
『ぼくの火星でくらすユートピア⑵』
《ユートピア》──もしも、それが、本当のことであったなら
遮光カーテンの隙間から漏れ入る朝日。
ネクタイを締める、シュッと鳴る音。それが僕が、この人生の中で一番嫌いな瞬間だ。二番目が電車に駆け込む時。三番目がタイムカードを切る時。
つまり、ほとんどの人間が、大人になれば囚われることとなる、人生の義務を果たす時間。惨めな思いをするのは、いつも昼間だ。
それでも僕の家には、僕のことを見送り、そして出迎えてくれる犬がいた。要するに、僕が飼っていた犬、ということになる。
毎日昼間になると色々な人からなじられていた僕だったが、あいつのお陰で、家にいる時だけはお代官様になれた。
「おいポチ野郎。僕がボールを投げてやっているんだ。取ってきたらどうだ」
「おいポチ野郎。僕が飼ってきてやった餌を食べねえとはどういう了見だ」
「おいポチ野郎。今は僕のいない昼間じゃないんだから寝なくてもいいじゃないか」
「おいポチ野郎。忙しい僕がこうして呼び掛けてやってるんだから、返事くらいしてくれたっていいじゃないか」
「おいポチ野郎──」
数年前、僕が会社にいる時間だった。あいつは、僕に、何にも言わぬまま、遠く、逝ってしまった。
可哀想な奴だったな。あいつは僕しか知らなかったんだから。幸せだったのは僕だけだった。
ポチが食べないまま残していったカリカリフードは、貧しい僕の胃に収まった。黄身を落として食ったら、泣くほど美味かったことは覚えている。
あの頃の僕はもはや、この空白を満たしてくれるものならなんだって、腹に放り込んだに違いない。
あれを思い出せば、ここの生活は大変楽だ。僕は飢えを感じないし、食うのはガソリン代だけでいい。
いいや、ガソリンさえ、もう僕には。
アクセルペダルとクラッチペダル、ギアチェンジとエンストを繰り返しながら走っていた僕「ら」たったが、向かい風にとうとう行き詰まった。
相棒には、そして僕には、風に抵抗できる力なんて無かった。
僕は扉を開く。僕が押してやらなければ。
「くそっ! いつまでもグウタラしやがって! どこまでもムカつく野郎だ」
そうぶつけたのは、どちらに向かってなのだろうか。
「グズグズしてないで、僕が押してやってるんだ! 前に進めよ! 」
しかし相棒はちっとも進む気が無いらしい。でも僕はそれが安心した。
こいつはひとりで行ったりしない。
「よし、相棒。俺が押してやってるんだ。少しは動いたらどうだ」
そう張り切ったのもはじめの内。
嗚呼、僕は、どうしてこう、計画性が無いのだろうか。体力の温存だと家に籠ってばかりいたせいで、息がまるで続かない。
お陰で相棒は未だ風に詰まったまま、むっつりとしてしまっている。
「おお、相棒よ。僕だってこんな不細工な格好は嫌なんだ。お願いだからその気になっておくれよ」
コンクリートの剥がれた道は僕たちには厳しすぎる。前に進むしか僕らに道が無いのに、それができないのだ。
絶望に暮れた僕は、ガクガクと震えるしかなかった。
もう、ここで、止まってしまおうか。
そう考えていると、気まぐれな追い風が吹いた。風は相棒を気持ち良く前進させてくれた。
僕も歓喜に叫びながら、相棒に乗り込む。なんだ。僕らはまだ見放されてはいなかったのだ。
「いやっほお」
ぐちゃ。ぎゅ、ぎゅ、ぎゅ、ぎゅ、ぎゅ。
相棒は、不快な音を轢いた。
閉めたばかりの扉を開く。
僕は、呆気なくタコを轢いていた。かなり大きな図体の奴だ。しかし僕は、気流に目隠しされていて、見えていなかった。
奴は酔っぱらっていた。酔っぱらって、僕の道を布団と間違えて寝たらしい。
確かに、この道は、ぼんやりした道だ。しかし道は道だ。そして「僕の」道なんだ。だが奴は、一丁前に文句を言ってきやがった。
他人の道に入って来たのは、そっちじゃないか。僕は相当に腹が立ち、奴に向かっていった。
しかし、案の定、ちんけな僕は、ヘラヘラして何も言い返せやしなかった。
相棒は奴をかなり大胆に轢いてしまったらしい。重症だった。2本目の腕と8本目の腕が骨折、5本目の腕は壊死で切断だった。
僕は切り取られた奴の足の火葬費用も払った。その上、火葬場へも付き添うこととなった。
強い焚火で煙りに化してゆく奴の足の薫りは、何とも美味しそうであった。僕は思わずお腹を鳴らしてしまい、坊さんがいなくなった後で酷くボコボコにやられた。
奴からやっと解放され、扉を閉めた後。僕は鉄の味を舌に絡ませながらブレーキハンドルに手を掛け、気がついた。
タコにも主張が与えられるのに、僕の意見は点で無視であったこと。
其の瞬間、悔しさが胃液と共にジンジンとせり上がってきた。過ぎた時間の失態が、遣る瀬無い。ジッとしていれば、自らが壊れてしまいそうで、僕は暫く脚を踏ん張っていた。手を握り締め、ああっと声を出さずにはいられなかった。
悶え悶え、この気持ちが収まるまでの地獄の間。
僕の頭の中では、延々と、間抜けな僕の言葉が回っていた。
「あのですね。ええっと、ええ。僕はですね。相棒、ええっと、へへへ、この車のことですがね、違います。あなたを笑ったんじゃないんです。僕はその、へへ、全くですね。こう。喋り慣れていないものですからね。あの、ええっと、ええ、ええ、もう、それでいいです」