芥川賞候補作家が芥川賞候補作を全部読んでみた
坂崎かおる『海岸通り』(文藝春秋)は、第171回芥川賞候補作になっている。
いろいろな予想合戦を私も見ているが、「候補作家が候補作を読んだらオモシロじゃん?」と思い、せっかくなので全作読んでみた。だって、候補作家として候補作を読めるのは、今だけ*1、世界で五人なんだぜ…!
*1 受賞作が決まってからでも読めるが、自分が落ちた後に読むと虚無感がすごそう。
なんでこういうことをするかというと、芥川賞に限らずだが、候補作発表当時は話題になるけど、そこから先は特に何も起こらず、空白の期間が存在するのがどーかなーと常々思っている。
特に、雑誌媒体しかない芥川賞は、過去単著でもなければ書店でも展開しにくいわけで、もうちょい出版業界できることあんじゃないの?という気もしているからだ。賑やかしのひとつにでもなれれば本望である。
というわけで、つらつら感想を書いてみる(読了順)。ネタバレばかりなので、未読の方はご注意を。
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朝比奈秋『サンショウウオの四十九日』(新潮2024年5月号)
もともと下馬評の高かった作品だ。「シャム双生児的な話…? オモシレーじゃん」と斜めに構えて読んでみたが、
お、おもしろじゃん……
結合双生児、と言っても、外見として二人繋がっている、というわけではなく、「頭も胸も腹もすべてがくっついて生まれた」ために、見た目はほぼ一人の人間として、内的に二人同居しているという感じ。実際に症例としてあるのかまではわからないが、大胆なテーマにとりくむチャレンジングな内容で、そしてしっかり面白い。「あなたの燃える左手で」もそうだけど、自我と共生する他者、みたいなところに作者の興味はあるのかもしれない。
杏と瞬、という二人の女性が交互に語るのだが、杏の言う「単生児」という考え方が興味深かった。「意識はすべての臓器から独立している」ために、「単生児」、つまり通常の人間たちはそこに気づかず、真の主客の弁別という領域に辿り着けない。センセーショナルな題材を選びながらも、ある意味で古典的な意識の主従の物語として深めていく手腕がすばらしかった。こんなの書けるのズルくない…?
しかし、しかしだ、ラストのザリガニ描写は、ザリガニ警察として気になる。主人公が、池に「無色透明」の「五センチほどのザリガニ」を見つけ、「まだ生まれたばかりの幼いザリガニ」と思うのだが(物語的にも生まれたばかりである必要性がある)、本当に生まれたばかりのザリガニは1センチに満たないぐらいなので、「五センチ」ぐらいまで成長するには既に数週間過ぎているはずだし、小さなニホンザリガニであれば成体に近いサイズだ(アメリカザリガニだと思いますが)。5センチぐらいまで成長したザリガニのあの色を「無色透明」と言っていいのかどうか、知りたい人は検索してみてくれ。灰色っぽいし、透明、といえばそう見えるけど…。
「歩くたび、ハサミが上下に揺れる」という表現もやや気になる。藻の上を歩いている様子を見たことがないので一概には言えないのだが、あのハサミも脚のひとつなので、歩くときは他の脚のように、左右交互に地面をつきながら歩く(場合が多い)。もしくは上部に固定したまま歩く姿も見たことがあるが、この表現だと、両のハサミが同時に体の動きにあわせて(バンザイ三唱みたいに)動く感じを想像してしまった。他のザリガニ好きたちがここらへんをどう思ったのか気になります。
というのは、私がザリガニが好きだったので気になったどーでもいい部分なので、まったく作品の瑕疵ではない。ぐぬぬぬ…と唇を噛んだ作品でした。
松永K三蔵『バリ山行』(群像2024年3月号)
登山の小説は数あるけれど、あんまり自分に馴染みがないからなぁ…と思いながら読んだ。
くー、おもしろい…
バリエーション登山、略して「バリ山」。通常の登山ルートから外れて開拓する、という物語。やたらと仕事パートと登山パートの描写がこれでもかというほどシツコクてよかった。特に、バリをする妻鹿さんと初めてバリを体験するときがいい。とにかく長い。たぶん、普通の作家ならここを半分ぐらいで納めちゃうのだろうけど、これでもかと行程が続く。主人公の波多のゲンナリが読んでる方にも伝わってくる。読む人によってはこのシツコサが合わない人もいそうだけど、これは、仕事の描写と相まって必要だろうと思う。
男性が主人公の小説としても秀逸だと思っていて、妻鹿さんの勝手さが目立つけど、波多もかなり勝手なんですよね。ちっちゃい子供がいるが、育児の様子はほぼ描写されず、土日ワンオペで任せきり。社内政治的に登山に参加するのもわかるけど、挙句にケガして帰ってきて、まあよく怒られんわ。妻鹿さんへの波多の冷ややかな視線は、読者からするとカウンターとして返ってくる部分があり、そこらへんも計算されているなと思った。
何より文章が候補作の中ではいちばん落ち着いてて、私好みだった。ぐぬぬぬぬ…
尾崎世界観『転の声』(文學界6月号)
天は二物を与えずというが、「やれやれ、アーティストですか…」と読み始めたが、
めっちゃオモロイやんけ…
と呟いてしまった。天め…仕事しろ…
普通に設定が面白い。主人公は中堅程度のバンドのボーカルなのだけれど、この世界では、「転売」に市民権があり、どれだけ高く転売されるか、「プレミア」がつくか、というしのぎを削っている、みたいな物語。トンデモ設定っぽいのだけど、それに対して反対する人とか、ファンの書き込みとかのバランスがよくて、中編にしてはかなり長いのだけどするする読めてしまった。ちょっと直木賞っぽい。
