「猫を棄てる」は何のメタファーか
こんにちは。梅雨が明けたと思えば陽光が容赦なく照りつけ、ここぞとばかりに鳴く油蟬の声が染みています。
さて、村上春樹さんの作品で、今年に入ってから刊行されました「猫を棄てる 父親について語るとき」を読みましたので、想うところを書いていきます。
タイトル通りなので、ネタバレにもならないと思いますが、村上さんが少年時代に「猫を棄てにいった」エピソードが語られます。独自の文体で、情景が暖かく、くっきりと浮かんでくる様な描写です。
村上さんは、猫が好きで自身のことを「猫奴」と表現されたりもしています。そんな村上さんですが、なぜか父親と二人で猫を海岸まで連れて行き、さよならをしたことをよく覚えているのだそうです。
これがエッセイの導入となり、多くは父親についての回想、そして父親が生きた時代と、その空気を規定した戦争という事象について村上さんの言葉が丁寧に紡がれています。
私の勝手な村上さんへの観方なのですが、村上さんは一つ々の生命のエネルギーを大切に考えており、それが彼のどの作品を取っても基底にも流れている、と想っています。それに対比されるのは、「システム」であり「社会通念」であり、コントロール不可能な、その時代や周りの空気といったものです。
村上さんは小説家であり、自分の考えをオーディエンスに押し付けることは決して行いません。しかし、よく知られる「壁と卵」のスピーチにもある様に、ご自身の行動が社会に対してプラスに効くと推定される場面では、勇気を持って主張される一面もお持ちです。
自分で飼っているわけでもない、自庭に通うようになってしまった猫を棄てる行為は、「時代の通念」からすれば、ごく真っ当なことだったのでしょう。しかし、そう言った「意識なく、システムに嵌まること」を「軽やかに超越するもの」、しかも大きな力で打ち壊すものでなく、「ささやかだけれど変えられること」の象徴として今回の「猫」が描かれているように私は想います。これが、猫を棄てる行為のメタファーなのではないかと私は受け取りました。
8月は、歴史を振り返る上で、とても意味深い時節であると改めて思います。これは、戦後の広島計画を担当された丹下健三さんの著書を読んだ際にも強く感じたことです。
「猫を棄てる」はとても短い作品で、その余白ゆえに様々な読後感を残し、想像をさせるものです。気軽に読めますので、推薦いたします。