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正論は時に攻撃であり、自己満足の道具となる(自戒を込めて)

最近ずっと不安だ。

就活はほとんど落ちて唯一最終面接までお声がかかった会社があるけど、それも受かるか分からない。

しかもそこは絶対に車の免許がいる仕事なのに、私は過去に自動車学校を不登校で除籍になっている。
車に対してすごい苦手意識があって、真ん中もろくに走れない人間はいつか人を殺めると思っていたのと、親とのゴタゴタが過去最高潮に達した時と自動車学校の時期が被り、自動車学校どころか大学も行かずに引きこもっていたから。

でも、もしもその仕事に決まったら腹を決めてもう一回自動車学校に行かないといけない。


あと、何かしらの仕事に就いたとしても、自分一人で生きていけてる未来が描けないし、ちゃんと働けてるのかもわからない。

働いた先で女性差別を受けるかもしれないとか、自分はちゃんと親から自立して、生きたいように生きていけるのだろうかとか、色々わからない。

卒論に対して何も準備してないし、過食でぶくぶくに膨らんだ体はいつも動きにくいし、なんかほんとにヤになる。

とりあえず、漠然と不安でどうしたらいいのかわからなくて身動きが取れなくなって、不安な気持ちを振り払うように部屋で歌ってみたり踊ってみたり、バイトの行き帰りに口笛を吹いたりして見るけど、やっぱりその不安に押しつぶされそうになって、消えたくなる。

自分は現に何も社会の役に立ってなくて、これから役に立てるとも思えないし、何かを成し遂げようとしたら、というか生き続けるためには戦い続けなきゃいけないのに、その戦う気力がおきない。

自分は生きてても何の意味もないんじゃないかとか思うけど、まあ死んだら悲しむ人がいるし、まだまだやってみたいこととかはあるから死なないでおこうとは思うけど、「死ぬ」という具体的な意味ではない「消えたい」という思いが強くなる。

で、どうしようもなくなって、さめざめと、なんで泣いてるか分からないのに涙を流す。

最近そんな感じ。


これを人に相談したら、相談したい内容の半分も伝えられてないのに相手が正論で長々と答えてきて、死んだ。

「正論で返すのが正しいとは限らない」

みたいな話が有川浩さんの『図書館戦争』シリーズであって、それを読んだ高校生の私は当時その意味が分からなかったけれど、今ならわかる。


この前岸田奈美さんと岸田ひろ実さんの対談で、

人の「もうあかんわ」に対しての正論はただ攻撃になってしまう

という話があったけど、たぶん同じことだ。


弱音を吐いた人に対して、もっとこうしたら良くなるんじゃない?とか、こういう風に頑張ったらいいよ!とかアドバイスするのは、聞いてる人の自己満足だ。

きつい言い方をすると、相談者を使って自分の存在価値を確かめてる、みたいな感じがする。

私を使って自分語りをして自慰行為をしないでって思ってしまった。



今回、私は相談相手を間違えた。

相手は私のためを思ってと思って言ってるのだろうけど、あなたのその一つ一つが私をブスブス刺してるのに気づかないで、私はそれに対抗する元気がなくて、刺され続けている。


でも、昔は私もそうだった。

相談してきた後輩に対して一方的にアドバイスしてた。

今思えば嫌な先輩だったなあ、、、。本当にごめんなさい。


上記の岸田奈美さんは、「もうあかんわ」と言ってきた人に対して、

「それを伝えてくれて『ありがとう』としか言えない」


とおっしゃっていた。

ほんまにそうやな~と思って、私はこれから絶対ありがとうって言える人になろうと思った。


今回のnoteは自戒を込めて。

きついことばで書いたけど、今の苦しさを吐き出すのと、これからの私に対して気を付けてねっていう意味で。


結構泣いたので明日の朝目がパンパンになること必須だけど、まあ、保冷剤で冷やしてなんとか生きてこー


パウ。



感謝感激雨あられ!