう衝動に取り付かれているわけですよね。それは鮫や戦争、宇宙人、そしてホロコーストにおけるユダヤ人虐殺などにまで敷衍できるものだと思います。映画で観るそれらの虐殺や破壊は、享楽を齎すわけですよね。しかし同時に、そのような戦争の恐ろしさ、悲劇の凄まじさを告発することもある。後者を口実にむしろ残虐さを見せつけたり観ることを愉しむこともある。映画ってそういう両義的な、どっちでもある装置なのだ、ということを本作は言っているように感じました。映画そのものがクラッシュというよりは、人類が行ってきたこと自体の中に一つの巨大なクラッシュがあり、映画はその「悪夢」としての(「夢」特有の変形を蒙った)反復なんだ……というような。映画は、リーフェンシュタールがナチスに加担したように、ユダヤ人を殺す政権に資するように使えるが、一方、それはユダヤ人をいじめから救うこともできる。
杉田 スピルバーグは究極の反資本主義なのではないか、というのが僕が思ったことです。例えば先ほどライプニッツとニーチェの差異を言いましたが、宿命と運命と摂理を区別してみたい。ライプニッツには、様々な可能性を想定できるけど自分の人生はこれなんだ、という取り換えのきかない唯一の実在をポジティヴに受け止めます。小林秀雄の「宿命」の理論もそうしたものです。これに対し、たとえば九鬼周造はニーチェに触れて、運命とは偶然性を内面化することだと言いました。この世界には無意味な偶然や事故によって、理不尽な酷いことが色々と起こるけれど、それをあえて内面化して、偶然を必然として生きよう、そうした意志を持とう、というのがニーチェ的な超人思想であり、永劫回帰の思想です。
それに対してベンヤミンが言う神的暴力、摂理的な暴力がある。人間が内なる摂理的な欲望を、政治的かつ神学的な力として資本主義的な現実の側に投げ返していくとしたら、それが『フェイブルマンズ』的なものなのではないか。スピルバーグにとって、映画を観るという原体験は、一つの致命的なクラッシュでありディザスターだった。悪夢と楽しい夢、殺戮と享楽が分割しえないような摂理的出来事だった。それはたとえば最初の映画についての父親の科学的・技術屋的な説明と、母親の芸術家的な感情論的な説明が分岐する手前の、弁証法的な統合も不可能な、始原の分裂性だと思うんです。スピルバーグは自らの映画的な欲望の中に、そうした原初の神的暴力を宿そうとした。
スピルバーグは天才だ、と今更言いたいのではなく、そこにむしろ天命、天職、ミッションがあったんだと。そういう天命を生きることは、いつでも、誰にでもできるのではないか。デル・トロ的な怪物化の欲望もそうでしょう。いじめられたり、人種差別を受けたり、恋人から理不尽にフラれたり、殴られたりといろいろ描かれるけれど、そういう符号的な暴力よりも、映画を撮ることの方の暴力の方がもっと強い、欲望としてもっと高い。そこを描いている。スピルバーグにとってそれは、イジメられ、民族差別され、殴られ、フラれるという複合的な暴力をはるかに凌駕する暴力性であり、たんなる抵抗や対抗ではなかった。映画を撮ることの神的で摂理的な暴力と欲望の方がもっと強い。もっと怖い。そしてもっと気高い。そこを描いている。運命を受け入れようとか、家族愛を祝福しようとか、そのようにも言えない。そうした摂理的で象徴的な暴力性を帯びた欲望は誰の中にもあるし、それが根源的な意味で資本主義的なニヒリズムに対抗する力、ディザスター的な虚無に反撃する力になるのではないか。『フェイブルマンズ』を僕はそういう風に受け止めました。
藤田 「才能」というものが、ある種呪いのような、神からのギフトや召命のようなものだという感覚を描いていたことには賛同しますが、それが「資本主義的なニヒリズム」に対抗する力なのかどうかは難しいですよね。スピルバーグの映画は、それこそブロックバスターという用語が『ジョーズ』で使われたぐらいで、ブロックバスター映画の連発ですが、その語源は、街の一区画を吹き飛ばす爆弾のことです。まさに資本主義の暴威そのものとして、芸術的なアメリカン・ニューシネマ映画などを駆逐していった流れの張本人でもあるわけですよ。むしろ、彼の才能、映画こそが資本主義的なディザスターと混然一体となっていて、しかしその中に、それを超えた何かもある。両義的な竜巻のようなものである。
映画って、そういうものなのでしょう。映画は、現実そのものではなくて、人間が現実そのものに満足できる性質の生き物であったら、こんなにたくさん作られたり観られたりしないはず。日常や規範の「外」を覗き見て疑似体験したい欲望と密接に結びついているはずで、そこが先に述べた、現実世界での満足を決して得ることができないような男性の――というか、多分女性も同様なのだと思いますが――欲望のあり方と関係があるはずなんですよ。もっと権力が、もっとお金が、もっと美が、もっとモノがあったらより良い世界があるという幻想で人を駆動するのが、社会であり、資本主義の世界ですが、「革命」だって、永遠に到達できないユートピアの美的ビジョンが逃げ水のように遠ざかっていく仕組みで、しかし人はそれに吸引されることで人類史を進歩させてきたわけですよね。つまり、どこまで行っても常に不全感と不満感がある。ラカンじゃないけど、そういう存在である人間が、じゃあそのこととどう付き合うのか、ということに議論を持っていくのがいいかなと思うんですよね。
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*これまでの記事コチラ→【対談1】