話したいことを話すには何か足りない
このnoteを開いてから、もうずいぶん時間が経ったんだ。オリンピックネタで騒いでいるはずだったのにな。
それはさておき、昨日の話をしたい。
月曜のクラスの頭に、いつもの雑談タイムで週末飛んで来た三浦春馬のニュースの話になった。
私は著名人に敬称をつけない。ぼちぼち年齢的に「くん」や「ちゃん」ばかりつけることになってきたし、「さん」はわざとらしい感じがするし、そもそも何もつけない方が大物感がある。その方が信長みたいでかっこいいと思うからだ。
というわけで、三浦春馬の話になった。このクラスは三十代がひとり、残りは四十から六十代の女子部で、彼を好意的に知ってきたメンバーと、ほとんど何も知らないメンバーに二分された。私は恐らくその中間である。
知ってるチームは、大変なショックだと、彼の良さとこれまでの仕事ぶりを語る。知らないチームは、分からないなりにその話に付き合う。
私は正直「ここで時間をかけてする話なのかどうか」ばかり考えていた。この事件のニュースは土曜の午後に「配信」され、私はツイッターで知ったのだけれど、あのバズり方は異様だった。
確かに、一報を見た瞬間には「ぅえ!?」と思わず声が出てしまった。それくらい、素直に意外すぎる「ニュース」ではあった。
けれど、ニュースとしては、そこまでで、事実を認知した後には「なんの詳細も分からない」という、ことしか分からなかった。むしろニュースなので、それでよい。
その後の掘り方が、異様だった。
suicidal とか kill -self に相当する単語がトレンド入りすることをよしとしない大人と、そうしたセンセーショナルな見出しなしには本文を読もうともしない視聴者やネット民と、どんな方法を使ってでも記事を読んでもらわなくては生きていけない作り手とが、あちこちで小さくぶつかり合って、スパークしている。
その火花があちこちに飛ぶのだけれど、大ニュースというには何かが足りず、燃え広がるとまではいかない。あちこちに中途半端な焦げ目だけが残って、そこにまた大人たちが細い線香か何かで一生懸命に火を付けているように思えた。
と、こうして書ける。今ならば。
昨日のわたしは、全然ダメ子だった。講師としても、人間としても、発言のすべてがいちいちイけていなかった。
ほぼこれと同じ趣旨の話をしたのだけれど、まず英語で分かりやすく伝えられる気がしなくて、その努力もせずに日本語でまくし立てたこと。そして、勢いで(彼を好み、高く評価する方の前で)大したニュースじゃないのにさ、的な発言をしたこと。
結果的に世を去った若者に悪いことをしてしまったような気がして、帰ってからずっと気分が悪かった。
なんだろう、話したいことを自由に話してしまう苦しさについて、考えることが増えてきた。更年期のせいだろうか。それともシャムズというやつか。
話したいことを話せるように、日本語を学んでいる。話したいことを話せるように、英語を学んで、教えている。
それなのに、話したいことを話すには、まだ絶対に何かが足りていないと感じる。
それは、落ち着きなのか、語彙力なのか、文法や語順を駆使する構成力なのか。「撮って出し」をしない、反芻力か。
ここで書きながら、少し考えたいと思った。
書かなければ、書けるようにはならない。