【註解】5年ランドリー

 決勝ジャッジも決まったので、こちらに5年ランドリーをテキストでのっけます。「註解」とは書きますが、あまり野暮なことはしたくないので、用語解説程度です。

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 5年。ノヴォシビルスク*1ではあっという間だ。隣の家のコーリャが駆け出して、階段の上から下へジャンプする、たったそれだけの時間だ。
 わたしたちはチャイカ*2のコインランドリーにいた。初めにそれを見つけたのはヴィーチェニカ*3で、サイのような洗濯機だった。わたしは「サイみたい」と口にした。わたしは思ったことをすぐ口にする癖がある。ヴィーチェニカは、「犀の角のようにただ独り歩め」*4と返した。彼はそのころ初期仏教に傾倒していた。洗濯機は灰色で、のっそりとしていて、おまけにイタリア製だった。イタリアについては多くは知らない。アドリア海、ワイン、裏切者*5。「裏切者」とわたしはまた口にして、ヴィーチェニカは「そうだな」と呟いた。
 その洗濯機はダイヤルが「5年」まであった。10分、30分、1時間、その次が、「5年」だった。ためらわず、ヴィーチェニカはダイヤルを「5年」にあわせた。がたこととと音を立て、洗濯機は回り始めた。コインランドリーの椅子には三つ子のような老婆たち*6がかけていて、おしゃべりに興じている。冬の寒さ、旦那のウォトカ、ペレストロイカ。脈絡のない会話はぽんぽんと、きれいできたない床を跳ねて、あちこちにあたってはかえっていった。わたしたちはそれを受け止めるでも避けるでもなく、サイのような洗濯機の、潜水艦のような丸い窓を覗いていた。靴下、肌着、ワイシャツ(これはヴィーチェニカのお兄さんのおさがりだ)、わたしのワンピース(伯母さんがつくってくれて、水色の魚が泳いでいる)、タオル、ブラジャー、その他クローゼットにしまわれていたたくさんの服たち。ぐるぐると絡まり合って、回っていた。だけどいつまで経っても、ダイヤルは減らなかった。わたしたちは家に帰り、ありったけの毛布にくるまって、裸のまま抱きあって眠った。
 次の日にコインランドリーを訪れたが、サイの洗濯機はまだぐるぐる回っていた。「イタリア人にしては働き者だ」ヴィーチェニカはははっと笑った。「わがソヴィエトには敵わないだろうが」。もちろん冗談だ。彼は冗談と格言が好きなのだ。会話の3ラリー目ぐらいにはいつもどちらかが飛び出す。でもわたしはいつも、そのラリーを受けるわけではない。ぽんぽんとサイの洗濯機を叩き、「止める?」と訊いた。ヴィーチェニカは首を振った。
 わたしたちは服を揃え直すことにした。肌着は妹のダーシャから譲ってもらった。ブラジャーは、イゴールおじさんのお店の行列に並んでいたら、ハムとリンゴの間で売られていたのでそれを買った。ワンピースだけは、伯母さんの工房(マスチェルスカヤ)*7でいちから仕立ててもらった。
 伯母さんはいちまいいちまい布を手繰った。工房には様々な布が、カンブリア紀の海のように原初の色で揺蕩っていた。この時代にこれほどのものを見られる機会はそうそうない。戸棚には、十人の子供たちと髭もじゃの夫の写真、それから〈母親英雄(マーチ・ゲロイーニャ)*8〉のメダルがあり、みな揃って、裸電球に鈍く重苦しく光っていた。「ヴィーチャとは結婚しないのかい」と伯母さんは訊き、わたしはそれに「伯母さんはどうして結婚したの?」と問い返す。「時代だからさ」と伯母さんは答える。「私たちが本当に結婚したのはあの髭面*9じゃないんだよ」
 伯母さんは赤と白のストライプの布地を選んだ。眼の底に張りつくような濃い色だ。「お前はダニエラ・ビアンキ*10みたいだからね」。彼女はしごく真面目な顔で言う。足踏みミシンがかたかたと生き物のように動く。働き者で従順な生き物だ。「お金は要らないよ」出来上がりを渡しながら伯母さんは言った。「代わりに私の葬式に着ておくれ」。それはしごく真面目な顔だった。
 ヴィーチェニカは古めかしいツァーリ・グリーン*11の軍服をどこからから調達してきて、これで十分だと言った。わたしたちは、部屋の大きな鏡の前に立った。「サマになってる」わたしは微笑んだ。「時代の再構築だ」ヴィーチェニカは厳かに言った。「民主主義、平和、新しい服、加速」*12。もちろん、冗談だ。
 5年。ノヴォシビルスクではあっという間だった。コーリャは階段の下をもう駆け出している。そのうちどこか遠くの国へと派兵されるだろう*13。5年。カササギが枝から枝へと飛び移るだけの時間だ。行列に並び*14、配給券を後生大事に握り、砂糖や小麦粉をめいっぱい抱え、また行列に並び、古い国の名前をそっと工房のメダルの奥にしまった。葬式にはダーシャから借りた少し大きな黒い服で土をかけ、赤と白のストライプはジャガイモの大袋ととり替えられた。ヴィーチェニカはアメリカへと旅立っていった。「必ず帰ってくる」彼はそうわたしを抱きしめた。あのときの大きな鏡に、彼の背中に手を回すわたしの顔だけがうつっていた。
 久しぶりにサイのコインランドリーを訪ねると、店はなくなり、公園になっていた。すべり台、シーソー、奇妙な動物の乗り物。短い夏の空の下、小さな子供たちがぐるぐると走り回り、母親たちはおしゃべりに興じながらも、ときおり目を細めて自分の娘と息子の姿を確認している。どこかへ消えてしまわないように。どこかへいつかは消えてしまうのがわかっているかのように。
 ひとりの少女はワンピースを着ている。ワンピースには水色の魚が泳いでいる。わたしはそれを見ている。「見ているだけだ」わたしはそう、口にする。

