自己紹介①福島から原宿、そしてビジネスの舞台へ〜佐久間正之の挑戦
はじめまして。
ファイブスターグループ代表の佐久間 正之と申します。
私は、国内外での美容サロンブランド展開や、不動産経営など、複数の会社の社長をしています。
東北地方から上京してごく普通のサラリーマンをしていた私が会社を辞めて初めて起業したのは、29歳のとき。それから10年以上経営者として歩みを進め、ありがたいことに、会社はずっと右肩上がりで成長を続けています。個人的にも、30代半ばには世間一般で言われる「超富裕層」の仲間入りを果たすことができました。
この日本では、起業後10年続く会社は全体のわずか6.3%とか、超富裕層世帯は全世帯のうち0.17%などと言われています。私の周囲だけでもとてつもない成果を上げている経営者の先輩方がたくさんいるので、私自身まだまだこれからだと思っていますが、それでも、私の世代でゼロから同様の成果を上げている人は全体で見れば少数派なのだと思います。
そんなわけで、ここ数年、多くの経営者やビジネスマンから、経営・趣味・時事問題・資産形成や運用方法などについて私の考えを訊かれるようになりました。私のような一中小企業の経営者が人様に物事を教えるなんておこがましいとは思いつつも、私の話に喜んでくれたり、人生が変わったと言ってくれた人たちの顔を思い出して、この先もたったひとりでも誰かの役に立てたら嬉しいと思いnoteに残してみようと思いました。
私は、資産家の家庭に生まれたわけでも、子どもの頃に勉強ができたわけでも、何か特別な特技があるわけでもありません。そんな私のような普通の人でも、やり方を間違えずに努力を続ければ、会社を興し、社員やお客さまの役に立ち、一生働かなくても良い資産を築くことができることを知ってもらえれば幸いです。
まずは、私がどんな人間であるかを知っていただくために、私が会社のプレスリリースや講演などで紹介している自己紹介をご覧ください。
…慶應大学院や、リクルートなど、社会人としてはそれなりに結構頑張ってるなぁという印象を持っていただけたら嬉しいのですが(実際のところかなり頑張りました。笑)、このようなプロフィールに至るまでの私の若い頃を振り返ると、インターネット上で公開するのは恥ずかしいような話もあります。なにしろ、私はファッション雑誌に載りたくて1年のうち300日以上原宿の街をウロつき、パチスロと麻雀にハマるという“痛い”学生時代を過ごしていたりしたのです。
でも、若い頃のこのしょうもない経験が今の経営に生かされていると思ったりもします。
誰にでも黒歴史はあると思いますので、私の生い立ちを思い切って順を追ってご紹介したいと思います。
1. 生まれは福島県
私は福島県郡山市に生まれました。2人兄妹の長男。 父はかつて教育関係の会社を経営しており、上場企業の経営陣や幹部、全国大会を目指す学校関係者へ教育プログラムを提供していました。母は元美容師で、専業主婦です。
小学校ではサッカーに明け暮れ、中学からはバスケットボール部で副キャプテンを務めました。 当時はスラムダンク全盛期。私の世代であればご存知の方も多いと思いますが、スラムダンクの主人公たちが所属する湘北高校バスケットボール部の副キャプテンに小暮公延というキャラクターがいます。彼は副キャプテンながら途中からベンチを温める存在となりましたが、私の身にもその木暮と同様のことが起こりました。ですから当時は彼に非常に感情移入していた記憶があります・・・今思い返しても、悔しい!!!
