僕彼の佐久間大介さんのこと
すごかった。
佐久間さんはいつからこうなのかを知りたい。多分天性なんじゃないかと思う。アクロバットだとか、ダンスのスキル的なところってのは後天的なものというか、言葉通り「身につけていく」ものだと思うのだけれど、あの背筋がゾクリとするような表現力は、天性だ。生まれ持ったものだと思う。ギフテッド(神から貰った特別なもの)なんだと思う。信仰したい。てか信仰してる。私はなにかを表現しているときの佐久間さんを、多分神さまか何かの化身だと思ってる。キリストに近い。
なんだろう、本当に文才のない人間なので上手に表現できないのだけれど(したいのだけれど)普段がハツラツとしたキャラクターな分、なにかを表現しているときの佐久間さんは、なにかが憑依したような感じがするんだよな。
踊りが特に顕著なのだけれど、何かを身体で表現しようとするとき佐久間さんは明確に人格が変わる。表情から、指先の動きまで変わる。私はその瞬間というのが本当にこわい。こわいというのは恐怖だとか嫌だとかのネガティブな意味ではなく、畏怖の意味に近い。圧倒され、魅了され、なにか崇高で、この世のものでないものをみたような、心持ちになる。
普段のキャラクターを知っているからこそ、途端になにかが「降りてくる」佐久間さんを見るのが大好きで、そしてなんともいえず「こわい」。それは多分、神さまに畏れおののく感情にとても近いんだと思う。私は佐久間さんに、神さまを見ている。
基本的にその場の感情で生きていそうな佐久間さんだけど、表現のときにだけは全てが「解って」いて全てが「見えて」いるような気がしてならない。
例えば佐久間さん自身の脚だとか指だとか首筋だとか目線だとか、ひいては身につけている布の動きまで、「どう動いているか」をわかっている。見えている。(実際それに近しいことをなにかのインタビューで答えていたのを見たことがある。きっと本人も自覚していることなのだと思う。)
自分でどう見えているかとは違って、カメラで映った時にどう映っているのか、そしてそれがどうこちら(受け取り側)に見えるのかをわかっている。だから自分がどうしたら相手を「魅了」させられるのか、をわかっている。
「耽美」という言葉がある。辞書の言葉を借りれば、美を最高の価値として、ひたすらその世界に心を傾け陶酔することである。
佐久間さんの表現はただひたすらに美しい。受け取り側の感じるであろう「美しさ」だけを追求した表現なのだと思う。
そこに何かメッセージだとか倫理だとか解釈だとかそういうのはなくて、むしろ意図的に排除されて、ひたすらに「美しいもの」が追求された表現になる。
あの曲の中の駆け引きだとか、計算だとか、そういう俗っぽいいやらしさみたいなものが佐久間さんの表現する映像の中からは明確に「抜け落ちて」いて、だからもう私はその映像にただ魅了されることしかできない。ただ、ただ美しさを感じることで精一杯になってしまう。
大昔のどこかの国で、王様や貴族なんかが踊り子に魅了されたときというのは、こんな気持ちだったんじゃないかしら、なんて。
宗教において、「舞」が神に捧げられる儀式の中に組み込まれることはよくある話だ。昔の人が人が舞い踊ることや歌うことを神さまに「納めよう」と思い至ったのは、きっとそれを舞ったり、表現する人々のそれがなにか言葉にしがたく美しく、それこそ神から授かりし畏れ多いもののように見えて、献上しなくてはならないと思ったからなのかなぁと思う。佐久間さんの表現は、まさにそれだ。神さまから授かりしもののように思える。
そして、美しさにはいろんな表現方法があるけれど、佐久間さんは受け取り側が「欲しがっている」美しさ、もよくよく理解なさっている。今回の僕彼、の映像にはそれが本当に明確に表れている。
ここでもう一回リンクを載せておく。
んで、マジであほかと思うがせっかく現時点0:53しかないので毎カットコメントしていきたいと思う。
0:01 無造作に椅子に横たわっているように見えるけれど、綺麗な喉元だとか、指先だとかがちゃんとこちらにわかるようにそこにある。脚元も無造作に放られているようで、片足はぐっと折り畳まれていて、それが少しこの曲に垣間見られる「男の意地みたいなもの」を表しているようでいい。
0:03 先ほどの姿勢から上を仰ぐような動作。確実に意図的におろしたであろう前髪から覗く目元が、切なげに揺れて、思わず目が奪われる。
0:04 ここでグッと座り直す動作が本当に美しい。ただ座り直してるんじゃなくて、天井を仰ぎ見たまま、グイッと下半身を引き寄せる感じ。これがすごくアンニュイな感じ、物憂いな雰囲気出している。
