見出し画像

3月11日 

あの日は茶道の研修会だった
ビルの上の方にいたからか
なんだか少し体が揺れた気がした。

研修会を終えた私に
夫から電話が。

「すぐ家に帰ってテレビをつけろ
東京の息子たちは大丈夫か」

テレビをつけたそこには
この世と思えない
あの津波の光景が広がっていた。

映画の世界ではない
恐ろしさと悲しさで
体も心も固まり
ただただ涙した。

悲しくて辛く苦しい日本が始まった。

長男の住んでいた場所は
地盤が強いのか
ほとんど物も倒れず
普通に過ごせていたらしい。
違う次元の人間だからか。

次男は就活中で
お台場の高層ビルの上層階にいた。
地上までひたすら階段をおりて
テレビで見たあの帰宅難民となった。

その後、アメリカに住む友達が
メールをくれた。
日本は放射能でもうだめだから 
脱出したほうがいいよと。
アメリカの人達は離れるよと。

あわてて長男達に連絡をした。
すぐにこちらに帰りなさい。
もし帰れないのなら
必要な食料等を買いだめしなさいと。

東京の大学に出すにあたり
日頃から地震への備えについては
言っていたのだが
なかなか守ってはくれない。

でも息子に言われた
お母さんのような考えの人がいるから
殺到して物はなくなり
必要な人の手に入らないのだよと。
子供達の方がしっかりしていた。

我が子の事しか考えれなくなっていた。

それから次男の就活はストップになり
長男と実家に一度戻って来た。

次男はその後
就活を再開し
損害保険の会社に就職した。
新入社員研修で一年後の被災地を訪れた。

長男は大学職員になり
その後学生を連れて
ボランティアで2度
被災地を訪れた。

彼らの目に心に
何がうつり何が残ったのだろう。
彼らはその時のことを
あまり語ってくれない。

あの日から日本人は
変われたのだろうか?
私は変われたのだろうか?

12年たった今日
もう一度考えてみよう。

震災で亡くなられた方々の
ご冥福をお祈りいたします。




いいなと思ったら応援しよう!

saku
よろしければサポートをお願いします。いただいたサポートは若いクリエーターのサポートに使わせてもらいます。愛の循環をありがとうございます。