2. 「社長業の原点」生徒会活動
中学から生徒会を経験。高校では、生徒数1,200人を誇る学校の生徒会会長や文化祭実行委員長を務めました。 当時、福島県の県立には共学校がなく、母校が県内初の共学化を実現。第一期生ということもあり、多くのメディアから取材を受けました。 この一連の経験は、責任感や使命感を養うと共に、大きなプレッシャーや達成感を知るキッカケとなりました。これが私の社長業の原点であったと思います。
3. ファッションへの情熱とマーケティングの発見
生徒会長として奮闘した高校を卒業し、大学入学のために上京した私。引き続き真面目に学生生活を過ごすのかと思いきや・・・実際は、読者モデルとしてファッションに明け暮れる日々となりました。いわゆる「大学デビュー」です。
当時は『CHOKI CHOKI』という原宿系雑誌が大人気で、特に専属読者モデル【おしゃれキング】が圧倒的な人気を誇っていました。(同世代の皆さん、懐かしいですよね!)私も例に漏れずに憧れ、なんとしてもCHOKI CHOKIに載りたい・読者モデルになりたいと願うようになりました。
しかし、そこには大きな壁が。当時、男性のファッション系読者モデルの多くは服飾や美容専門学生・美容師・アパレルの人ばかりで、大学生は皆無(ヘアモデル除く)でした。 さらに、福島の田舎から出てきた私には編集部の人たちの目に留まるような光るセンスもなく、スタイルも良くない。情報もない。金もない。
でも、できることをとことんやってみようと悪戦苦闘の日々が始まりました。
読者モデルの登竜門であるファッションスナップ聖地、原宿。原宿のスタバでバイトをし、学校も原宿を経由して通い、1年365日のうち300日は原宿に通いました。 街ゆくおしゃれな人をウォッチしたり、おしゃれなショップや古着屋をひたすら探します。 残りの日は中目黒、高円寺、下北沢、大阪アメ村などのファッションエリアに行き、違う角度からのおしゃれを勉強しました。そして、毎日毎日、穴が開くほどファッション誌を読みまくります。
そんな生活を繰り返している時、あることに気付きます。 当時、原宿のGAP前(現東急PLAZA)では、連日、雑誌社によるファッションスナップが行われていました。注意深く観察していると、時折、季節外れな格好をしている人たちが現れるのです。そこで私は気づきました。
「なるほど、この人たちは今ここで声をかけられたのではなく、事前に雑誌社から呼ばれて来ているんだな。今日撮影したスナップが発売されるのは数ヶ月後。街行くおしゃれな人たちを見渡しても、次シーズンの格好をしている人は皆無。つまり、雑誌社が次に打ち出したいトレンドを押さえつつ、次のシーズンを先取りした格好をすれば、声をかけてもらえるかも!」
3Cです。そう、マーケティングです。
もちろん、当時の私はマーケティングなんて知りません。圧倒的に不利なスペックである自分のKSF(成功要因)は、戦略を描くことと差別化にある、と気付きました。この経験が後の社会人生活や起業してからも非常に活きています。 試行錯誤を繰り返し、結局、原宿系雑誌の読者モデルとして4年ほど活動しました。肝心のCHOKI CHOKIでは、おしゃれキングには届きませんでしたが、おしゃれキングとスタップ常連組の中間に位置する、おしゃれ達人というランクまでは到達することができました。
ただ、一方でおしゃれキングには絶対に越えられない壁も感じていました。どんなに努力しても届かない苦しさや悔しさ・・・だって、生まれ持ったモノやセンスが違い過ぎるんだもん。 自分には食べていくことすら難しい世界があること、努力しても越えられない壁があることを見せつけられ、自分の適正に合った舞台で勝負することの大切さを学びました。悔しさをバネに、社会人になったら自分に最適な舞台で挑戦しようと決めました。
4. ギャンブルで勝負勘を培う
ファッションと同じく、学生時代にどっぷりハマったのがパチスロと麻雀。
・・・なんて書くと本当にしょうもない感じがするのですが、この経験が後の投資への心構えの原点になっています。
当時のパチスロは4号機全盛期で、大花火が爆発的な人気を誇りました。その後、AT機が生まれ、獣王、アラジン、猪木、北斗、等々、数々の名機にお布施しました。 麻雀にもハマりまくり、友人たちと連日、徹マン。最初はカモられまくりましたが、徐々に勝つことが増え、負けることも勉強代ということを学びました。 投資も最初は負けるかもしれないが、後から勝てるようになれば良い、と考えられるようになったキッカケです。このギャンブルの経験がなかったら、今の私の資産は築けていなかったと言えます。
以上が、私、佐久間の学生時代までの経歴です。長くなってしまったので、社会人としてのキャリアや現在の活動については次回以降に紹介したいと思います。
5.自己紹介 続編②〜⑤
自己紹介②
『美容業界での起業に至るまでの道のり』
自己紹介③
起業後の初挑戦:シンガポール進出
自己紹介④
目の前の友人を救うことが東北一番の起点に