*1 「シベリアの首都」と呼ばれるロシアの一大都市のひとつ。「新しいシベリアの街」の意。Novaから来てますね。「五か年計画」で重要な都市の一つだったようですが、坂崎はまじでこのことを知らず、皆さんに指摘されて、「いや、そうなんすよ…」みたいな顔して黙ってた。

*2 モスクワで最初のセルフ式ランドリーの店名。「かもめ」の意。実際にノヴォシビルスクがそうだったかはちょっと不明だが、コインランドリー自体はあったそうだ。以下の記事を参照した。ちなみにイタリア製のサイのような洗濯機は存在しない。
https://jp.rbth.com/lifestyle/85321-soren-sentaku-jijo

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*3 Виктор(ヴィクトル)の愛称。いくつかのサイトを参照した。伯母さんの言う「ヴィーチャ」も同じ。ヴィクトルは「勝利」の意。

*4 『スッタニパータ』より。スッタニパータは、セイロン(スリランカ)に伝えられた、いわゆる南伝仏教のパーリ語経典の小部に収録された経のこと(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%8B%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%BF
 「犀」という項目があり、その各文に締めの言葉みたいに出てくる言葉。

35 あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きもののいずれをも悩ますことなく、また子を欲するなかれ。況や朋友をや。犀の角のようにただ独り歩め。
36 交わりをしたならば愛情が生じる。愛情にしたがってこの苦しみが起こる。愛情から禍い(わざわい)の生じることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。

を参照した。

*5 第一次大戦でイタリアはドイツ・オーストリア=ハンガリーと三国同盟を結んでいたが、ロンドン秘密条約の存在により、連合国側に参戦した。
 第二次大戦では、ムッソリーニの独断的な宣戦布告でドイツ側についていたものの、グランディ決議によりムッソリーニは失脚、イタリアは降伏した。

*6 『マクベス』の3人の魔女より。

*7 1930年代から「アトリエ」や「工房」と呼ばれる場所が国営や協同組合経営で存在し、特にアトリエは美容院やクリーニングなど、日常サービスを提供する場所であった。工房はどちらかというと修理に近い意味合いもあったようだが、厳密に区別はできない。1960年に「日常サービス管理局」が創設されると、両者はその管理下に入る。多くの人にとってアトリエは晴れの日の服を拵える場であった。
 そのため、厳密に言うと伯母さんの「工房」は地方組織によって管轄されていないので、個人の仕立て屋に近い。建前は個人が内職で裁縫をすることは違法であったものの、敷居の高いアトリエに比べ、一般市民はこの仕立て屋を利用することが多かった。アトリエの職人が副業として個人の仕立て屋を営むこともあったようである。伯母さんは元々この職人であったか、「工房」は愛称のようなものだったのだろう。
参照:「1950 ~ 60 年代のソビエト・ファッション」藤原克美 2013

*8 ソ連、というか、旧共産圏の国々は家族は労働力の生産と考えており、産めよ増やせよ的な政策がとられていた。「母親英雄」は、10人以上産み育てた母親に贈られるメダルで、1944年に制定され、1991年のソ連崩壊に合わせて廃止された。ただし旧共産圏の民法などに関する規定は廃止や改正が細かに繰り返されているので、全貌はつかみにくい。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%8D%E8%A6%AA%E8%8B%B1%E9%9B%84

*9 そういえばスターリンも髭が特徴的。

*10 イタリアの女優・モデル。代表作は007シリーズの『ロシアより愛をこめて』(1964)。ビアンキはソ連の諜報部員役だった。ちなみに当時のソ連では海外の映画を観るには海賊版を入手するしかなく、伯母さんはそんなようなルートで観ていたのだろうか。

*11 ロシア帝国時代からある深緑色の軍服。

*12 1987年のロシア革命70周年記念の軍事パレードの際、ロシア語で「民主主義、平和、ペレストロイカ、加速」と書かれた大きな立て看板がグム(国営百貨店)に立てかけられ、テレビ中継でアナウンサーが読み上げた、とウィキペディアに書いてあったのでそれをもじったが、今さらロシア語で検索すると、スローガン的には「Перестройка, гласность, ускорение, демократия(ペレストロイカ、グラスノスチ(情報公開)、加速、民主主義)」が一般的で、ちょっと間違えたかもしれない。ソビエト時代は多くのスローガンが発明され、それを揶揄するようなものも市民の間に広まった。

*13 ソ連崩壊後の海外での戦争というと第一次チェチェン紛争がある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%B3%E7%B4%9B%E4%BA%89

*14 ソビエトといったら行列という感じがある。
https://jp.rbth.com/history/82842-soviet-renpo-de-hitobito-ha-nan-ni-gyoretsu-wo-tsukutta-no-ka

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【補記】
 「5年」という短い期間を考えたとき、ソビエトの最後の5年間の密度は本作には適していると考えたが、指摘もあった通り、果たしてその地と関係のない人間が、彼らの時代をそのように切り取ってよいものか、というところは批判的に考えられてしかるべき部分と思う。私は遠景にそのような手法を使うことが多く、今回はいろいろ考えさせられた。