
『ぼくの火星でくらすユートピア⑷』
《ユートピア》——望めば与えられる世界
砂を払っているものとばかり思っていた相棒のワイパーは、いつの間にか海の中を漂っていた。
纏わりつく魚眼の景色の中で、2本の黒い縦線が揺れ動く。
ガッタン、ゴットン、ガッタン、ゴットン
「相棒よ。こんな場所でもお前は動こうとしているんだな。僕もどうにか抜け出さないと」
僕はアクセルペダルを精一杯踏み込んだ。相棒は海底の砂を巻き上げながら、ゆるゆると動き出す。
相棒に必要だったのは、僕の、たったこれだけの僕の、合図だったのかも知れない。
そう、たったこれだけの僕。
社会人としての存在意義を失ってからの僕は、自分の存在意義さえも疑っていた。誰からも必要とされない僕に、生きる必要があるのか。誰とも何にも噛み合ってない僕に、何の価値があるのか。
虚無に問う、何も返ってはこない。
零れた歯車は目障りになるばかり、塵として掃かれるのが落ちだ。そしてそこにあったことすら思い出されず、誰の記憶にもない。
誰の心の中にも、僕はいない。
だから僕はこいつを選んだ。
何度裏返しても、どんな文脈を辿っても、僕と相棒の相互価値は等しいからだ。僕は相棒が無ければ進めず、相棒も僕が無ければ動けない。
目の前は舞い上がった砂埃で暗く覆われている。
「さあ、相棒よ。この息苦しさから逃げ出そう」
何も見えないのではなく、何も見たくないから、いつでも僕の目の前は真っ暗だったんだ。
それでも僕は、この暗闇から逃げ出したくないと思っていた。だからここから出なければならないのだ。
僕が逃げ出そうとしない場所は、僕の怠惰に他ならないんだから。
「さあ。相棒よ。もうすぐだ。先は。もうすぐ」
相棒は僕を乗せ、勇猛果敢に水と戦っている。
一方僕は、フロントガラスにくっついてくる僕の記憶と戦っていた。
僕を無視したイッカク、、、僕を脅したタコ、、、僕を追放したイカ、、、
そして僕を見限った僕。
それでも相棒は僕を乗せて進む。僕も一緒に進まなければいけない。進まなければ、取り残されてしまうからだ。
この深い海の中に。この暗い海の中に。
僕はハンドルにしがみついた。
前を見る度、僕の胸はきつく締め付けられた。
苦しい。
苦しい。
苦しい。
掻きむしりたくなる苦痛、息の詰まる様な恥辱、藻掻く様な有様。
逃げたい。
逃げたい。
しかしそんな道は無い。
ここは前進しか許されない1本道。
進まなければ、逃げることはできない。
「ここから出なければ」
僕は悲鳴を上げながら、アクセルペダルを押し込む。
足元で、相棒の唸り声が鳴った。
進め。
進め。
進め。
いつか僕らは浮き上がっていた。海底の砂ばかりを撒き散らしていた相棒の車輪は、今は青い水のレールを辿っている。
ペダルを踏む。
泡ぶくが僕らを包み込む。
ゆらゆら、ゆらゆら
待っていたのは、光。
溢れる。
光がそこにあった。
《ユートピア》──もし、もしも、もしも、この物語が本当であってくれたなら、僕が実際であってくれたなら、向き合った僕が事実であったなら
濡れた服を乾かす暇も無く、僕らは止まった。
「ここのコンクリートは綺麗だ。なあ、相棒」
僕は相棒を撫でた。
「相棒。お前はまだ走れるか。僕は、もう一度」
ポケットの中から取り出すのは、マッチの箱。
「相棒。お前はまた走れるか。僕は、もう一度」
擦れば火が付く。火なら、僕らを乾かしてくれるだろうか。
「扉は閉めたか。次に扉を開ける時。先に進む道しるべ」
僕はマッチを落とす。火は一瞬にして燃え広がる。
「次に扉を開ける時」
先に。