私個人のお墓がほしい
お盆に草むしりに行った。
もとへ。
お盆にお墓参りに行った。
といっても、母がお墓の中にいるという感覚がないから、
実際には草をむしってお花を変え、墓石を磨くという作業に行く
というのが正直な私の中の感じなのだけれど。
旧姓が加藤なので、実家のお墓の正面には
加藤家と書いてある。
それだけ。
母の名前は脇にあるんだっけ?と脇を見たら
いつ建立という墓石を作った日と、父の名前が書いてあった。
あれ?
じゃぁ、名前は?
墓石の裏側の隅っこに彫ってあった。
墓石のすぐ脇に茂みがあるので、見えにくい。
母は、戒名を拒否したので、本人の名前と死亡日が刻んであった。
父は……どうするんだろうか、と思った。
あれこれ気にする人だから、きっと(それなりのお支払いをして)
それなりの戒名をつけてもらうんだろう。
母の名前の隣に、いくつも漢字の並ぶよそよそしい戒名が並ぶと思うと
なんだか妙な感じだ。
戒名というのも不思議なものだ。
だって、死んだ日がわからなかったら、誰がそこに埋まっているかさえ
わからなくなっちゃうんだから。
いや、わからなくさせちゃうんだろう。
家の中に埋没するというのか、大事なのは加藤家の墓であって、
そこに入っている人の生前の名前なんかどうでもいい。
死んだ後に、その人の名前を彫らずに別の名前つけて埋めちゃうって
その人の人生の否定だよなぁ。
いや、人生を否定するというよりは、
個人の前に家制度が優先するというべきか。
以前友人とたずねたアメリカの墓地は、個人のものだった。
墓碑銘には生年月日と没年月日、名前の他に
その人がどんな人だったか、若くして亡くなった人だと
Beloved daughterみたいな言葉が添えられていたり、
音楽関係の人だと♫やピアノの絵があったり。サプンツァの陽気なお墓ほどでなくても、なんとなく、そこに埋められて
いる人の人生の片鱗と、家族の哀しみが伝わってくる墓碑銘。
どんな人生だったんだろうと思いながら、
墓碑銘を読むのはある意味楽しかった。
家が全面に出るお墓とは大分違うなぁと、
母の実名の脇に戒名が並ぶであろう墓石をみながら気がついた。
その時、初めて、この家制度の権化みたいなお墓はイヤだと思った。
佐光家だの加藤家だの
長男の嫁だの長女だの、本籍をどうするだの、名家でも何でもない
下々の家でも、家長制度ののろいみたいなものは残っている。
やっとそこから自由になりつつあるのに、死んで逆戻りなんて
イヤだなぁと思ったのだ。
それまで、漠然と自分の中にあった「私個人のお墓」を手配しよう。
そんな気持ちになった。
本当は無縁仏でもいいくらいだけれど、共同墓地でネームプレート一つ。
そこに遺骨を納めて、後は、お墓の草むしりも掃除もなし。
そうしよう。
お墓参りに行って、母の墓石を眺めながら、そう決めた。
家制度のお化けみたいなお墓とはさよならだ。
得意技は家事の手抜きと手抜きのためのへりくつ。重曹や酢を使った掃除やエコな生活術のブログやコラムを書いたり、翻訳をしたりの日々です。近刊は長年愛用している椿油の本「椿油のすごい力」(PHP)、「家事のしすぎが日本を滅ぼす」(光文社新書)