敗者の弁(あるいは乗り合いバスの風景)
この文章を書いているのは結果前日の、11月27日土曜日に書いています。
まさか自分がBFCに出られるだけでなく、決勝戦まで残るとは、謙遜ではなく、本当にまったく思ってもいなかったので、なんだか今でも不思議な感じです。
決勝戦の作品は、実はもうひとつ用意して、ほぼ書きあがっていました。「塹壕掘りの日」というタイトルで、本当に塹壕を掘っている話です。今回のBFCの自分のテーマは〈時間〉で、「5年ランドリー」は過去、「フラミン国」は現在(とはいっても、実は正確に言うと現在よりも少し先の未来なのですが)、なので決勝作品は未来を描こうと考え書きました(これも正確に言うと未来から浮かび上がる現在なのですが)。
しかし、それを捨ててまで「泥棒コロッケ」を書いたのは、主に二つの理由があります。
①決勝戦の相手が「短歌」という韻文であったこと
②「解釈」に対する挑戦
です。
そう、これは敗者の弁です。結果が出る前ですが、なんとなく私には結果がわかります。それぐらい「気持ちじゃなくて」はよかった。それでもっていろいろ書くのはちょっとかっこわるいのですが、でもたぶん、BFCという場にも関わってくることだと思うので、恥を忍んで書いてみます。
①決勝戦のあいてへの意識
いくつかTwitter上で、今回のBFC3は「優等生」のような印象だったという言説を見かけました。もちろんそれは揶揄するものではないことは承知の上で、私も似た印象を受けていました。タイマンボクシングで殴り合うというより、空手の型を見せ合って優劣を決めるような、そんな印象です。
それはそれでいいとは思ったんですが、やっぱりなんかちょっと面白くないなと思いました。せっかくBFCという「場」があるのだから、決勝の相手が短歌だとわかった時点で、相手の土俵に立って戦ってみたいなという欲が出たわけです。でも、よんだこともない短歌で勝負するのは相手にとっても失礼です。そこで、散文の中に韻文、というよりは、現代短歌のもつ属性を付与できないかと考えました。
手触りのようなものは感じていたものの、うまく言語化できなかったのですが、ちょうど阿瀬さんが挙げておられた、花山周子氏の「現代短歌の両義性とは一体なんなのか」という評が私の感覚にいちばんあっていました(後付けにはなりますが)。
花山氏はその中で、「アイディア短歌」という香川ヒサ氏の言葉を取り上げています。例えば、
・もみの木はきれいな棺になるということ 電飾を君と見に行く
大森静佳
という歌があります。クリスマスツリーを「棺」と称する「アイディア」を、下の句が少し離した感じで受けています。技巧的でありながら、そこにはある種の切実さが歌の全体に感じられる。この「観念性」を、花山氏は「現実を感覚する人の姿」と書いています。
素人意見を承知の上で、左沢森氏の歌は、全体的には上述の感覚と似ているのではないか、と感じました。歌の中心に「アイディア」があり、それを観念的にまとめていく。特に氏の作品は、(ときに都市性と関連する)固有名詞(フィッシュマンズ、ハーバード、山手通りなど)をレトリックとして、そこから組み立てることで感覚を積みあげていく。
ならばと、私は「コーギー」を作品のアイディアとして立ち上げました。冒頭、「須くコーギーはカニクリームコロッケになるべし」という「出来損ないの自由律俳句」は、この決勝戦に向けての私の宣言、マイクパフォーマンスのようなものです。あとの解釈は個々人に委ねますが、個人の物語に収斂させ、そこに固有名詞の両義性を散りばめ、都市性を付与させることで、今までの作品との切り離しをかなり意図的に行いました。その点を、橋本さんが、「ジャズのソロセッションからアンサンブルへの移行」と評してくださったのは、もう本当にうれしかったです。作品はいつでも発表できますが、今回のような「場」に提供できるのは、この瞬間を除けば、未来永劫訪れないからです。
②「解釈」に対する挑戦
もう一つは、BFCでの作品の読まれ方についてです。
特に私の作品についてですが、いわゆる「メタファー」としてとられることが多いなとは思いましたし、もちろんそれを意識して書いている部分もあります。ただそれは知的な好奇心を呼び起こすものの、どうもそれが作品の「価値」のように思われていくのはちょっと違うかな、と2作書いて反省をしていました。「作品の深度」に関する古典的な問いです。6枚という短いレギュレーションにおいて、十三不塔さんが仰られていたような「黙説法」はかなり有効ではあるのですが、散文の価値はそこだけではないだろうという思いです。それは「ジャッジ」が点数をつけるというルールにおいては、有り体に言えば有利に働く部分だとは思ったのですが、漠然とズルをしている気分にもなりました。
「泥棒コロッケ」は、ともすると「回復と再生」の物語に読めます。大事な恋人?を失った「私」が、やや非日常的な体験を通し、最後にそれを手放すことで日常に回帰していく。散りばめられた要素もそれを支持しているように見えます(コーギーとスミコの関係、「カリカリ」、「私」の散歩コースの選定の仕方)。そしてそれは決して間違いではありません。でも、そういう「解釈」をしだすと、ちょっとすわりの悪さを感じるような書きぶりにしました(グーで殴る意味、「未完」の物語の立ち位置など)。
実は、出来事レベルに立ち返ってみると、「私」の行動はかなりヤバいです。「私」はコーギーを盗み出し、勝手に散歩に連れ出し、荻田くんをグーで殴り、許可もとらずに毛を飼って、リードを離してしまいます。〈スミコが消えた〉という出来事と、呪いのように彼女が残した自由律俳句が、「私」の行動を規定していきます。「私」は信頼できない語り手です。そして「私」は、コーギーを盗むという〈泥棒〉から、最終パラグラフ、「すべてよこせ」と「脅して袋に詰める」〈強盗〉へとランクアップします。「私」の現実は、出来事ベースで考えていくと、現実に戻れておらず、むしろ悪化しています。深層では「私」はそれを理解している。だから「私」は言うのです。「そんなことはわかっている。わかっていたのだ」。この物語のストーリーラインは何層かに分かれており、そこが読み方によってごちゃまぜになることで、作品全体の〈すわりの悪さ〉につながっています。出来事のレベルと「解釈」のレベルの乖離が作品に描かれた時に、読者はどのような読みとりを行うのか、それが今回の私の実験でありました。ただこれは作者の「意図」であり、結果的にはどのような形の意味も読みとれるテキストにはなっていると思います。
私たちは無意識的に、現実と物語を分けて考えています。それは、子供がいちいち昔話につっこまないのと同じです。ただ、要はバランスの問題で、テキスト主体の「解釈」ばかりに目がいってしまうと、作品の出来事への目配せがおろそかになってしまうのではないか、ということです。いい悪いの話ではなく、「決勝に残るのはこんな作品だ」と路線が決まっていってしまうのは、個人的には嫌だなあと思ったわけです。
とまあ、こう長々とエクスキューズを書かなければいけない時点で、この作品には欠陥があったということになります。矛盾するようですが、やはり「テキスト」から読み込めない作品は作者の力量が足りていません。というか、やっぱり「気持ちじゃなくて」はよかった。心が震える体験でした。
BFCは乗り合いバスに乗っているようでした。勝った負けたというよりかは、みんなそれぞれ、自分の目的地のバス停で降りていった感じです。最後までご一緒できて幸福でした。もう一回やりたいかと言われると、正直かなりきつかったので考えちゃうんですが、願わくはこのような場がまだ続けばよいなと祈っております。