【続・在留特別許可】実録:成田空港の「秘密の扉」を知った日(1991-1992)①

 本稿は、「実録:在留期間更新許可申請2回目(1991)」①の時期に先行し、かつ並行していた別の体験の書きおろしです。

 バングラデシュの首都にあるダッカ大学の学生だった義弟(配偶者シャヘドの末弟)を、「短期滞在」という在留目的で、日本に招へいしようとした記録です。1991年5月から1992年2月までに当たります。

 「短期滞在」で来日する外国人のうち、最もわかりやすいのが観光旅行者です。いいかえれば、入管法施行規則別表が規定する在留資格のなかで、いちばん取得しやすいのが「短期滞在」です。
 私たちの場合も、遠隔地に住む実家の弟に、ちょっと遊びに来ないかと誘った程度の感覚でした。まさか8カ月も悪戦苦闘する羽目になるとは思いませんでした。

 その間、外務大臣に抗議の文書を提出したり、外務省外国人課課長に念書を要求されたりしましたが、何よりも驚いたのは最後の最後、成田空港での入管(東京入国管理局成田支局)の対応です。
 なお、省庁組織や法制度など、特記ないかぎり、当時のものであることにご注意ください。

国際結婚当事者が板ばさみになること

 1991年のゴールデンウィークを過ぎたころ、外務省から親族訪問目的のビザ(査証)申請に必要な書類のリストを取り寄せた。シャヘドの末弟、ラシェドのためである。

 その年の初め1カ月あまりの南アジア旅行で、私とシャヘドは結婚後初の挨拶も兼ねて、のべ数週間、バングラデシュの首都ダッカのダンモンディ(Dhanmondi)にあるシャヘドの実家に滞在していた。
 ラシェドはダッカ大学の最終学年に在籍中で、比較的時間があることから、家の用事をよくしていた。実家には、通いのメイドも住みこみのメイドもいたが、日常的な買い物など外出や力仕事が伴う家事は、男性が行なうのが当たり前の社会だ。
 ラシェドは、クリーニング店に行ってくれたり(寓居する私たちの衣類を、メイドに洗濯してもらうのは筋でないように感じたし、自分で洗おうとしても家族から止められると思ったので)、足りなくなった取材用テープの購入といった細かい用事や、ダッカ大学キャンパスの案内など、いろいろとサポートしてくれた。

 その彼を、日本に呼ぼうというわけである。
 世話になった礼という意味と、こちらの日常生活をダッカの家族に理解してもらいたいからだ。可能なら家族全員を招きたいところだが、それだけの時間も資力もないので、まずは最も若く、そのぶん異文化に接するうえでの柔軟性もあるだろうと期待した末弟に、日本での日常を経験してもらい家族に伝えてほしい。

 というのも、実家ではテレビの報道番組をよく見ていたが、日本関連のニュースなどまずない。あったとしても政府開発援助関係がらみ、それも無機質なものがほとんど。宅配で主要英字紙のひとつ『Bangladesh Times』(国営、1997年に廃刊)を購読していたが、日本関連記事は質量ともにテレビと似たりよったりである。

 そんななかで、こちらの事情を理解してもらう必要をつくづく感じたのは、シャヘドが両国の価値観にはさまれて、過大なストレスを溜めていくのではないかと懸念されたからだ。いや、彼だけではない。
 結婚以来、義母からの手紙には、私の手紙を待っているとよく書かれていた。私は折々にグリーティングカードなどを送ったが、正直なところ回数は少ない。仕事が忙しいこともあるが、それだけではないのだ。

 共著の単行本『在留特別許可  アジア系外国人とのオーバーステイ国際結婚』(明石書店 1992年初版、2002年新版)でも、シャヘドが触れているように、彼の家族に限らず送りだす側の人びとは、移住先である外国の否定的な話など聞きたくないのである。
 けれど私たちの現状といえば、結婚生活を始める以前から、手探りで闘ったり越えねばならない法手続きや社会慣習的な問題に次から次へと直面して、常に神経を張りつめている。そういう心情からすると、あたりさわりのない辞令など書きたくない。よって手紙を出すのが億劫になる。
 他方、家族にはそういう状況がほとんど見えないわけだから、なぜ手紙ぐらい、もっと書いてくれないのだろうと思う。インターネットなど影も形もない当時であればなおさら、日本で考える以上に便りは望まれていた。
 だが、私も疲れて虫の居所が悪かったりすると、少しはこちらの状況も理解してもらいたいという不満を、ほかにいないのでシャヘドにぶつけてしまう。そのためつまらない言いあいになったりする。彼のほうも仕事が本格的に忙しくなってきたため、手紙をあまり出せなくなった。だから家族の不満は彼にも向かう。

 あるいはこんなこともある。
 バングラデシュ第2の都市、商都チッタゴンに住む彼の従妹(母方の叔父の娘)で、カレッジに通う学生のジュリー(ちなみに母親はヒンドゥ教徒だ)から手紙が届く。ネガフィルムが同封されていて、むかし撮った気に入りの写真なので現像して送ってほしいと書かれている。
 いとこという存在は、バングラデシュ人にとって、実のきょうだいとほぼ同義の場合が多い。ジュリーの父親は事業を順調に営んでおり、自身もアルバイトで小学生のチューター(家庭教師)をしているから、今回のような手紙は、「兄」に対する一種の甘えの表現である。航空便代のほうが現地での現像代より高くついているのだし。
 私は自分でできることをひとに頼むのがきらいな性分だから、こういう甘えにはムッとする。とはいえ、向こうの感覚としては非難するような行為でないこともわかる。

 しかし、些細な事柄でも積もり積もると負担になるものだ。とにかく、ラシェドに日本の生活のありのままを見てもらい、家族に説明してもらうのが何よりと考えたわけである。
 このころ、ラシェドからは私に宛てた手紙もよく届いた。どうも、日本でしかるべき理工系の大学院に進み、できれば日本で就職をしたいという希望をもっているようである。バングラデシュは、日本のように新卒者が横並びで就職する国柄ではない。とはいえ、長い軍政時代を経て民主化したばかりの国情で、ことに大卒以上の高学歴者の就職難はすさまじく、ラシェドも卒業後の進路は決まっていなかった。だから漠然とした希望であっても、かなえる可能性があるなら、私たちにも異論はなかった。

「短期滞在」ビザのための必要書類

 ラシェドが親族訪問目的のビザ(査証)を取るには、まず私たちが必要書類をそろえて彼に送らなければならない。
 問い合わせた外務省から送られてきたのは「VISA FOR VISITING RELATIVES」というA4判の指示書で、身元保証人が用意すべき書類が日英両語で書かれている。自分たちに当てはまると思えた、一般的な親族招へいのための必要書類は次のとおりだ。

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