イスラーム映画の正しいつくり方①

イントロダクション

 中東には、ユダヤ教・キリスト教・イスラームという世界3大宗教それぞれの聖地があります。ひとつにはそのために、たとえば同じムスリムでも、中東出身者が、そうでない出身者に対して優越的な言動をすることも、直接間接にあったりします。
 そんなとき、私の知るバングラデシュ人ムスリムたちは、毒のないこんなジョークを飛ばしています。「いやいや、人類のなかでもとくに問題児が多かった土地柄だから、使徒もひとりじゃ足りなくて、モーゼやジーザスやムハンマドと次から次へ、集中して送られたっていうだけの話じゃないの?」

 本稿は『部落解放』(解放出版社)2013年1月号に書いた論考「イスラーム映画の正しいつくり方  バングラデシュ・パキスタンの秀作に学ぶ」に、最小限の修正をほどこしたものです。2回に分けてアップします。

バングラデシュ・パキスタンの秀作に学ぶ

 2012年9月、米国映画『イノセンス・オブ・ムスリム』(Innocence of Muslims、2012、日本未公開)がイスラームの預言者を侮辱するとして、リビアの米国領事館が攻撃されたのを端著に、激しい抗議行動がイスラーム諸国に広がった事件は記憶に新しい。似たような事件は、今回ほど激烈でないにしても、これまでに何度も起きている。

 表現の自由が差別や偏見を助長する行為まで含むものでないのは自明だが、この種の事件が起こるたびに気になるのは、イスラームやその信徒(ムスリム)に対して、まっとうな批判さえできないような印象が強められることである。とくに、いわゆる原理主義なり狂信主義への批判など、映画メディアで可能なのか。あるいは、ムスリムが共鳴できるような、そういう映画はあり得るのか。

 結論から先にいえば、答えはイエスだ。日本ではほとんど知られていないが、そのような問題提起を、映画メディアを通じて積極的に展開し、ムスリム観客の幅広い支持を得てきたムスリムの監督も、イスラーム圏にたくさんいる。しばしば原理主義者の脅迫や、公権力の上映禁止処分とも闘いながら。
 本稿ではその実例を、ムスリム人口で世界2位のパキスタンと同4位のバングラデシュの代表的な映画を通じて、端的に紹介したい。

ショエーブ・マンスール『神に誓って』

 2007年のパキスタン映画界に、歴代興行記録を吹き飛ばす大ヒットを記録したばかりか、それ自体が社会現象にまでなった作品が現われた。1954年生まれのショエーブ・マンスール(Shoaib Mansoor)監督の第1作『神に誓って』〈Khuda Ke Liye/In the Name of God〉である。

 もっとも監督にとっては、興行収入の多寡や批評家に評価されるかどうかなど二の次である。テレビドラマの制作を多く手がけてきたためか、サブプロットを詰めこみすぎるきらいはあるが、それ以上に伝わってくるのは「これだけは伝えておかなければ」という焦燥感にも似た覚悟と決意だ。

 そのことが最も強く現われているのが、真っ向から原理主義批判をした『神に誓って』である。自国にあっては原理主義に脅かされ、国外に出てはムスリムというだけでテロリスト扱いされるという過酷な板ばさみにおける同時代ムスリムの苦悩を、つぶさに描きだした。

 物語はマンスールとサルマドという兄弟を軸に展開する。2人はポピュラー音楽のデュオとして活躍していたが、サルマドがふとしたきっかけでイスラーム学者のタヒリ師と知り合ったことから、人生の歯車が狂いはじめる。

 タヒリ師に洗脳されていくサルマドは、厳罰を科されるハラーム(イスラームの禁忌)だとして、音楽もTシャツやジーンズも否定するようになり、髭をたくわえシャルワールカミーズ(もともと民族衣装である上衣とパンツ)をまとい、ついにはタリバンに加わってしまう。
 失意の兄マンスールは米国へ音楽留学するが、その矢先に「9・11」(米国同時多発テロ事件)が発生、アルカイダの一味と決めつけられて FBI(連邦捜査局)に不当拘束され、たび重なる拷問で廃人同様にされてしまう。

 監督の姓が兄の名前に反映されているように、この映画はある意味、自伝的な作品である。

 監督はもともと、パキスタン初のポピュラーバンド「ヴァイタル・サインズ」(Vital Signs)のプロデューサーとしても著名だった。ヴァイタル・サインズは、1980 年代から90年代のポピュラー音楽シーンを席捲するほどの人気バンドだったが、90年代半ばから、リードボーカルのジュネード・ジャムシェド(Junaid Jamshed)が音楽活動に疑問を抱くようになる。そして2000年前後には、完全に音楽を放擲して原理主義的な信仰の道へ入ってしまったのである。

 『神に誓って』の公開時、監督はこの衝撃と痛みを語り、ファンであった多くの若者の混乱に触れて、「原理主義によって、すでにじゅうぶんめちゃくちゃにされているこの国に、新たに加えられた大きなダメージを正すのが義務だと考えた」とコメントしている。これが、劇中最大のクライマックス、兄弟に悲劇をもたらしたタヒリ師と法廷で対決するワリー師の台詞に結実している。

弁護人 「しかしタヒリ師は、ジーンズを履いて歌を歌い、西欧ふうの生活をしていたサルマドを、イスラームの装いをした献身的なムスリムにつくりかえたではありませんか。なぜ評価しないのですか」
ワリー師 「神は4大使徒に奇蹟をもたらされた。ムハンマドには聖典『クルアーン』、モーゼには大海を分ける奇蹟、ジーザスには死からの復活という奇蹟、そしてダビデには――音楽。『詩篇』を見てみなさい。神が最も愛でた使徒に、不浄なものを与えるかね? 音楽は唾棄すべきだと預言者が考えていたなら、婚礼をひかえた部族のために、かれらは音楽がとても好きだから女の歌い手を送りとどけてやりなさいと、妻のアイシャに命じるかね?
 ――イスラームふうの装いですと? いやはや、信仰と文化をとり違えるとは、つくづく情けない。時空を超えあまねくもたらされた教えがユニフォームなど要求すると? そういうナイーブな者は、信仰をいただくのがアラスカの凍てつく地で暮らす者だったとしても、薄いシャルワールを穿けなどと言いかねん。
 よいかね、預言者に似せた髭をたくわえ何度もハッジ(メッカ巡礼)に行っていようと、詐欺や密輸で私腹を肥やす、そういう連中が汚れた金でハラルフード(イスラーム式の清浄な食物)を買うほどバカげたことはない。見かけだけをとりつくろう過ちを自覚せよ。若者に対して、イスラームか音楽か、シャルワールかジーンズかといった、誤った選択肢をつきつけるのをやめよ!」

 聖典の引用など、揚げ足を取られそうな部分はしっかりリサーチして裏づけてある。それでも、原理主義勢力から、上映禁止を求める訴訟が提起された。この映画を見ること自体がハラームだというファトワ(イスラーム法学者による勧告)も出された。死刑の脅迫によって、少なくとも3回は国外へ避難しなければならなかった。

 それらを経験したのちに下した決断は、原理主義的家父長制下の女性の差別・抑圧をテーマにした2作目『BOL~声をあげる~』〈BOL/Speak Up〉に着手することだった。そして11年、『BOL~声をあげる~』は前作を上回るメガヒットになった。ちなみに両作品とも、国内屈指の水準を誇る「アジアフォーカス・福岡国際映画祭」で福岡観客賞を受賞している。




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