
ハツカネズミの話
ジョン・スタインベック著「ハツカネズミと人間」および、それを題材にしたマーダーミステリー「ハツカネズミに起きたこと」のネタバレを含みます。
ぜひ原作に触れてみてください。
ハツカネズミと人間(たち)
「ハツカネズミに起きたこと」
「ハツカネズミと人間」を読もうと思ったのは、それを元ネタにしたマーダーミステリーを遊ぶことが決まったからだ。せっかく遊ぶなら物語を端から端までしっかり味わいたいなあと思い、原作をkindleで読むことにした。
「ハツカネズミと人間」は、少し昔の時代の、労働者たちのお話。どうしようもない人生を精一杯生きて、ロマンを語る。その片割れは知性が低くて、おそらく知的障害がある。主人公は彼の面倒を見ながら、時に喧嘩をし、時に彼の語るロマンに救われながら、生きている。
素晴らしい物語だと思いました。
各所で話しているのだけれど、私の姉には軽度の知的障害と軽度の発達障害がある。小学生〜中学生くらいでレベルが止まってしまった感じ。あんまり頭を使わないでいい作業現場とか行くと、「あれっ? この人大丈夫かな?」と感じる人がいると思う。話も通じるし、素朴で良い人のように感じるんだけど、すごく頼りないというか、「そんなこともわからないの?」ってことが分からないような人。そういう人をもう少しわかりやすくアホにした感じが、うちの姉である。見た目はただの小太りのオタクだし、生活するのに介護や支援は必要なく、あと偉そうなのでめっちゃ喧嘩する。でも機嫌がいいと優しい。妹に甘い。犬猫にも甘いけど舐められている。のび太くん並に寝るのが早いし、どこでも寝る。そんな人。
今では「変な同居人」くらいにしか思ってないが、昔は姉の事がとても重荷だった。というのも、「自分の未来がどうなるのか全然わからなかった」からだ。
世の中の人間って、周りの人間がどう生きてるか、どういうふうに生活していくかを見て、自分の未来を想像するものだ。それはアニメや漫画でもいいし、ドラマでもいい。なんとなく高校を卒業したらあんな風に働くんだろうなとか、大学進むんだろうなとか、そんなことを考える。誰かをモデルにして。
私にはモデルがいなかった。「"まともに正社員として働いていけなさそうな姉"を持った妹」というロールモデルは、自分の身の回りにぜんぜん見つからなかった。クラスのほとんどが障害とは無縁だ(とその頃は思っていた)し、何せ、親だって、子供に障害があるだけで、姉に障害があるわけじゃない。
姉は独り立ちできるのか? 私は姉の面倒を見て生きるのか? もし人生を共に歩みたい人ができたら、その人に姉の話をするのか? 私の問題ではなく、姉の問題によって、大切な人に嫌がられる可能性があるのか? 私の背中には常に姉の影がのしかかっていて、未来は霧の中だった。
世間にはたくさんの物語が溢れている。でも、障害を持った人の物語は少ない。ましてや、その家族の気持ちとなればなおさら。
もちろん、全くないわけではない。学生の頃は、重度障害者を天使のように可愛がる家族映像とか見せられた。私は「うちの子は障害者だけど天使」みたいな話は好きじゃない。うちの姉は天使か? 天使が寝不足で機嫌が悪いからと妹にぐちぐち当たるだろうか? 天使じゃなくて、ただの人間だ。関わってたらむかつくし腹立つし許せないこともある。
一方で、障害者を惨殺して回った事件の話などもある。ああいうのもクソ喰らえだ。犯人は障害者は家族にも迷惑をかけるから、と考えていたらしいと聞いたことがある。ああ、そりゃ、大なり小なり迷惑かけるだろうよ、生きてんだから。でもその迷惑も、すでに私たち家族のパーツのひとつになってるのだ。そして、迷惑なだけじゃなくて、人間としていい事も沢山ある。人間として姉からしか得られなかったものもたくさんある。
世間での障害者の扱いは、こんなものだ。過度にはやし立てて綺麗事にするか、蔑んで邪魔物扱いする。そういうんじゃないんだ。ただたんこぶ持った家族がそこにいるだけなのだ。健常者だと思っている人が、愛おしかったりむかついたりするように、私だって姉と仲良くしたり喧嘩したりする。人間と人間なのだ。でも悲しいことに負担はある。
でもその負担のほとんどが「未知」なのだ。普通の人間が「高校出て仕事かな」「大学進学かな」とある程度未来のことを想像できるように、姉の未来と、姉のいる私の未来を何となくでも想像出来たら、私の子供時代はそこまで苦しくはなかった。
世間に物語がなさすぎる。世間から無視をされすぎている。世間の無視が、未来のモデルの不在が、私の過去をあんなにも苦しませたと思う。
(余談だけど、私が少なくとも楽になったのは、親から「あのね、歳取って私らが死んだらね、姉なんて施設かどっかに入れちゃえばいいのよ。あんたが面倒見る必要は全くないから、あんたはあんたの人生生きたらいいのよ」とあっさり言われて、ひとつの未来が見えた時だ。そのモデルストーリーを元に、「私がしっかり給料もらえる仕事につけたら、定期的な仕送りとたまの訪問があれば生活できるかな」「もし私が就職全失敗で、姉妹揃って貧困しても、福祉が使えるかな」とか、ifストーリーを考えられるようになって、急に楽になった。ちなみに、大人になってみて、姉は意外とそこそこ働いて、自分の給与+障害年金で生活できているから、金銭管理さえ気をつけてやれば問題ないし、施設は要らなさそうだとわかった。特に私がするべきことはないし、だから今はのほほんとしている。)