0:05 (ブログ曰く)監督さんたちは使う予定のなかった黒電話をアドリブで使ったシーン。電話機の持ち方すらも計算されているような気がして、どのシーン一つ切り取ったって絵になる。ところでこの0:53のなかであんなはつらつ元気な佐久間さんはニコリともしない。気怠げに電話機を見つめる佐久間さんからはなんの感情も読み取れない。から、なにを思っているのかわからなくて、ひたすらに引き込まれる。それも計算ならこわい。
0:08 折り畳まれた足が椅子の上で組まれたまま、ポツンと映る佐久間さん。個人的にこの曲はシンセサイザーが使われてるとことかこの黒バック照明とかがものすごく80's感すごくてその意図を知りたい。(エイベさんの意向?)一歩間違えたらシュールさ極まりないこのシーンなのに佐久間さんが映ると舞台の上にポツリと佇んでいるようで、モノローグ(ひとり芝居)の一幕に見える。
0:09 200%佐久間さんの意図ではだけた衣装と佐久間さんが(そして佐久間さんのオタクが)好んでいる目元に手を当てるポーズ。はだけてるのがただエロいんじゃなくて、佐久間さんの中でも指折りに美しい身体のパーツである顎から首筋にかけてのラインが際立つ形になっていて、まさに耽美。
0:12 ここでちょっとだけ目を開いてこちらを見ているところに、佐久間さんが「曲の世界観に陶酔してる」のではなく、明確な意思を持ってこちらを佐久間さんの世界に引き摺り込んでる感じがして""ヤバい""
0:13 佐久間さんの手とか指って、それそのものは本当に男の人と手、って感じで、あの深澤さんの手とかってめちゃくちゃわかりやすく「綺麗」じゃないですか、私手フェチなのでほんと好きなんですけど(聞いてない)。
佐久間さんの手はああいうわかりやすく綺麗な手というよりはどちらかというとゴツゴツした男の人の手なんだけれど、映像の中でめちゃくちゃ(あえて表現するなら)女性的に美しい。それは指の動かし方、ひいてはもう骨の動かし方が「魅せる」ことを意識した動作だから。すり合わせるように動かした両手は、相手役の女性と手を合わせることを意味しているのかな。本当に"モノローグ"を観ているみたいだ。
0:16 その重ね合わせた手を切なそうに眺める目線と、崩れるように落ちてくる手に覆われ瞑る目、一挙一動が繊細で抜かりがない。ここまで佐久間さんの表現を「計算されている」と表現してきたけれど、佐久間さんのなかにおそらく「計算して動く」という意識はあまりないように思う。それよりも、指の先、つま先の先まで「意識が通っている」という表現の方が適切かもしれない。
0:17 わざと着崩した服装は一瞬「十四松の役作りが残ったんか?」と思ったけど多分違う。ところで佐久間さんって案外ガタイがいい。この前の某雑誌で身体のパーツ測定?みたいなのが載ってたけれど、佐久間さんの胴まわりは誰よりも大きかった。すごく筋肉質だし、若かりし頃には岩本さんに「マッスル友達」なんて言われてた時代もあったようなので、実際かなりいい身体なんだと思う。けれど映像で見る限りにはそんな印象はあまり感じず、むしろ華奢で、細く繊細な体付きのように見える。肌の白さがより一層そうさせるのかもしれないけれど、多くの要因は佐久間さんの意図的な振る舞いだと思う。トロッとシャツを着崩し、鎖骨を見せることでとても華奢な印象になる。
0:19 こーこ、本当に"やばい"ですよね。(急に語彙が抹消する)(元々語彙などない)ガタッと崩れ落ちる上半身から椅子に引っ掛けられた左脚に目線がうつる。その間ずっと佐久間さんを見ているわけですよ。ずっと佐久間さんの虜です。またここで佐久間さんのボトムスがすごく身体のラインをみせるものだということに気付かされてすごく…色気。椅子を抱きしめるような姿も、女性を抱きしめる比喩の一部なのかもしれない。そう思うと、佐久間さんの振る舞いはすごく文学的だなと思う。受け取り手の感ずる美しさを追求した美しさだけど、その過程には緻密な彼の音楽に対する解釈があるのだ。
0:21 椅子から身を起こすだけで、どうしてこうも美しいのだろう。こちらにニコリともしない佐久間さんだけれど、このシーンでは僅かに、ニヒルな(虚無的な)笑みに近い表情を見せる。冷たくて、観ている人を突き放すような、それでいて物憂げな表情。"その前に想い伝えるね"の歌詞をこのシーンが表しているのであれば、身体を起こして、言葉通り「想いを伝えよう」とするんだろうけれど、佐久間さんの演ずる佐久間さんは、ただ「想いを伝えよう」と決意しただけなんかには見えない。瞳の中から全く読み取れない暗い影がずっとチラついていて、またこちらを引きつける。
0:24 明確に正面から歌詞を歌ってるシーンがようやく出てきて「そういやこれリップシンクビデオだったね」と思い出す。どうしてあんなに無邪気で愛に溢れた化身のような人が、こんなにも気怠げで億劫に「君の彼氏になりたい」と歌えるんだろう。
