10歳の原点
「なんだ?」「すごい」「カッコいい!」
小学四年生の私が駅前のLL教室に通い出して、少し単語が分かってきたころ、アメリカ人が教室にやってきた。年に2回か3回の「特別レッスン」の日だ。
LL教室というのは、昭和の首都圏にたくさんあった旺文社の英語教室で、LLはラーニングラボラトリーの略だった。フランチャイズではなく、直営だったように記憶している。
初級クラスの担当は美人のミス・タカハシ。20代半ばの、中山美穂を少し外国風にした感じのお洒落な女性だった。
今ならきっと、先生と生徒でもお互いを名前で呼び合うのだろうけれど、当時の英語教室では、先生は皆「ミス・苗字」で呼ぶことになっていたようで、下の名前は思い出せない。
ミス・タカハシのレッスンは、あいさつや歌、キーフレーズの暗唱を英語で進め、指示の通りにくい部分は日本語で説明する。当時のごく一般的なスタイルだった。
発音がキレイだな、とは思ったものの、宿題として聞いてくることになっているカセットテープの方が「本物」で、先生の英語はあくまで「先生の、教室用の」英語だと思っていた。
特別レッスンの日。いつもは姿を見せない外国人が教室に現れる、その日だけは、教室の一番後ろで保護者も授業を見学することができた。
雑居ビル三階の天井の低い教室に、体を折り曲げるようにしてやってくる彼らは、分かりやすく碧眼の白人であることが多かった。
窓のない細長い教室に、日本人のミス・タカハシとアメリカ人の英語が響き渡る。ミス・タカハシは、いつもよりハリのある声で、実に堂々と進行をサポートし、授業を進めた。
今にして思えば、若い彼女の声に異様にハリがあったのは、きっと緊張に違いないのだけれど、私たち生徒も、見学に来た母親たちも、その「堂々」に目を見張った。
日本人なのに、外国人と英語で渡り合ってる!
さらに圧巻だったのは、レッスンそのものではなく、滞りなく授業を終えた後の「雑談」の様子だった。
オーペラペラ、ヤーペラ、ペラペラアハハ、アハペーラ!
「なんだ?」「すごい」「カッコいい!」
何言ってるか全く分からないけど、なにやら「普通に」話している二人。完全に自然に、それもなごやかに、楽しそうに話している。
ミス・タカハシ、本気出したらメチャクチャカッコいいんだ!すごい!
ガーン!と漫画のようなショックを受けたのを覚えている。
このショックが、私の英語への憧れ、飽くなき好奇心の始まりだった。
とにかく、カッコよく!
ペラペーラ!
あんな風に音を出すぞ!
留学も仕事も、英語生活をいっさい経験しないままここまできた私。でも、いつだって心にはあの日のショックが残っている。
私もあんな風に、誰かの心に刺さってみたい、と思う。
だから私はいつだって、みんなに「ペラペラな感じ」を見せようと思って、レッスンをしているのだ。
そして、みんなにも「外国行かなくても、あんな風に喋れるようになるんだ」と感じてもらいたい、と思っている。
私はいつだって、目の前にいるみんなを、今よりカッコよく喋れるようにしたい!
そのために何ができるか、そればかり考えている(だから文法や綴りは、今でも同僚に直されたりしている。)
きっともう還暦を過ぎているはずのミス・タカハシ。中学に入るころには、いつの間にかLL教室を辞めてしまっていた。彼女はあの場所から、どんな道を歩いたのだろう。
いつか、うっかりどこかで会えるといいのに、と思う。知らん顔で「ハーイ」なんて話しかけたら、どうなるかな。
実は密かにあのアメリカ人と駆け落ちしていて、日本語はほとんど忘れてしまった、みたいなオチがいい。私は彼女に、これからもずっとずっと憧れていたい。