とにかく、SNS関係の描写がリアル、というより、真に迫ってる。エゴサのしすぎで指の脂がなくなるとか、エゴサキーワードの選定とか、どんなコメントに傷つくかとか、作者と作品は別ながら、「こんなこと思ってたんか…」と感じてしまう、ファン的にはどう考えるのか興味まで湧いてくるような圧巻の書き方であった。ファンのそれぞれの書き方も、ぜんぜんそういった界隈に縁のない私ですら、「ありそうやねえ」と思えてしまう書きっぷりがすごい。もちろんこれは作者の経験が反映されていると思うのだけど、だからといって自然にこういうことが書けるわけじゃない。王様だけが王様を真実に書けるわけではないように。
というようなこともあり、読んでいる間中、私はずっと田山花袋の「蒲団」を思い出していた。とにかく主人公の以内右手が、最初から最後まで自分のことしか考えていないのがとってもよかった。「蒲団」の竹中時雄もたいがいなクズであったが、以内くんもなかなかヒドイ。客について「どんなに仲良くなった相手にでさえ、決して下の名前では呼ばれなさそうな顔の女」「「く」の字」とか、蔑称がすごい。そして、バンドのはずなのに、以内くん視点の他のメンバーの様子はぜんっぜん描かれない。すさまじいまでの自分本位。そして、『バリ山行』の妻鹿さんとはまた違い、自分本位故のプライドとかそういうのもない。敢えてだと思うけど、以内くんに魅力が出ないように出ないように調整して描かれているところもいい。花袋の作品は、今では本当に評価されないけど(文庫解説ですらけちょんけちょんだ)、あの骨格を現代に踏襲し、あえて作家と作品の重ね合わせをさせることで真実と虚構の曖昧な声となり、ひとつの叫びのような物語となったのでは、と感じる。当事者性、というものを逆手にとったような、食えない作品だ。ぐぬぬぬ…
向坂くじら「いなくなくならなくならないで」(文藝2024年春季号)
いつもは詩のフィールドで活躍されている方の初小説ということで、どんなもんじゃいと思いながら読んだのだけど、
すごい…
と読み終わったあとに思わず漏らしてしまった。そして、このすごさをちゃんと表現することは難しそうだなと思った。
時子のもとに、学生時代に死んだはずの朝子がやってくる、という感じで始まる。幽霊なのか実在するのか不明なまま話が進み、定石どおりであれば、いったいどっちなのかというところに主眼が置かれるのだろうが、この物語はそうは進まない。そう、この小説はずっと定石を外し、そしてその外し方が上手い、というより、その外し方に新奇性がある、と感じた。
純文系であれば、この「生きてるのか死んでるのかわからない」状態はさほど珍しくないし、そこに明快な解決がうたれないこともママある。『百年の孤独』だって死者と生者は共存している。ところが、「いなく〜」は、途中で明確に、死んだのは朝子ではなく朝子の母親だという台詞が出てくる。ところがこれがまったく解決っぽくならない。朝子の存在はなぜか曖昧なまま、時子の実家に居候を続ける。見方を変えるとちょっとしたホラーだ。その朝子の存在により(それだけでもないが)、時子の家族は機能不全に陥り、時子は朝子がいっそ「幽霊」であればいいとさえ思い出す。現実的に考えれば傍若無人な朝子の存在を肯定し否定し、悪戦苦闘している時子はずっと揺れ続けていて、それは最後まで変わらない。物語的には、いくつかの波を経てどちらかに落ち着くほうが読みやすいとは思うのだが、朝子という生者でも死者でもある存在が常に現実をかき回し、それを許さない。
小説は読めば読むほど、「おそらく次はこういう展開だろう」と、いくつかの選択肢を頭に入れられるようになるのだが、この物語は読みながらずっと肩透かしをくらい続けている感覚だった。これは悪い意味ではなく、「朝子を生者にしたいか死者にしたいか」を、問われ続けているような気分で、その選択権を時子がもち、そしてそれを通して読者に語りかけられている感じだった。まさにこの不可思議なタイトル、いなくなくならなくならないで、である。ラストの取っ組み合いは殺し合いであり、ある意味で爽やかに終わった「サンショウウオの四十九日」とは別ベクトルの、凄まじい話であった。ぐぬぬぬ…
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という訳で四作品読んだが、世辞ではなく、どれがとっても納得できるようなものであった。少なくとも、自分のが落ちても、ベジータみたいに「カカロット、お前が…」と言えるだろう。
これだけだとちょっとつまらないので、最後に選考的な減点を考えていってみる。「サンショウウオ〜」は、二人の主人公の語り分けがちょっと無難で、「わたし」と「私」の書き分けでもって進むのだが、文学的冒険がないという評価になるかもしれない。「バリ山行」は題材も展開も(そしてラストも!)上手いのだが、そこらへんが既存の作品との関連を考えたときに、新奇性の低さとして捉えられる可能性もある。「転の声」は、ちょっとエンタメ要素が前に出てくるのと、後半の展開がどう評価されるか。「いなくなくならなくならないで」は、単純に今回の選考委員の先生方に合うかどうかがよくわからない。
とまあ、こんな感じで、唇を噛みしめながら読んでいった。傾向という程でもないが、今回の候補作は、作家の得意な領域で勝負してる感じはある。7/17がどうなるか、私も楽しみです。