心貧しき者
ここ数日、「山上の垂訓」が何度も頭をよぎり、改めて読み返していました。
するとどういうわけか、ずっと前に購入して全然読めていなかった「終わりなき愛 イエスが語った奇跡の真実」(分厚い!字も微妙に小さくてぎっしり!)を読んでみようとやる気を出して、でもやっぱり読まずに(読まんのか~い)テーブルに置きっぱなしだったのをようやく手に取り、ランダムにページを開いてみたら、げっ。
まさしくそこにあったのは「山上の垂訓」の文字。もう最近はこのようなシンクロばかり。自分の波長の持ちように気をつけねばなりませんね。
以下、本からの引用です。
長いので中略して続けます。
私も以前に「心の貧しい者ってどういうこと?」と疑問を持っていたときに、どこかで「心の中に余計なものが入っていないこと。幼子のように素直なこと」のような説明を読んだか耳にして、なるほど。と思っていたのですが、今、ネットで探しても、そんな説明をしているサイトが見あたりません。英語でサーチしてみたら、オーソドックス・チャーチ・イン・アメリカのこの記事が最もしっくりきたので機械翻訳して紹介しますね。
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[心の貧しさ]
「心の貧しい人々は幸いである。この第一の掟は、すべての人の霊的な進歩と成長のための基本的な条件である。他のすべてに先立って、もし人が神の人生を生きたいと望むなら、その人は霊的に貧しくなければならない。
霊的に貧しくなるとは、自分が神から受けていないものは何も持っていないこと、神の恵み以外には何もないことをはっきりと認識することである。この祝福された貧しさは、聖マタイの福音書では "霊的 "と呼ばれている。霊的な貧しさとは、神の前に人間が完全に空虚で開放されている状態であり、主に霊のもの、すなわち、理解や洞察、意志や願望との関係においてである。
霊に貧しくなるとは、自分自身の霊の力に対するあらゆる自尊心と信頼がなくなることである。自分の考え、意見、欲望への依存から解放されることである。自分の心の「むなしい想像」から解放されることである(エレ23.17、ローマ1.21)。霊の清貧の完全な模範である聖なるおとめマリアが、その壮麗な歌の中で歌ったように:
"神はその腕で力を示された、
その心の思いのままに、高ぶる者を散らされた、
力ある者をその座から下ろされた、
へりくだった柔和な者を高くされた、
飢えた者を良いもので満たされた、
富める者を空しく追い払われた(ルカ1.51-54)"
イエス御自身も、肉体だけでなく霊的にも貧しかった。主は「頭を置く所」(マタイ8.20)のない貧しい人であっただけでなく、その物質的な貧しさは、完全な霊の貧しさの直接的な結果であった。
"まことに、まことに、あなたがたに言いますが、御子は自分の意志では何もできません。私は自分の権威では何もできない.(ヨハネ5・19、30)"
霊的な生活に踏み出そうとするならば、あらゆるものを捨て、霊的に貧しくキリストに従わなければならない。霊的に貧しくなるとは、簡単に言えば、この世の罪深い欲望から完全に解放されることである。
”もしこの世を愛する者がいるなら、父を愛する愛はその人のうちにない。この世にあるすべてのもの、すなわち、目の欲や人生の誇りは、父のものではなく、この世のものだからです。しかし、神のみこころを行う者は、永遠にとどまるのです(1ヨハネ2.15-17)“
神のみこころの最初の啓示は、神の被造物は霊的に貧しくなければならないということである。この霊的態度の違反が原罪であり、すべての悲しみの源なのだ。
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さて、以上を確認して「うむ。」と本を閉じようとしたところ、
「えっ」
「は?」
「『は?』じゃなくて。シェアしないの?」
「えー?いや、うーん、だって、連続投稿とか、うざがられそうだし」
「..…」
「..…(このまま聞こえないふりをして、そのままにしておくこともできる)…」
「…あなたは『明け渡す』と言っておいて、その言葉の意味を」
「ァ‘‘ァ‘‘ーーーーー!わ‘‘か‘‘り‘‘ま‘‘し‘‘た‘‘あ‘‘!!!」
という会話が何者かとの間で、あったとかなかったとか。
いま、心になかなかのヘビーさで響いているのは、「終わりなき愛」のこの部分。「スピリットを分断しようとするたびに、スピリットに“損害を補償する”ことに同意したことになります。」
こうして記事にしてみることで、自分にとって何が学びかが、より明確にくっきりと浮かび上がってきます。
☆読んでくださって、どうもありがとうございました☆