かなり脱線したけれど、ここでハツカネズミに戻る。
本当に感動した。ハツカネズミと人間たちで書かれていた、うすのろのレニー。ジョージに多大でどうしようもない迷惑をかける一方で、無邪気さでロマンを見せてくれる。「レニーがいなければいいのに」と「レニーがいなければやってられない」のバランスがものすごく良くて、私が認識してきた姉のような存在が、物語にちゃんと存在している! と思った。ものすごくうれしかった。無視されずに存在していることが、「こういう風に感じる相手っていますよね」と作者がそっと共感してくれるようで、とてもうれしかった。ジョージの気持ちに「わかるよ」と微笑んだ。レニーのやらかしがやばすぎてどうしようもなくて切羽詰まる感じも、綺麗事に矮小化されてなくて、すごくよかった。そうなんだよ、そうなんだよ〜〜……と思った。さすがに私の姉は人も動物も殺さないし、虫を見ると悲鳴をあげて逃げるけど。
だからこそ、レニーを重荷に感じながらも、レニーにどうしようもなく救われているジョージが、ああいう結末を辿らざるを得なかったのが、ほんとうにつらかった。悲しかった。でも、ジョージの手でけじめをつけられたのは、せめてもの慰めなのかもなと思っている。これは共感ではなく、ジョージとレニーの物語として、レニーが何も分からない人に苦しい思いをさせられるよりも、レニーを愛しているジョージの手で安らかに行く方がよかったのだと信じている。その分、ジョージはこれから先、ほんとうに辛いと思う。でも、ジョージは全てわかっていて、愛するレニーのために、苦しみを背負ったのだ。本当にあなたはすごく良く頑張って、そして最後までよく愛を貫いた。世間に理解があれば、物語の形が違えば、結末も違ったと思うけれど、そうではない中で、ジョージはよく頑張ったと思う。
これはひとつのモデルになるのだ。私が姉のことで困って、自分を犠牲にして何かをしなければならないとき、きっとジョージの姿は救いになるのだ。ジョージがいてくれるから、ううん、こういう物語を書ききってくれた作者がいると思えば、少なくともそれは孤独な戦いではなくなる。まるっきり未知の未来ではなくなる。拠り所があるから。
それくらい、心に染み込んだ物語だったので、マーダーミステリーを遊んだ時は、本当につらかった。私はジョージをやるべきなのか、いや、大事すぎるからジョージを選ばない方がいいのか、とすごく悩んだ。結局、ジョージを演じることがいちばん楽なのではないかと思ったけれど、ダイスで負けたのでできなかった。この時点で結構、嫌な予感はしていた。その、ゲームを続行できないかもしれない、という意味で。本当にまずいかもしれない、と思って、打診はしたけれど、結局、ダイスはダイスということになった。
⚠️ここから先はマダミス「ハツカネズミに起きたこと」の核心的なネタバレを含む。⚠️
私はよりにもよってレニーを殺した犯人だった。しかも大して強い思い入れがあるわけでもなく。とはいえ、今から思えば、卓中や卓後に情緒が崩壊するよりも、ハンドアウトを読んでいる時に情緒が崩壊した方がよかったのかもしれない。覚悟を決められる、という点では。
えげつないほど泣いた。ジョージ以外の人間があっさりレニーを殺してしまった。この物語の中でも、ジョージはレニーを奪われるのか、生きていくための夢やロマンを、こんなにもあっさり失うのかと思うと、原作よりも酷い気がして、つらくてつらくて、ぼろぼろ泣いた。あまりにも涙が止まらないので、ここから離脱させてもらおうかと思った。ひとしきり泣いたら、(でも、これで、ジョージはレニーを殺したという苦しみは背負わなくていいんだな、自分で自分の希望を潰したわけではないもんな)と思って、何とか立ち直った。
あんなにも己のハンドアウトを憎みながら遊ぶことはそうそうないと思う。
「ハツカネズミと人間たち」はこれからも私の人生の本棚に置かれる一冊になる。
あんなにも苦しいマダミス体験は後にも先にもないと思うが(半ばトラウマだもの)、この作品に出会えたという点では、遊べてよかったなと思う。
最近、ディズニーとかの有名なコンテンツで、主人公を黒人に変えるとか、そういうことが流行ってる。アリエルとかね。
もちろん「原作を大切にして」と願う人の気持ちも尊重しなきゃいけないんだろうなとは思う。でも、きっと、黒人の子供たちは、その物語を見たときに、「無視されてない!私がそこにいる!」と思って本当に本当にうれしくなるし、支えになるんだろうな、と思うと、どうしてもその子供たちの肩を持ちたくなる。
物語に無視される悲しさと寂しさ、つらさ、孤独感って、ものすごいんだ。
だからこそ、物語で描かれた時に与えられる勇気はあたたかくて強いと思います。
おわり。