【読む刺激】『パル判事――インド・ナショナリズムと東京裁判』
「脱神話化」の本格的な評伝
《初出:『週刊金曜日』2011年4月8日号(842号)、境分万純名義》
東京裁判でA級戦犯無罪の意見書を書き、右派勢力から世紀の偉人のごとく「神話」化される一方の、インド代表判事ラダビノド・パル(Radhabinod Pal; 1886-1967)。
ある人物や業績を評価する際、その彼/彼女が属する社会の重大な事象に着目して「その渦中で何をしていたか」を考慮することが不可欠の場合がある。判事世代のインド人なら、英国植民地支配からの解放運動と印パ分離独立(1947年)が、そういう事象の筆頭だ。判事が在京した2年半は、それらが頂点に達した時期でもあった。
にもかかわらず日本では、その面の分析が極端に軽視されてきた。そのため、右派の主張はあえて措いても、判事や意見書の評価はいまだに迷走しがちである。ここに斬りこむのが、本格的評伝とうたう本書だ。
南アジア近現代史を専攻し、判事が副学長を務めたカルカッタ(コルカタ)大学(University of Calcutta)で博士号を取得している1946年生まれの著者が、執筆動機をあとがきで語っている。
日本の右傾化を憂えた数年前、著者世代の研究者がすべきことをしていたら現状は違っていたのでは、と後輩研究者から苦言されたことだという。
そこから、判事の親族やコルカタの法曹関係者へのインタビューを重ね、最も有用だったというベンガル語の『略伝』や『伝記』ほか内外の文献を渉猟。巷間のおびただしい事実の誤認・捏造を正しつつ、〈保守ないし右寄りの立場に共感する広義のナショナリスト〉という判事像を結んでいく。
著者が念を押すように、インドにおける保守・右翼と日本のそれとは異なる。とはいえ、岸信介はじめ現在までの右派勢力が重用して当然と思えるような、判事の政治性であり足跡ではある。東京裁判や意見書の議論に、抜本的仕切り直しを迫る労作。
『パル判事――インド・ナショナリズムと東京裁判』
中里成章=著
岩波新書
800円+税 ISBN978-4-00-431293-2