ボリウッドの「平和力」①
高らかに謳われる多様性の価値
《初出:『世界』2013年10月号(848号)、境分万純名義、
インド映画100周年に寄せて
ボリウッドの「平和力」――高らかに謳われる多様性の価値》
ハリウッドを超えた「ボリウッド」
今年(2013年)の5月3日、インド映画は100周年を迎えた。
前後して、インド娯楽映画輸入の分野で世界の後塵を拝してきた日本でもついに大手配給会社・日活が進出、インド映画界の主力・ヒンディ語映画界(ボリウッド)の大作4本を「ボリウッド4」と称して全国公開に踏みきった。
なかでも、5月18日に封切られた『きっと、うまくいく』(2009)は、「ぴあ初日満足度ランキング」で首位に立ったのを皮切りに上映館が急遽拡大され、観客動員数10万人、興行収入1億円を突破する大ヒットになっている。
インドの歴代興行成績1位(初出時)に輝くこの作品は、理工系の超エリート養成校・インド工科大学を模したキャンパスを舞台に、親や教師が押しつける価値観と、自分が本当にやりたいこととの狭間で試行錯誤する学生の姿を娯楽色豊かに描くものだ。
ボリウッドの定番市場である欧米にとどまらず、中国、台湾、韓国といった発展途上の市場である東アジア市場でも、特筆すべき成功を収めた。今回の日本公開でも、「インド映画のイメージが変わった」と感激する声が、観客のみならずメディアからも多いという。
今世紀に入ってからのボリウッドは、折からの経済発展に伴う投資環境の変化や中間層の台頭、複合映画館(シネコン)の増加などを背景に、伝統演劇に由来するフォーミュラ(歌と踊りがひとつの作品に6シーンほど挿入される)から完全に自由になり、テーマ選択も技術も著しく向上した作品が急増している。これにともなって、娯楽映画と芸術映画の境界も希薄になる一方だ。
この激変がまた、それ以前から米国ハリウッドを凌駕していた映画大国のプロフィルに上向きのベクトルをかけている。年間製作本数は世界最多の1200本以上(注1)、推定鑑賞人口はハリウッドのそれを10億人上回る36億人、輸出先は、近隣の南アジア諸国はもとより、英国、米国、カナダ、ドイツ、フランス、イタリア、ペルシャ湾岸諸国、東南アジア諸国、南アフリカ共和国など、100カ国をゆうに超える。
多様なインドの象徴
しかし、そもそもなぜボリウッドが国境を超えて広範に支持されるのか。とりわけ、ヒンドゥ教徒多数派の国・インドの映画がなぜ、ヒンドゥ教とは敵対的な感のあるイスラーム圏でも絶大な人気を誇っているのか。
それは、メディアにおける人種・民族偏見の研究で著名な米国・南イリノイ大学名誉教授のジャック・シャヒーン(Jack G. Shaheen: 1935-2017)が言う「200人のテロリストが10億人のイスラム教徒を代表しているかのよう」なハリウッド映画(注2)とは対極にあるからである。
ハリウッドになじんだ人がボリウッドに関心を寄せたとき、まず不思議に思うのは、パキスタンやムスリムをバッシングするような作品がほとんどないことだろう。
インドでは、特定の人種や民族、宗教などを攻撃するような映画は、中央検定委員会(CBFC)の検定を通らない、つまり商業公開ができない。
しかし、たとえそのような規制がなかろうと、ボリウッドがハリウッドの轍を踏むことは考えられない。なぜならば、ボリウッドには社会的・文化的・宗教的多様性や多民族の平和共存を重視する姿勢がきわめて顕著にみられるからである。これらは、製作年代・ジャンル・テーマを問わず、常に底流にある価値観といってよい。
ハリウッド的な視点から次に驚くのは、インド総人口の13%程度にすぎないムスリムのプレゼンスが、ボリウッドでは非常に高いことだろう。代表的な男性スターからしてムスリムである。いずれも1965年生まれで姓も同じ、80年代末から90年代初めのほぼ同時期にデビューした、アーミル・カーン、サルマン・カーン、シャー・ルク・カーンの3人で、しばしば「3大カーン」と呼ばれる。今回の「ボリウッド4」も当然、この3人の主演作で占められている。
そう気づいたとき、個々の作品の役名やキャスト名を注意深く見るならば、ヒンドゥ教徒やムスリムのみならず、シク教・拝火教・キリスト教などさまざまな宗教を示す名前が入り混じっているのがわかるはずだ。
ボリウッド映画では、ヒンドゥ教徒とムスリムなど異教徒間の友情やロマンスが数えきれないほど描かれてきたし、異教徒の友人同士が互いの寺院を参拝したり、宗教的祝祭をともに祝うシーンも頻繁に出てくる。
また、英国からの分離独立をテーマにした作品も多いが、それによって親族がパキスタンやバングラデシュ(分離独立当時の東パキスタン)に分散された痛みもよく描かれる。これらの描写は、ボリウッド映画人の現実の反映でもあり、ひいては、ボリウッド映画を愛する国民の現実なり、そうありたいと願う理想を反映するものであったりするのだ。
多様性の価値を謳うということは、裏返せば、コミュナリズム(宗派主義)やジンゴイズム(狂信的愛国主義)、ゼノフォビア(排外主義)やイスラームフォビア(イスラーム嫌悪)のたぐいを積極的に排除するということである。これらが醜悪な鎌首をもたげたとき、どのような災厄がもたらされるか。その実体験を、映画人も観客も直接間接に共有している。
実際、この十余年だけをとってみても、インドをめぐる内外情勢はしばしば緊迫した。
9・11米国同時多発テロ事件と米国のアフガニスタン攻撃から、その副産物として一挙に悪化した印パ関係、インド国会議事堂襲撃事件、ジャンムー・カシミール州軍駐屯地攻撃で寸前までいった印パ核戦争の危機、グジャラート暴動、ボリウッドの拠点でもある商都ムンバイなど主要都市を襲ったテロ事件……。
それらを背景に、ボリウッドの映画と映画人は、どのようなメッセージを伝えようとしてきたのだろうか。ムスリムがどう描かれてきたかという点に注目して概観してみたい。
(注1)ただし、言語別に映画がつくられるため、連邦公用語のヒンディ語映画のみならず、ベンガル語・タミル語・テルグ語など地域言語による映画を総計した数字である。
(注2)『朝日新聞』2002年4月1日付朝刊