0:28 このシーンの佐久間さんは確かYouTube ver.のmvでも採用されていてとても印象的だ。佐久間さんの美しさは「耽美的」なものだ、と言ったけれど、彼にとっての「美しさ」の解釈の中には、おそらく「儚さ」というものが含まれているのだと思う。佐久間さんの美しさは、どこかずっと消えて無くなってしまいそうな儚さがある。華奢に見せる振る舞いも、おそらくその解釈から生まれるもの。人知れず咲いた花が散ってしまう寸前であるかような、そんな危うい感覚。物憂いな表情、どこか虚無的な、虚な表情、どれも確かにそこにあるのに、今すぐにでも消えてしまいそうだから、私たちの心を掴んで離さない。寂しそうにも見えるその大きな瞳が突然に甘くて甘くて、すごくズルい。
ところで佐久間さんは圧倒的ブルベなので、青いライトが本当によく映えるなと思う。冷たい印象も持ちやすい「青」の光は彼の儚い美しさが本当によく引き立つ色だなぁと思う。
0:33 佐久間さんは本当に鼻筋から顎にかけてのEラインが綺麗。ライトでの陰影がとても映える骨格。まさに舞台のために生まれてきたような人だなぁと見るたびに惚れ惚れする。
0:37 ここ、ここの「12時」で本当にやられたと思った。ここまで感情という感情を明確に表現してこなかった佐久間さんが一瞬だけ、口元だけわずかに荒げて「12時」を吐き捨てるんですよ。あんな子犬のような甘くて寂しい顔をしていたのに。これはこの0:53に一貫して言えることだけど特にこの一瞬に、「すごく魅力的なのに近寄りがたい男」の姿が見られる気がする。苦しい。
0:41 このボフッと椅子に座り込む時のシャツの動き、計算されているんじゃないかと思うくらい綺麗だ。そしておもむろにする腕まくりは反則。これはシンプルに女みんな好きなやつ。需要わかってんなぁと思う。(急に粗雑な感想)こういうところに「受け取り手」が欲しがってるものを忠実に見せにくる佐久間さんのプロ意識も感じる。この曲の映像の中で、佐久間さんは「手」での表現を多く行っているように思う。佐久間さんの精細かつ儚げな美しさを表現するのに、きっと「手」ひいては「指先」というのは欠かさないパーツなんだと思う。(余談だが佐久間さんの指先美しい選手権(独断と偏見)堂々の優勝はキッシン。佐久間さんの美しさは、どこか女性的だ思う。儚さ、の印象と女性的な印象が結びつきやすいからかもしれない。キッシンは指先で口元を撫でたり、リップを塗るような表現があるので、余計に映えるのだと思う。あー、見返してこよ)
0:46 映るのは立ち姿だけというシンプルなシーンなんだけど、前髪が重たくかかっていて目元が全く見えないところや、あえて着崩されたシャツ、そしてぼんやりと立ちすくむような仕草全部が相舞って、佐久間さんがそこにいるのに、心はそこに居ないような、アンバランスな風景になる。なんというか、絵画のようだ。
0:47 最後のカット、「深夜2時」と歌い切った後の口元が完全に閉じられてなくて、食いしばった口元のままなのがすごく余韻が感じられる最後だなぁと思う。目元を隠す、という動作は、それをすることで鼻から顎、そして首筋にかけてのラインが目立つ、という見映えでも美しさはもちろんのことなのだけれど、佐久間さん自身の心の奥の見えなさ、というか、影のようなものがちらつく感じがして、すごくエモーショナルな印象になる。
これは別添えで書こうと思ってたんだけれど、(結局書いてしまうんだけれども、)佐久間さんは基本的に心の柔らかいところを人に見えるところで出さない。誰だってそうだろうけれど、佐久間さんは明確に「これ以上は見せません」というラインをひいてるように思える。雑誌のインタビューだとか、なにか答えるシーンだとか、受け答えを見てたってそう。アニオタキャラ、とかでガツガツさらけ出していくように見せかけて、彼のほんとのほんとのプライベートなところとか、すごく私的な心情ところは実のところひとつだってわからない。彼の振る舞いは「アイドル佐久間大介さん」として一貫していて、それを演ずる中の人の姿はほとんど見えてこない。攻撃は最大の防御、とはよく言ったもので、彼は見せていいものを先取りして大々的に見せている間に、彼の柔らかいところ、あんまり見せたくないところをしっかりとしまってしまうのだ。すごく上手いなぁプロだなぁと思う。(私はそういうときの佐久間さんを「佐久間プロ」と呼んでいる)ところで「目を隠す」という仕草は「綺麗に見える」のと同時に彼の「本当の核心になるものは見せないよ」という思いの現れなんじゃないかと思うときがあるのだ。本当のところは、彼がその綺麗な指先で目元を隠してしまった通り、なにも見えないのだけれど。
エグい文量になってしまった気がするので本当に読まなくていい。
総じて書きたいのは、私は佐久間大介さんのパフォーマンスを本当に好きで、畏れて、崇拝してるということ。
なにかを表現するときの佐久間大介さんは、
私にとっての、神さま、なのである。